「いまここ」系における知られざるリスク

いまここ、プレゼンス、あるがまま。
いろんな言い方がありますが、
これらを進めていくと、深まりを見せます。

その深まりの過程において、いろいろなことが起きてきます。

知り合いの瞑想家は、相当、いまここが進んでいて、
ハートの次元にシフトし、安定した形で進んでいる様子です。

深まりが出てくると、マイルドで落ち着いた明るさが出てくるのが特徴でしょうか。
この落ち着きは、特徴の一つだと思います。
 

が、ここへの深まりにいたる過程では、いろいろなことが起きます。

なんといっても、握りしめているものが脱落することの連続です。
どんどん落ちていくプロセスにおいては、それまでのパターンと、
まだ内在するこだわりが入り乱れて、一種の混乱や不安定さを招くこともあります。

で、この中途半端な状態の時期が、もっとも危い。
もっとも注意が必要。

ある人は、巨大な虚無に陥り、それが1年半くらい続いたともいいます。
虚無とは、真っ暗で不安で、どうしようもなくなる状態。
虚無になると、ちょっとヤバい。
この虚無を埋め合わせるために、道徳から踏み外すことも起きえるとか。
ヤバいんですね。
 

とにかく、握りしめているものが落ちていく。
溶けてゆく。

このプロセスにおいては、世間では正しいと思われていることや
常識、価値観も落ちてゆき、希薄になっていきます。

結局、苦しみ、心の痛み、傷つく、強い嫌悪感、強く欲するなどなど、
こうした反応の裏側には、
なにがしかに「つかみ」続けている「考え」「観念」「思想」「感情」があります。
「こだわり」です。

その「こだわり」が、世間の価値観に照らして「善い」ことであっても、
握りしめているならば、苦しみを生み出すようになります。

善は善であっても、それを強く握りしめれば、苦しみを生み出す。
現実的にいえば、さらりとした姿勢で、善と向き合うならば、
瞬間瞬間、是々非々をしながらも、「あれはいけない」「許せない」といった感情を
強く握りしめることはなくなります。
 

こうしたことを次々に喝破していって、より精妙なこだわりをも見抜いていって、
どんどん落とし続けていく。

しかしながら「落とす」という能動的にアプローチをしていくと、
一つの落とし穴に陥ります。

たとえば、感情にフタをしてしまう落とし穴です。
微細な観念が、思考、意志が、自分をコントロールしてしまって、
感情に動きを無意識のうちに抑制してしまう。

こういうことが起きるのは、無意識のうちに、能動的に「落とす」ことをしてしまうからです。
厄介なのは、無意識のうちに、能動的にやってしまうことです。
こういう微細な落とし穴があります。
 

とにもかくに、「いまここ」系は、リスクな面もあるということ。
テーラワーダには、ヴィパサナ瞑想の落とし穴が伝承されていますが、
伝承されているものとは違う、具体的で微細な落とし穴が実際にはあります。

なので、実践者は、よく理解し、助け合うなどの体制がありませんと、
もし危機的な状態に陥ったときに、そこからのリカバリー、
救済ができなくなることも起きえるのでは、といった懸念もあります。

だからこそ「サンガ」といった集団も必要になるのでしょう。
サンガは、志を同じくした単なる集いではなく、
万一、リスキーなことになった場合の安全装置でもありますね。
 

大変、微細な領域の話しですが、いろいろと思い、感じるものがあります。

「いまここ」「あるがまま」「気づき」の歩みは、最初に開けた段階では、
明るく、ハッピーな要素が強くありますが、
そこから先は、ちょっと危うい領域に出くわす心配もあります。

コントロールをして、そのリスクを抑え込むか、
あるいは、「あるがまま」と「マインド」との揺れ動く中を、
傷だらけになりながらも突き進んで突破するかの、
二者択一になりがちかな、と感じるものがあります。
 

この辺りの話しは、海外のアドヴァイタ系には、わりとあります。
覚者のほとんどは述べています。
が、何故か、日本ではほとんど聞きません。
日本では、おそらく表にしていないのではないかと推察しています。

てか、日本では、不立文字の伝統があるため、
言語化しないまま、リスクなことも語られることがないのだと思います。
たぶん、そうだと思います。

しかし、現代では、言語化したり、表明しないのは、もはや時代遅れであり、
そういう観点からすれば、日本は、悟り系の後進国です。
このことは、アジャシヤンティが近いことを言われています。

辛辣な言い方ですが、欧米と比較すれば、
日本には、悟り系に役立つ情報は、あまりないように思います。
難解な言葉で語られた古くさい禅くらいしかありません。
しかし、マニアック過ぎて、これでは実際に役立ちません。

海外の情報を参考にしていったほうがいいですね。

言語化や文字化した情報を軽んじる傾向もありますが、
アジャシャンティが述べている通りで、現代の悟り系の書籍は有益です。

で、悟りのプロセスには、知らざるリスクが存在するのは、
ほぼ間違いないのではないかと思います。

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