人間関係を良くする上下関係・礼節と平等・対等~目上の者・徳のある人に敬意を払うことは天界の神々も行っていること

礼節は大事だと思っています。

戦後、日本ではアメリカ流のやり方がますます導入され、
フランクで対等であることや、自由であること、平等であることが大切と言われてきました。

これはこれで良いことです。
封建的な制度であったり、何事もがんじがらめにしてしまうことは、むしろ問題があります。

基本的には、ゆるく、束縛性が少ないことは大切ですね。
選択のチャンスがあることも大切です。
広く門戸が開かれているという意味の「機会平等」も素晴らしいことです。

人間関係において平等・対等・フランクが間違っているケース

しかし、この平等、対等、フランクが、間違って解釈されているケースが多々あります。
それは人間関係においてです。
殊に最近は顕著なのでしょう。

教師、上司、先輩といった教えを請うべき相手に対して
「ため口」を聞いたり、友人感覚で接しようとするとか。

同年代で役職に就いている人からも、こうした話しを聞くことがあります。

こうしたことは平等の観念を誤って解釈している典型的なケースです。
こうした人間関係は誤りなことが多いものです。

人間関係における礼節と上下関係と「気」との関係

人間関係において、敬うべき相手に対して、
平等、対等、フランクになることは、やはり問題があったりします。

これは決して封建的な立場から言っているのではないのですね。

人間には、「気」「プラーナ」といったエネルギーがあります。
徳の高い人、優れた人、教える側の人が、そうではない人と接するとき、
エネルギーの転移が起きています。

教師・上司・先輩と、未熟な人・教えを受ける人の間には、
エネルギーが、下位に流れていくような現象が起きています。
エネルギーの流れからいえば、決して「対等」「平等」ではないのですね。

ですので、上から下へ流れるエネルギーが過剰にならないために、
下手(しもて)にいる側は抑制するわけです。

これが「礼節」だったりします。
このエネルギー関係が、古来から言われている
「上下関係の本質」になっているわけです。

人間関係における「平等」と「上下関係」とは?

一方、人間関係における対等・平等というのは、
お互いがエネルギーの交換や環流ができている状態をいいます。

対等・平等というのは、同じレベルの間に限って言えるわけなんです。
本来は。

もし、上下関係にあるはずの間柄に、対等の友人関係を持ち込むと、
目上から流れ出るエネルギーがものすごく大きくなります。
エネルギーの質が違うため、交換や環流が起きないからです。

反対に、教えを請う側には、ものすごいエネルギーが流れ込み、とても心地よくなります。
しかしこれは、相手から過剰に奪い取っていることになります。

人間関係の上下関係は本能のはたらき

「何でも平等とか、対等がいいんだよ」と思い込んでいたり、
微細な感性が働いていないと、
こうした自然なエネルギーの流れが分からなくなります。

また「なんで?みんな平等じゃん」と言って、上下関係があることを否定するようになります。

ですが、こうしたエネルギーの流れを無視していくと、
無意識の中で「何かへんだな」という違和感が出てきます。

これが上司や先達の悩みともなってきます。
 

決して封建的な意味からではなく、人間関係の上下関係はあります。
水が上から下へ流れる関係もあれば、環流する関係もあります。

人間における上下関係は、ごくごく自然なことだったりします。
生命レベルの上下関係は実際にあります。

これは決して、動物の世界にみられる現象ではないんですね。
上下関係といいますと、ともすると封建的・動物社会を連想しますが、
実は、そうじゃなかったりします。

驚くことに、神々の住む天界でも序列があります。
上下関係があります。

天界の神々の世界にも上下関係・序列がある

天界の神々の世界でも上下関係や序列があると効きますと、驚かれるかもしれません。

しかしながら、このことは、原始仏典であるパーリ仏典をはじめ、
ロバートモンローの体外離脱の手記にも記されている事実だったりします。

もっとも、天界の神々の間では、動物の世界のような「力」による序列ではありません。
神々の世界では、心の清らかさである「徳の力」によって序列や上下関係が決まってきます。

で、天界の神々の世界では、徳のある神が上位に位置します。
順番もあります。
ランキングもあります。
極めて高徳な神が通るときは、他の神々はひれ伏すこともあるといいます。

生命には序列があるのが自然なこと

で、生命の世界には、上下関係や序列があるのが自然なことなんですね。
ただ、ここに「余計な意味や感情」を与えるから、話しがややこしくなってくるわけですね。

「今度はあの人が支配者だ」
「おもしろくない(ねたみ)」
「いつか追い抜いてやろう(勝ち気)」
「自分のほうがふさわしい、負けるものか(随喜の無さ)」

こうした悪思考なり悪感情が出てくるから、話しがややこしくなってしまうわけですね。

で、イデオロギーとしての「平等」だの「対等」だの「フランクなのがいい」だのといった、
生命感覚を無視した頓珍漢な思想が出てくるわけなのです。

親子関係を友人関係にすると子どもは自立できなくなる

最近では、親子の関係にも「友人感覚」を持ち込む家庭もあります。
しかし、これは最も不自然な関係の一つになります。

親子の場合は、水が上から下に流れる関係です。
これが自然なんですね。
子どもは、親に頼って成長していくものです。

生命の原理からいえば、上から下へエネルギーを付与する、
自然な「上下関係」の典型だったりします。
 

こうした本来は自然な上下関係に、友人関係を持ち込むのはおすすめではないんですね。
そもそも友人関係な親子にしてしまいますと、本能的な感覚がズレてしまうおそれも出てきます。

親子関係に友人関係を持ち込むと、子どもは自立できなくなる心配も出てきます。
親は親としての立場、子どもは子どもとしての立場にあるようにしたほうが、
健全になりやすいでしょう。

慚愧が欠如するとナチュラルな人間関係がわからなくなる

天界の神々ですら上下関係や序列があるわけですね。
イデオロギーが先だったおかしな平等観が蔓延し、これに汚染されると、
生命感覚に基づいたナチュラルな上下関係や序列としての人間関係が分からなくなります。
違和感をおぼえる人も出てきます。

しかし、こうした状態のことを仏教では、無慚(むざん)・無愧(むき)といっています。
恥じらいを知らず、悪いことを悪いとキャッチできない煩悩です。
礼節を欠いた言動になります。

礼節を欠くと、とかく乱れます。
自然なエネルギーの流れに反しますので、トラブルも起きてきます。
当たり前です。

仏教では目上の者・年長者・熟練者に敬意を払うことを推奨している

未熟で、教えを請う立場にある場合は、
教師、上司、先達に無礼がないようにすること。

これは決して封建的ではありません。
人間関係におけるマナーです。
礼節の問題ですね。
かといって、過剰にかしこまるのもやり過ぎです。

もしも自分が先輩以上に知っている、物事が分かっているなら、
そもそも教えを請う必要はありません。

その場を離れるとか、対応の仕方も違ってくるでしょう。
それこそ対等になり得るでしょう。
 

仏教では、目上の者、年長者、熟練者に敬意を払うことを推奨しています。
同等の態度で臨みなさいとはありません。

相手から教えを請う必要がなければ別ですが。
何でもかんでも平等で臨むのではなく、
敬う立場の人は敬い、教えを請う人には無礼がないように接する心得が大切かと思います。

古くさく、封建的を思えるシステムの中には、
「気」の観点から見れば、実に合理的であると思う所があります。