キリスト教で聖霊体験が起きるには思考と妄想を克服する必要がある

キリスト教の実践では聖霊体験ととしなしの祈りが大事だが・・・

キリスト教。

キリスト教は東方、西方(カトリック)、プロテスタントといった具合に大きく3つの分派に分かれています。プロテスタントも多数の分派があります。

で、私は今までキリスト教にとりかかったことが何回がありました。が、実は何度も途中で断念したという過去があります^^;

ところが今年になってキリスト教と縁があって、気になり始めて、実は「聖書」を完読。

で、キリスト教は「聖書」を完読して、はじめて「どういう宗教なのか」がわかります。

今年になって、キリスト教とは「聖霊」「とりなしの祈り」がキモであることを聞きました。

聖霊や「としなしの祈り」を知ると、これはこれでキリスト教の理解が進むのですが、やはり「聖書」を読むことで、キリスト教のことが、本質的なところからわかるようになります。

しかし聖書を完読すると、「聖霊」とか「とりなしの祈り」は、なんとオプションなことがわかります。

聖霊体験が起きるには思考と妄想を克服する必要がある

キリスト教において重要なのはユダヤ教的な理解や解釈だったりします。そういう意味で「聖霊」や「祈り」は二次的なものだったりします。

キリスト教はややこしい。

二次的なんですが、聖霊体験は重要。実践上は、聖霊体験が重要になります。

で、聖霊体験が起きるためには、思考の強さや妄想を超える必要があります。

キリスト教はややこしい

キリスト教はややこしいんですが、聖書を読むことで「キリスト教がわかる」ようになります。

が、聖書を読むと、思考が強くなり、妄想も強くなります。

皮肉なことに、聖霊体験が起きるには、聖書から離れる必要があります。

で、その聖書を読むと、実際のところ、かなり失望します。私はクリスチャンではありませんが、聖書を読んで「キリスト教のイメージ」が完全に崩壊しました。

ショックでした。キリスト教は、もっとマシな宗教かと思っていたからです。

が、実際のキリスト教は、相当にアレなことがわかったものです。

このことを書くと、かなりのボリュームになりますので割愛し、今日は、キリスト教の周辺に関することを書いてみようかと思います。

ちなみに聖書は厄介なテキストです。聖書のこともまた別の機会に譲ります。

西洋人・中近東人は思考が強い

ところで西洋人(地中海沿岸のアフリカ・中近東人を含む)は観念・思考が非常に強いんですね。なので言葉や観念で構築する「哲学」をも生み出しているほどです。

東洋人は、ここまでガチガチに観念で物事を構築しません。東洋人は「一言(ひとこと)」の中に複数の意味を込めるほどで、抽象的になりがちです。

が、西洋人・中近東の人は、東洋人のようなことができない。なので説明が長々&クドクドとなりがち。要するにマインド(思考)が強いんですね。

こういうのは哲学に顕著に出ていますね。哲学は定義を重んじます。で、定義通りに話しを進めないと「なんだそれは!」と突っ込みが入るくらいで、面倒くさい世界なんです。

それでこうした面倒くさい傾向は、キリスト教にも出ています。特に神学。神学になると複雑怪奇になり、書いている本人もわけがわからなくなっているところもあります、おそらく。

また何らかの体験をした人の手記もゴチャゴチャとしがちです。

キリスト教は東洋系の宗教などと違って、西洋人特有の思考の強さや、分析への走りやすさ、また対象へのこだわりがしっかりと出ていますね。

なので敷居が高いなあと思っていました。

西洋人・中近東人はこだわりが強い

それでキリスト教神秘主義で深い精神的な体験をした方の手記を読んでいてもそうでしたが、複雑怪奇になってしまうのは西洋人特有の思考の強さ、こだわりの強さがあるからですね。

西洋人や中近東人は、対象物にベッタリとくっつく傾向があります。視野狭窄になると言ってもいいんですが、この「こだわり」が、愚かな傾向を生み出し、どうでもいいことに違いや区別を設けてしまっています。

で、キリスト教もそうですが、いたずらに分派を作ってしまうことになっていますね。

西洋人・中近東人の思考の強さは、精神活動の言語化にも非常によく出ています。なので東洋人のようにシンプルに一言でまとめることが下手。

なので哲学にしてもそうですが、キリスト教も遠慮していたというのがあったものです。

言葉の向こうに真実がある

西洋の哲学にしろ思想にしろ、言葉を操って構築する世界は、複雑な迷路に迷わせるところがありま。なので、ここをうまくかわしていく必要があります。でありませんと迷いの世界に入ってしまいます。

キリスト教で信仰されている方も、迷いの世界に入っているなあと思うことが多いですね。

どうしても「言葉」にとらわれてしまう文化が西洋人にはあるからです。残念なことに、そのクセを、アジア諸国の皆さんもそのまま右ならえにしています。

ですので余計なことをしてしまって、迷いを深めているような。

言葉にとらわれていると、キリスト教もそうですが、宗教的な体験は起きにくくなります。

言葉も対象の一つにしか過ぎないんですね。で、言葉に忠実になればなるほど、宗教的な体験から遠ざかるようになります。人はそうできているんですね。

言葉にとらわれていても、その向こうに「何か真理がある」と感じることが、修道上では大事になってまいります。

キリスト教もユダヤ教もそうですが、西洋の宗教においては、「高次の愛を体験するかどうか」の一点にかかっています。これが原点であり源流になります。

西洋の文脈で西洋の宗教を学ぶのは大変

西洋・中近東特有の傾向を踏まえることは大事ですね。で、この西洋・中近東特有の「こだわり」が、キリスト教に出ています。

なのでこれらを喝破しないまま西洋・中近東の文脈で西洋・中近東の宗教を学ぶのは大変になると思います。

が、この西洋・中近東の精神性の特徴を見抜くと、シンプルに理解できるんじゃないかと直感しています。

キリスト教が複雑怪奇です。この複雑怪奇さは、何らかの宗教体験をしていないにも関わらず、一生懸命に解釈しようとするからですね。

さらに、体験もしていないのに様々な解釈を打ち出すため、その解釈の違いによって分派も登場。そんな形跡もあります。

三位一体の受け止め方

「父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神を三位一体」というのも観念です。体験がないまま言語化・体系化しています。

三位一体も「神の直接体験」「聖霊体験」をしていない人が公式化・パッケージ化した説明に過ぎません。で、こういう観念的な教えにこだわっているとリアルな体験は起きないんですね。

熱心な信仰者の方からすれば過激な話しに聞こえるかもしれませんが、いかにして教義の縛りから脱して、本質に回帰できるかが、宗教の実践においては非常に大事になってまいります。

キリスト教は---ことにプロテスタントは---聖書を絶対視していますので、体験が起きにくくなっています。

中には体験が起きる人もいますが、聖書へのこだわりが強ければ強いほど体験が起きるのは難しくなります。

言葉からの超越。言葉の向こうにある真実。それを体験、体得するのが、本来の宗教なんですね。

数ある宗教の中でも、言語化が複雑なキリスト教プロテスタントにおいては、このことがもっとも当てはまると思います。

言葉の向こうに真実がある。

このことがどこまで理解できるかどうかが重要になってまいりますね。

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