無意識の心・微細な心・繊細な心を観察し見つめることの大切さ

心を深く見つめ、観察していくことは大切だと思っています。
しかしながら、本来は、人から指摘されることなく、自ら、その心の内奥に深く入り込み、本心、本音を見いだし、上っ面の理由とか、動機とか、そういうものをことごとく払拭していくことが大切だったりします。

多くは心を深く観察することはしないで生きている

が、しかし。
普通は、そこまで自分を見つめるということはしないかもしれません。

一般的に多くは、心を深く見つめて観察することはしないで、うわべや、見た目だけで判断して生活しています。また、それで充分やっていけます。

てか、うわべや外見だけでやっていったほうが、楽なんです。
そうするほうが、生きやすいですね。
余計なことを考えずに、うわべで生きていれば、明るく、楽天的に生きていけます。

自分を見つめて、繊細に感じていくよりも、もっと大ざっぱで、表面的で、うわっつらをなぞっているほうが楽で、ストレスもなくやっていけます。

もっといえば、人様のことなど考えずに、自分の感性で、楽しさ、気持ちよさを追求していくほうが、楽なんです。

心を深く観察しない生き方は浅薄になりやすい

けれども、そういう生き方は、愚かしい生き方になります。
賢い生き方になりにくいものです。
なぜなら、浅薄になりやすいからです。

しかも、無意識の動きにノーチェックです。
無関心です。
無意識の世界には、なんら注意を向けていません。

無意識という言葉がピンと来なければ、微細な心、繊細な心といってもいいでしょう。
かすかに静かにふっと立ち上がる心。
これらに気づく、感じることは大切なことだったりします。

無意識・微細な心・繊細な心に本音本心がある

無意識や微細な心、繊細な心に気づかず過ごしている人もいますが、この微罪な心、微細な心にこそ、本心、本音の心があることが多かったりします。

ですので、微細な心にも、普段から注意をはらうことが大切だったりします。

また、微弱な闘争心、勝ち気、無慈悲さ、嫉妬心、ズルさなどといった微弱な心も見逃すことなく、チェックしていくようにします。

こうした微細な心に、知られざる自分の本心があったりすることも少なくありません。

無意識・微細な心・繊細な心を観察している人は意外と少ない

しかし、ほとんどの人は、心の観察に関心すら持っていません。
というか、こういうことをし始めると、身動きが取りにくくなったり、行動力が抑えられるように感じられ、ウザったくなって、やりたがりません。

しかし、心を観察しない生き方をしていれば、慚愧のない生活をし、不注意を重ね、享楽的で、軽率で、不浄なものを選び不幸になったりします。

人間としての深みもなく、知性を感じさせることもなくなり、あたたかさ、ぬくもりも感じさせない、薄っぺらい性質にしていきます。愚かな生き方にもなりやすかったりします。

賢明な生き方をしたいなら、あるいは、スピリチュアルや精神的な成長を目指していきたいなら、無意識の領域にも目を行き渡らせて、微細な心の動きを追っていく訓練なりをしていくことがおすすめです。

リラックスして観察していくことが大切

心の奥を見つめ、深みに入り込み、そこにうごめくわずかな何かをさらに追求し、感じ取るようにしていくと、潜在意識の世界に入り込むようになっていきます。

このとき、眉間にシワを寄せるようなやり方をしてはなりません。
リラックスして行います。

ところが、大抵は、眉間にシワをよせ、力を込めてやってしまいます。
が、これは間違ったやり方なんですね。

で、力を抜いて、リラックスができるようになりますと、心の観察が深くできるようになります。

ちなみに、リラックスができない場合は、いくつか理由があります。
最も多いのは、身体に緊張があることなんですね。
こわばり、コリ、シコリがあると、リラックスしにくかったりします。

まず、身体のこわばりを取り除く必要があります。
そのためには、ヨーガを行ったり、高岡英夫さんの「ゆる体操」を行うのがおすすめになります。

腰痛が治る「ゆる体操」~操体法と同じリラックスした動きでインナーマッスルを鍛錬

で、いろいろとやってみることですね。
あっちにぶつかり、こっちにぶつかりながらも、だんだんとできるようになるかもしれません。

心の奥深い領域に入り浄化が進むとより本心本音が見えてくる

そうして、心の深い領域に入っていくようになりますと、微妙な心の動きをつかむようになっていきます。繊細なものがわかるようにもなっていきます。

心の奥深い領域に入り、浄化をしていくと、本心、本音が見え、それときちんと向き合えるようにもなります。

本心、本音は、探すものではなく、自ずとわかってくるものだったりします。これが瞑想的なアプローチだったりします。

何かあったときに、本心、本音を見つけだすのではなく、リラックスして、心なりを感じ続けていきます。観察していきます。

こうしていますと、直観的に感じられるものが出てくることがあるでしょう。
その感じこそ、本心、本音、核だったりすることが多いと思います。

このとき、リラックスすることが大切。
リラックスは「善の感覚」でもあります。

こうした状態でヴィパサナの瞑想をすると功を奏するようになると思います。
これを地道に延々と続けていくことになります。

心随観(自己の内奥の観察)には時間がかかることもある

一朝一夕にできることではなく、何年も何年も、場合によっては十年以上も根気よく続けていくことになるかもしれません。
いや、一生、ずっと自己の内奥をさらに深く深く、また鋭く、集中して観察していくことになるでしょう。

これが修行というものだと思っています。かみ砕いたものですが、こうした観察を、日常生活の中でやっていくことが修行だったりします。

仏教の四念処に、「心随観」というのがあります。
これは、心を観察していく瞑想で、念(サティ)の核となる修行です。
上記のことも、心随念に通じるものがあります。

なお「心随観」の代わりに、「身体の感覚」を感じ続けるやり方もあります。

しかし、身体の動き(身随念)、身体感覚(受随念)からヴィパサナを始めたとしても、必ず心の動きを観る、つまり「心随観」はしないとならないと思います。

うまずたゆまず行っていくことが大切ですね。