イエス・キリストの本当の教えとは?
イエス・キリストの本当の教えとは一体何だったのでしょうか?よく「隣人愛」といいますね。
ところが隣人愛をも包括したイエス・キリストの教えがあります。また新約聖書以外に伝わるイエス・キリストの教えもあります。
で、結論を先にいいますと次の通りになります。
新約聖書におけるイエス・キリストの教え
新約聖書に伝わるイエス・キリストの教えとは、
- 神の国の到来が近い(人の子:メシアが降臨して神の国を作る)
- 律法を守る
- 親切心(隣人愛)
- たとえ話し
この4つになります。
ただしこの4つの教えは新約聖書におけるイエス・キリストの教えです。
トマス福音書におけるイエス・キリストの教え
1945年にエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書があります。この中には「トマス福音書」にがあり、ここで説かれているイエス・キリストの教えは、
- 神の国は万人の心の中にある
- 万人が神の子
- 万人がメシア(救世主)
- 認知を善くしなさい
- 瞑想をすることで奇跡が起こせる
ザックリ整理するとこの5つになります。新約聖書が伝える教えとは正反対ですが、自己を見つめることで「本当の自分(神の国、父の子、神の子)」を見出しますよというイエス・キリストの教えです。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
神の国の到来は近い~メシア信仰を説く
イエス・キリストの教えとは何かといえば、ズバリ「メシア(人の子)が天から降りてきて、地上に神に国を作る」という「神の国の到来が近い」という福音を伝えたことです。
イエスは「神への愛」「隣人愛」を説いたと言われています。確かに、これは間違いありません。が、イエスが最も伝えたかったことは、最も強調していたのは「神の国が間もなく現れる」という福音だったんですね。
事実、マルコ福音書(福音書のうち最初に作られた福音書)には、
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1章15)
このようにあります。
「神の国」が地上に出現する時期が近づいている。メシア(人の子)が出現される。だから皆さん、それに備えてください。悔い改めてください。とイエスは伝えだしたということなんですね。
で、これがイエスの宣教活動のキモになります。神への愛や隣人愛は、二の次なんですね。これは非常に大切なことになります。
イエスは自分がメシアだとは言っていなかった
ちなみに、意外に思うかもしれませんが、イエス・キリスト自身は「私が神の国を作る」「私が人の子(メシア)である」とは言ってないんですね。
ちなみにヨハネの福音書になりますと、イエスは自分のことを「命のパン」であるとか「天から遣わされた」など言われています。
が、ヨハネの福音書は、イエス信仰が広まり、信奉者も増えた1世紀の終わり頃に作られた福音書なんですね。
エレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」によると、ヨハネ福音書は「トマス福音書」に対抗して作った創作福音書であるといいます。
そのため共観福音書とはかなり毛色が異なり、当時は同じイエス信仰集団の中でも異端に映った福音書だったようです。
四福音書の中でもっとも最後に作られたのがヨハネの福音書。イエスの神格化がかなり進み、史実のイエスとは違うことが記載されています(創作されています)。
で、史実に照らすとすれば、マルコやマタイを参照してほうがまだ良いかと思います。で、マルコやマタイのイエスは「神の国の到来」を告げていたということですね。
人の子(メシア)が降臨して神の国を作る
で、マルコやマタイでは、イエス・キリストは、自分が「自分は神の子である」とか「メシア(人の子)」とは言っていないということですね。
イエス・キリストではない「人の子(メシア)がもう間もなくやってくる。なので皆さん、神に国に入ることができるように準備をしてください」と、イエスは言っていたということですね。
で、イエス・キリストは地上に「神の国」が現れることを伝えるために、伝道活動をしたということになります。
で、「神の国は近い」という福音がイエス・キリストの教えにもなるということですね。
イエスは隣人愛を説いた?
ところで新約聖書に伝わる教えとしては、一般的にイエスは「隣人愛」を説いたと言われています。
マタイ福音書 22章37-40
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
マルコ福音書 12章29-31
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。
ルカ福音書 10章27
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』
とあります。
けれども実のところ、神を愛すことと隣人愛の教えは、旧約聖書の「申命記」と「レビ記」からの引用です。
申命記6章4-5節
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ記19章18節
あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
ご覧の通りです。このことは聖書学では昔から指摘されていることだといいます。
イエス・キリストは「本質的な律法」と「親切心」を説いた
で、イエス・キリスト「隣人愛」を説いているといわれています。が、もうちょっと深掘りすると、マタイ福音書にイエス・キリストのより具体的な教えがわかります。それは、
- 律法を守る【マタイ5章17 律法について】・・・律法といってもイエスが推奨した律法は、ファリサイ派のような形式的・教条的な律法ではなく、その本質を踏まえた善性のことになります。
- 親切心を持つ【マタイ25章31 羊と山羊のたとえ話】・・・万人に親切にする者が神の国に入ることができる。親切心は隣人愛にも連なる。
この2つ。この2つを守ることで誰でも神の国に入ることができると言っています。
別段、イエスを信仰しなくてもOK。この2つを護れば誰でも神の国に入ることができると。何らかの信仰を持たなくてもOK。普遍的な教えなんですね。これがイエスの教え。
イエス・キリスト以外でも説かれている善法
で、イエスと同じ時代に生き、同じガラリアにいた聖者ハニナ・ベン・ドーサも「人間から好意を寄せられる者は神から愛される」と言っています。
不思議なことにイエス・キリストとほぼ同じことを言っています。
ハニナ・ベン・ドーサ~イエス・キリストと同時代にいた奇跡を起こす人
また仏教の「生天の教え(礼節と施し・慈しみがあれば死後、天界へ往く)」もおおよそ同じです。で、仏教でも天界(神の国)へ往けると説いています。
イエスにしても、ハニナにしても、仏教にしても教えはシンプル。しかも普遍的。
誰か特別な人なりを崇拝することなく、普遍的な法(ダルマ:善法)にしたがえば、誰でも天界へ往ける。しあわせになれる。
イエスキリストは普遍的な善法を説いていた
このようにイエスも普遍的な善法を説いていたわけですね。
- 本質的な律法(ファリサイ派のような形式的・教条的でない律法)
- 親切心(隣人愛も含む)
で、この2つこそ、福音書(聖書)に伝わるイエス・キリストの中核の教えになります。
繰り返しになりますが「隣人愛」もイエスの教えになります。が、この教えは旧約聖書(申命記、レビ記)から引用してイエスが言っていることですね。
イエス・キリスト自身のオリジナルの教えとしては、形式的・教条的でない律法と、親切心(隣人愛も包括する)の2つになり、これこそがイエス・キリストの教え(福音書における)の要諦になります。
イエス・キリストの「たとえ話し」
あとイエス・キリストは、福音書の中で「たとえ話し」をいくつかしています。
マタイの福音書とルカの福音書が多いですね。マルコの福音書には少ないです。で、おすすめの「たとえばなし」はこちらです。
- 古い服に新しい布切れ・・・マタイ9章16~17節
- 汚れた霊・・・マタイ12章43~45節
- 種を蒔く人・・・マタイ13章3~9節、18~23節
- 毒麦・・・マタイ13章25~30節、36~43節
- からし種・・・マタイ13章31~32節
- 粉の中のパン種・・・マタイ13章33節
- 畑に隠された宝・・・マタイ13章44節
- 高価な真珠・・・マタイ13章45~46節
- 魚の網・・・マタイ13章47~50節
- 天の国のことを学んだ学者・・・マタイ13章52節
- 五千人に食べ物を与える・・・マタイ14章13~21節
- 四千人に食べ物を与える・・・マタイ15章32~39節
- 湖の上を歩く・・・マタイ14章22~33節
- 山上での変容・・・マタイ17章1~8節
- 迷い出た羊・・・マタイ18章12~14節
- 仲間を赦さない家来・・・マタイ18章21~35節
- ぶどう園の労働者・・・マタイ20章1~16節
- 二人の息子・・・21章23~32節
- ぶどう園と農夫・・・マタイ21章33~43節
- 婚宴・・・マタイ22章2~14節・・・
- 大宴会・・・ルカ14章16~24節
- いちじくの木の教え・・・マタイ2章15節
- 忠実な僕と悪い僕・・・マタイ24章45~51節
- 十人のおとめ・・・マタイ25章1~13節
- タラントン・・・マタイ25章14~30節
- 羊と山羊・・・マタイ25章31~46節
- 成長する種・・・マルコ4章26~29節
- 金を借りている二人・・・ルカ7章36~50節
- 善いサマリア人・・・ルカ10章25~37節
- 助けを必要としている友人・・・ルカ11章5~13節
- 愚かな金持ち・・・ルカ12章13~21節
- 実のならないいちじくの木・・・ルカ13章6~9節
- 宴に招待されたら・・・ルカ14章1~14節
- 弟子の条件・・・ルカ14章26~33節
- 無くした銀貨・・・ルカ15章8~10節
- 放蕩息子・・・ルカ15章11~32節
- 不正な管理人・・・ルカ16章1~13節
- 金持ちとラザロ・・・ルカ16章19~31節
- やもめと裁判官・・・ルカ18章1~8節
- ファリサイ派の人と徴税人・・・ルカ18章9~14節
- カナでの婚礼・・・ヨハネ2章1~10節
- 良い羊飼い・・・ヨハネ10章1~16節
これらの「たとえばなし」は、スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス)の著書に解説があります。
ダスカロスの解説は非常に素晴らしいですので、お読みになると良いかと思います。
【まとめ】新約聖書に伝わるイエス・キリストの教え
ということでして、イエス・キリストが説いていた教えとは、
- 神の国の到来が近い(人の子:メシアが降臨して神の国を作る)
- 律法を守る
- 親切心(隣人愛)
- たとえ話し
この4つになります。
ところが、イエスが亡くなった後、弟子のペトロ達が原始エルサレム教団を作り、その後、ヘレニスト(ディアスポラのユダヤ人)がパウロをリーダーにして、現在のキリスト教の原型を作り、広めます。
パウロ教といってもよくなりますが、パウロ達が作った新興宗教こそキリスト教になります。
で、パウロ教では「イエスの死と復活を信じること」が信仰上のキモになっています。
ところがパウロは、生前イエスが説いた教えをほとんど知らなかったのか、「律法を完全否定」します。いわばイエスの教えを否定。
で、パウロは、自分が説く教えこそ真の福音だと言って信念を貫きます。当時からパウロへの批判も多かったようですが、パウロの方針に基づいてキリスト教は拡大。やがて新約聖書となってまとまっていきます。
キリスト教はパウロが作ったユダヤ教(ファリサイ派)のアップデート宗教だった
【まとめ】トマス福音書に伝わるイエス・キリストの教え
以上は新約聖書に伝わるイエス・キリストの教えですね。ところが新約聖書には収録されていない「トマス福音書」という、1945年にエジプトで発見された福音書があります。
ここで説かれているイエス・キリストの教えは、最初にも書いた通りで、
- 神の国は万人の心の中にある
- 万人が神の子
- 万人がメシア(救世主)
- 認知を善くしなさい
- 瞑想をすることで奇跡が起こせる
という教えです。イエス・キリストだけが神の国を作る人であったり、神の子でもなく、メシアでもない。そうではなく、すべての人が神の国を作る(心の中に見出す)、すべての人が神の子でありメシアであるという教えです。
しかも、自己の中にある神の国、神の子、メシアを見つけるためには、認知を善くする、瞑想(深い瞑想禅定)をすることでわかり、深い瞑想すると山を動かすような奇跡を起こすこともできると説いています。
また「あなたがたは光から来た父の子、神の子」ともいっています。
新約聖書が伝える教えとは正反対なんですね。しかし、このようなイエス・キリストの教えは、パウロ達が作ったキリスト教が、「異端である」といって潰し、歴史から消し去ってきています。
トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!
まとめ
以上がイエス・キリストの教えです。
伝統的な新約聖書に伝わるイエス・キリストの教えは4つに整理できます。
しかし伝統的なキリスト教が消し去ってきた福音書の中に、まったく異なるイエス・キリストの教えもあります。
トマス福音書に伝わるイエス・キリストの教えは、1945年以降知られるようになっています。自己の内奥に神がいるという教え。深い叡智に貫かれていますね。
伝統的なキリスト教を揺り動かす教えですが、ここから新たな時代を迎えるんじゃないかと思います。