キリスト教の特徴を簡単にいえばイエスの「死」「復活」がキモのユダヤ教
キリスト教は「イエスを信じる」宗教になります。
で、キリスト教の特徴を簡単にいえば【イエスの「死」と「復活」が教えのキモのアップデートユダヤ教】ということになります。
最初にザックリ解説すると、
- キリスト教はユダヤ教「旧約聖書」の預言に基づいている
- イエスの言行(中でも死と復活)はあらかじめ決まっていた旧約聖書の預言の実現(神の計画)だった
- イエスの死・・・ユダヤの民(人類)の罪をあがなう
- イエスの復活・・・イエスは死後、復活し、肉体のまま天国へ往き、いつか肉体のまま再臨して、イエスを信じていた人達を全員救う(終末の日、最後の審判、新世界創造、千年王国)
- イエスは「死」と「復活」によって、ユダヤの神の右隣に座る救世主になった
- だからイエスを信仰すれば、罪ははらわれて、死後、天国に往ける
こういうことになります。この中でもイエスの「死」と「復活」が極めて重要になるわけですね。この2つをユダヤ教の旧約聖書に基づいて解釈します。
これがキリスト教のキモになります。で、てか、イエスの「死」と「復活」を、旧約聖書で解釈して作られているのがキリスト教です。
なのでこのキモに相当しない教えはすべて「異端」になります。旧約聖書に基づいて「死」と「復活」を解釈していないならば、すべて「異端」です。火あぶりの処刑対象になります^^;
聖書を読むとキリスト教がわかる
イエスの「死」と「復活」を旧約聖書で解釈したのがキリスト教です。後述しますがイエスに一度も会ったことがない「パウロ」が作った宗教です。
で、そんなキリスト教(パウロ教といってもよい)の特徴は聖書を読むとわかります。「使徒言行録」をはじめとした各種の「書簡」にはキリスト教の教義の原型が伝承されています。
くどいようですが、キリスト教は、イエスの「死」と「復活」を旧約聖書(ユダヤ教)で解釈する点がキモです。
最重要ですので再掲しますが、
- イエスの死・・・ユダヤの民の罪をあがなう
- イエスの復活・・・イエスは死後、復活し、肉体のまま天国へ往き、いつか肉体のまま再臨して、イエスを信じていた人達を全員救う。
この2つがキモ。つまるところキリスト教とは、イエスを信じれば、聖霊の力によって罪汚れはすべて無くなり、自分が亡くなった後、必ず天国へ往ける(救われる)という信仰。
で、なんでこういう教義になっているかといえば、イエスの死と復活は「旧約聖書の預言」にあったことで、預言を当てはめた解釈が元になっていかるからですい。
が、ここがキリスト教のややこしいところ。説明にはある程度の文章なり言葉を要します。ややこしい。
キリスト教の基本教義とは?
で、キリスト教を理解するためには、新約聖書の「使徒言行録」「ローマ信徒への手紙」「書簡」を読むのがおすすめです。これらにはキリスト教(パウロ教)の教義の原型が載っています。
で、具体的にどこを読めばよいかといえば、
- 使徒言行録2.22-42 ペトロの説教
- 使徒言行録10.34-48 ペトロの説教
- 使徒言行録13.13-52 パウロの説教
- ローマ信徒への手紙5.12-20 原罪とゆるし
- 各書簡の冒頭 パウロ教の概要が述べられている
これらですね。ここら辺りを読むと、キリスト教(パウロ教)のアウトラインがわかります。教義のツボがわかります。
で、「使徒言行録」などには、キリスト教を簡単に説明したペトロやパウロの説教があります。かいつまでポイントを説明すると、
イエスは天地創造の前から存在していた神の子
◆イエスは天地創造の前から存在していた神の子だった
- イエスは、神から遣わされた者。
- イエスは、奇跡や不思議な業(わざ)、しるしを示した。これは神の子だからできること。
- イエスは、天地創造の前から存在していた
イエスの「死」と「復活」こそ福音
◆イエスの「死」と「復活」こそ福音だった
- ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺してしまった
- しかしイエスが処刑されたのは最初から決まっていた「神の計画」
- 神はイエスを「死」の苦しみから解放し「復活」させた
- 神は、十字架で亡くなったイエスを復活させて主(神)とした。メシア(救世主)とした。
イエスの「死」は人類が持つ原罪からの解放
◆イエスの「死」は人類が持つ原罪からの解放だった
- アダムとイブは、たった二人でユダヤの民(人類)の原罪を作った
- イエスは、たった一人でユダヤの民(人類)の原罪を晴らした
- 十字架でイエスが亡くなったことは、アダムとイブが作った人類の原罪を晴らすことだった
- イエスの死はユダヤ人(人類)の「罪のゆるし」だった
- アダムとイブの話しから、このように解釈
イエスの「復活」は預言されていた真実
◆イエスの「復活」は旧約聖書で預言されていた真実(神の計画)だった
- 預言者ダビデは、イエスについて「彼は陰府(よみ:死後の世界)に捨てておかれずに、その体は朽ち果てることがない」と預言していた
- ダビデはキリストの復活について以前から知っていた(預言していた)
- そもそも「神の計画」であるし、イエスが死に支配されたままでいるはずがない
- だからイエスは肉体をもったまま復活したし、本当の話しである
- ダビデの預言から、このように解釈
イエスの復活によって「永遠の命」への道筋が開かれた
◆イエスの復活によって「永遠の命」への道筋が開かれた
- イエスは復活して「永遠の命」を手に入れた
- 人類の原罪を晴らし、人類が「永遠の命」を手にする道筋をイエスは切り開いた
- またイエスは子々孫々まで救う「聖霊」を遣わす約束をした
- だから父(神)と子(イエス)と聖霊が大切
イエスは肉体を持ったまま天国で永遠に生き続けている
◆イエスは肉体を持ったまま天国で永遠に生き続けている
- イエスは肉体を持ったまま天国に昇天した
- イエスは天国で永遠に生き続けている(今も生きている)
世界が消滅する「終末の日」にイエスは再びやってきて信者を全員救う
◆世界が消滅する「終末の日」にイエスは再びやってきて信者を全員救う
- しかし終末の日(最後の審判の日)にイエスは再臨し、イエスを信じない人類を裁き、信者を救ってくださる
- そのとき、私たちもイエスと同じように復活して天国へ往く(永遠の命を手にする)
- これぞ「神の国」の福音
- イエスを信じるものは義(正しい)とされる
この通りです。
これがキリスト教のアウトラインです。中でもダビデの預言が核にあります。
イエスの「死」が贖罪なのは、アダムとイブが作った原罪の帳消しという解釈。イエスの「復活」が救済なのは、ダビデの預言を元にした解釈。
このように一言いえば「物語」です。ストーリーです。
救済物語を信じるのがキリスト教
で、このような旧約聖書と預言による物語、ストーリーを信じるのがキリスト教です。
瞑想のように心が変わるとか、良くなるとかはまったく関係ありません。心が浄まるというのもありません。祈りは二次的なものです。
このイエス救済物語を信じて、理解が変わることを回心(かいしん)といっています。キリスト教信者になります。新生(しんせい)または再生したといっています。
これがキリスト教なんですね。「そんなバカな」と思うかもしれませんが、いえいえ、これが本当にキリスト教のキモなんですね。ユダヤ教の旧約聖書に基づいて無理クリに当てはめたもとい(失礼)解釈したのがイエス救済物語。
これを信じないと、皮膚をはがされたり、火あぶりの処刑になったり、水責めの刑に処せられるわけですね(これらは中世の頃、マジで行われていた)。
で、このようなキリスト教を理解するためには、まず「使徒言行録」や「書簡」を読むのがおすすめになるってことです。
ただし、使徒言行録は小説風・文学風に書くクセのあるルカが書いています。話しを相当に盛り込んでいます。
使徒言行録は文学作品という前提で読んでいくのがよいかと思います。人間ルカが作ったフェイクが相当に入ったラノベ小説です。
キリスト教は解釈の宗教
このように、キリスト教は実のところ「理解の宗教」「解釈の宗教」だったりします。「イエスによる救済物語を信じる宗教」ですね。
決して「体験の宗教」ではありません。心が浄らかになるのが狙いではありません。イエスによる救済物語を信じることがキリスト教です。聖書を読めば、こうなります。
しかも「ユダヤ教」の延長にあります。旧約聖書の解釈を元にして教義を作っているからです。なので「ユダヤ教のアップデート宗教」ともいえます。
キリスト教はいろいろとややこしい。一筋縄では理解できません。成立過程への理解もややこしい。
お手軽な書ではよくわからなかったりします。聖書を読み、キリスト教史を知り、踏み込んだ書籍を読んで初めてよくわかるようになったものです。
キリスト教はパウロが作った宗教
しかもこのようなキリスト教は、イエスが作った宗教ではないんですね。パウロとペテロ(特にパウロ)のアイディアに基づいて作られた宗教だったりします。
イエスに一度も会ったことがない「パウロ」が作った新興宗教。イエスとは直接関係がありません。教義もパウロがほとんど作っています。
キリスト教はパウロが作ったユダヤ教(ファリサイ派)のアップデート宗教だった
キリスト教は、いわば旧約聖書の預言に基づき、イエスを御輿に担いで作った「ユダヤ教のアップデート版」ともいえます。
実際のところ、驚くことに生前のイエスが言ったことは、ほとんど引用(採用)されていません。
隣人愛はユダヤ教の教え
たとえば有名な「隣人愛」の概念は、旧約聖書がルーツです。なんとユダヤ教の教えになります。有名な「神を愛すること、隣人を同じように愛すること」はイエスの言葉ではなく、ユダヤ教に伝わる教えだといいます。
このことは田川建三氏の「イエスという男」、p34「五 イエスは愛の説教者ではない」に説明があります。
キリスト教を作ったパウロは「愛」の大切を言っていますが、その「愛」は一般的な倫理として語られています。イエスの言葉や、たとえ話は、実際のところほとんど引用されていません。
パウロが作ったキリスト教では、イエスは「旧約聖書の預言を成就した人物」として御輿に担がれたような扱いになっています。教義そのものもパウロがほとんど作成。
これがキリスト教の本当のところだったりします。
イエス・キリストの本当の教えとは?隣人愛?実は律法と親切心or万人が神の子
イエスの復活は本当?
ちなみに「イエスが復活した」というのは、尾ひれが付いた伝聞(噂)から出てきた話しじゃないかと思います。
昔、「口裂け女」とか「人面魚」の噂話が、真実であるかのように言われていました。が、実際はデマだったことがわかったものです。
これと同じで「イエスは復活した」という噂話が広まって、あたかも事実であるかのようになっていってしまい(収集がつかなくなった)、そこに旧約聖書のダビデの預言などを当てはめて解釈し、「イエスは肉体のまま復活した」といったものの、引っ込みがつかなくなったというのが本当のところじゃないかと思います。
2000年前のことですので、情報の吟味も怪しかった(できなかった)可能性もあります。仮死状態でなければ、亡くなった生命が復活するというのは考えにくいですね。
仏教では、いったん死亡した生命は、その想念は肉体から離脱して、別の生命存在になることを言っています。仏教教理に鑑みれば、イエスの復活は考えにくい。
冷静になって判断すれば、イエスの復活はデマから出てきたものの、引っ込みが付かなくなったため強引に押し通した「作り話」でしょう。
なお「イエスの復活」は、後世の追加であるといいます。キリスト教神学では200年前から分かっていることであり、バート・D・アーマン、田川建三氏も指摘しています。
キリスト教の理解は難しい
キリスト教のことは聖書を読んで初めてわかったことでした。それまではふわっとした感じで「なんかキリスト教っていいよねー」くらいにしか思っていませんでした。
ところがガッツリと勉強すると、想像していたのとはまったく違いました。
この1ケ月以上はキリスト教にドップリ。聖書を完読。キリスト教史の本も完読。その他の書籍も怒濤のように読みあさったものでした。おかげでキリスト教のことがかなりわかるようになりました。
しかしキリスト教は「理解・解釈の宗教」です。なので資料などを怒濤のように読みこなして、自分の頭の中で整理しないとうまく理解できません。
様々な宗教に触れてきましたが、キリスト教が最も厄介でしたね。ややこしい。複雑。
キリスト教は実のところ複雑怪奇です。「理解・解釈の宗教」なので、理解できるまでが大変。
しかも聖書にはドギツイ言葉、差別、暴力的、排他的、侮蔑的な言葉も多々出てきます。心が萎える、苦しくなる読み物です。キリスト教の理解は、ハードルの高いところがあると思います。
キリスト教は、見た目は「イエスをシンプルに信仰する」かにみえても、本当は複雑怪奇。旧約聖書の理解が欠かせません。言葉もキツイのがある。実は難しい。いろんな意味で難しい。キリスト教を勉強して、こういうことが初めてわかった次第です。
聖書はメンタルに悪影響を及ぼす点に注意
ちなみに聖書は(また別の機会に書きますが)、ドギツイ言葉や表現、極めてネガティブな言葉、暴力的、差別的、呪いの言葉などが多々あります。
2000年前の人々の感性に基づいているんでしょうが、現代人には不適切です。
聖書が神の言葉だと信じて読むと、感受性の強い人はむしろメンタルを病みます。聖書は人間が作ったフェイクが入り交じったプロパガンダ書です。
こうした考えは、アメリカの神学者バート・D・アーマンも言っています。聖書は「作品」と思って読むようにしたほうがいいですね。
キリスト教の学び方
で、理解するまでが大変なキリスト教なんですが、おすすめの学習の仕方があります。それは、
- 聖書(新共同訳)を完読する・・・多くの教会が新共同訳を使用。新改訳はカルト系が愛好しているとの話しもある。
- キリスト教史を完読する・・・藤代泰三氏のはわかりやすい。しかしクリスチャンであるため鋭い突っ込みはなく、擁護する所がみられる
- 適宜、必要な専門書を読む・・・バート・D・アーマン、田川建三氏の著作物はおすすめ
このように学んでいく進め方ですね。初めてキリスト教に触れる方は、これを参考にしていただければと思います。
キリスト教本の多くは協会関係者が書いていますので、どうしても突っ込みが甘くなりがちです。キリスト教が迫害された理由や、中世の十字軍の蛮行などもやんわりと、また真相を突くことなく述べてしまう傾向があります。
ですのでキリスト教から距離を置いているバート・D・アーマンや田川建三氏の著書を読むのがおすすめです。
信仰によって事実を歪めてしまうことはよくありませんね。やはり「事実は事実」として認めていく必要があるでしょう。それが誠実さといものですね。
まとめ~祈りが大切
キリスト教を理解するのはなかなか大変です。
しかし私としては、シンプルに「祈る」でいいんじゃないかと思います。キリスト教では「とりなしの祈り」といっているようですね。
で、イエスとかも関係なく、シンプルに「祈る」でOKじゃないかと。「祈り」という実践こそが大事じゃないかと。
それにしてもシンプルに思えたキリスト教ですが、実は複雑怪奇だったと。で、聖書をめぐって侃々諤々な解釈もあって、探偵小説並の謎解きの世界だったりします。
とにもかくにも複雑な世界、それがキリスト教。思っていた以上に複雑な宗教ですね。
勉強するまでは、キリスト教とは「イエスの教え」や「イエスが残した実践」に基づく宗教と思っていたんですね。が、実はまったく違いました。そうではなかった。
キリスト教は、イエスに一度も会ったことがないパウロが作った宗教で、旧約聖書(ユダヤ教)の預言をイエスの「死」と「復活(してであろう)」に当てはめて解釈し、そのイエスを御輿に担いで作り上げたパウロ教だった。
驚き一杯のキリスト教ですが、時間のあるときにボチボチと学び続けていこうかと思っています^^