気づきを巡る問題~内側の意識への気づき、受動的な姿勢、瞑想の主体

「気づき(サティ)」という名の「集中」

それにしても「いまここ」。
おそらく、最初、やり始めの頃は手応えらしいものは、
ほとんど感じないかもしれません。

そこで「手応え」らしいのを感じさせるテクニックもあります。
たとえば観察視点を頭上などの持ってくるやり方ですね。
分離意識です。
しかしこれは意識を分離させるため問題のあるやり方になります。

あともう一つは、軽い集中状態を引き起こすやり方です。
これは単に意識を集中させるわけですね。
普通に集中します。

で、この方法はテーラワーダでも行っています。
初めての人向けのやり方として行っています。
レクチャーもします。
で、こうしたやり方による「意識状態」も「気づき(サティ)」と言っています。
で、この状態は「気づき」であり「集中とは違う」という説明がされます。

が、実際のところ、これは「集中」です。
動的な集中ですね。
で、これも気づき(サティ)といっています。

「本当の気づき」とは「大いなる存在(真我)」

しかしながら「本当の気づき」は、
「大いなる存在(つまり意識)」のことを言っています。
元より「気づき」はあるわけですね。
その「気づき(大いなる存在)」に開けるのが本当の有り様だったりします。

けれども意識的に集中させることによって、
動的な中でも集中状態にして、
「いまここ」感を体感するやり方もあるってことですね。

これがテーラワーダのサティです。
特に入門者向けのやり方です。
マインドを使ったやり方。

が、本当は「集中」です。
「カニカ・サマディ」といっていいでしょう。
 

この方法を継続していると、
「本当の気づき(大いなる存在)」にシフトすることがあります。

けれどもシフトした後も、同じ調子で意識的な集中を行っていると、
おそらく行き詰まると思います。
「本当の気づき(大いなる存在)」ではないからです。
あくまで「本当の気づき(大いなる存在)」にシフトするための方便ですね。

テーラワーダでは、「本当の気づき」にシフトすることができても、
その後の進め方が曖昧になっています。
だから成功している人が、ものすごく少ないんですね。

気づきの要諦とは?

このことに気づき始めたのが4年前です。
最初は「テーラワーダ式はどこか違うのでは?」という素朴な疑問だったものです。

で、何度も何度も確かめ、アドヴァイタなどの
「いまここ」系やプレゼンスのやり方を実習していく中で、
「テーラワーダのサティのやり方には誤解がある」
ということに気づいたものです。
テーラーワーダ式は間違いではないのですが、
曖昧になっているとことがあるということですね。
 

1.内側(意識)への気づき ⇔ 対象物に気づきを入れてしまう

テーラワーダでは対象物に「気づく」といっています。
しかし、これは入門向けのやり方になります。
あくまで導入としてのやり方になると思います。

意識を向ける対象は、自分の内側です。
「大いなる存在」に明け渡されるようにしていく必要があります。
意識を向けるのは「外側」ではなく「内側」です。
対象物に向けるのではなく、
対象物を認識している意識そのものへ向けるのがポイントでしょう。

気づくのは「外側の対象物」ではなく、
「気づいている意識」そのものに気づくことですね。

2.受動的な姿勢 ⇔ マインドを使って能動的に気づきを入れてしまう

また能動的に「気づく」とするのがよろしくありません。
能動的ではなく「受動的な気づき」ですね。
姿勢そのものが「明け渡し」であることが大事です。

3.瞑想の主体 ⇔ マインドで瞑想をしてしまう

あとこれが最も重大なのですが、瞑想をしている姿勢です。
瞑想の主体の問題です。

「真我」「純粋意識」「大いなる存在」「宇宙意識」「それ」から
「いまここ」を行うのが大事なのですが、
テーラワーダではこれが曖昧になっています。

というよりも、テーラワーダでは、表向きの教義上では
真我を否定してしまうため、こうした発想が出にくくなっています。
わかっている人は、わかっているとった状態です。

しかし教義上、真我は否定されていますので、気づいた人は沈黙してしまいます。
で、これを知らないと、人によっては「虚無」に陥ってしまうことがあります。

気づきにおける3つの要諦のまとめ

1.内側(意識)への気づき ⇔ 対象物に気づきを入れてしまう
2.受動的な姿勢 ⇔ マインドを使って能動的に気づきを入れてしまう
3.瞑想の主体 ⇔ マインドで瞑想をしてしまう
この3つです。
この3つに勘違いがあり曖昧になっています。

しかしながらセンスのある人なら、
テーラワーダの方法で行っていっても進めていくことができて、
悟ることはできると思います。
しかし、その要諦、秘訣が、上手に言語化されていません。

禅定が必要な理由

で、テーラワーダのやり方で成功するためには、
「禅定(軽いサマディでもOK)」が欠かせないわけですね。

禅定は、内側(意識)への気づき、受動的な姿勢、瞑想の主体の
3つの要領を自ずと体得できるようになってもいるからです。

言い換えれば、瞑想の要諦を体感するために、
禅定が必要とも言えます。

テーラワーダの文脈では、禅定は必須ですね。
禅定の状態が、瞑想の主体になり得るからです。

この「受け身」の状態こそ、大事なわけですね。
で、この状態からヴィパサナをすれば
「いまここ」を深めやすくなります。

これがテーラワーダの「気づき」の秘密なのかもしれません。
禅定を取り入れているのも、こうした理由があるからなのかもしれません。
「真我」と言語化する代わりに「禅定」を体験することで、
真我的なセンスを体感体得するのではないかと。

禅定は一時的な変性意識ではない~真我状態となり参照項になる

ところが、禅定を一時的な変性意識ととらえている人もいます。
禅定を否定したり、しなくても良いとする考えです。
これは「慧解脱」のアプローチです。
あえて禅定を作らないやり方です。

しかしながら禅定を作らずに進めるやり方は、
かなりセンスがあって、智慧が豊かでありませんと難しくなると思います。

実際は、センスがあったり智慧が豊かな人は少なかったりします。
なので禅定はできるようになったほうがいいですし、
禅定の手前の近定行は欠かせなくなると思います。

あとテーラワーダ以外の文脈では、
「真我」を踏まえ、真我を経由しながらのアプローチです。
真我を前提にしている場合は禅定なしで悟る方法になり得ます。

禅定か真我認識は、どちらかは必要になりますね。
もし真我を認めていなければ禅定が欠かせなくなります。

禅定によって、「真我」「純粋意識」「大いなる存在」「宇宙意識」「それ」
といった状態を体験的に体感することができるからですね。
ウ・ジョーティカ師が言われる「参照項」です。
禅定無しで行う場合は、「大いなる存在」の有り様を体感することが必要です。
まず、ここに開けていくようにします。

が、テーラワーダは、ここが曖昧。
言語化されていません。

ですのでテーラワーダでは進めにくくなっているのだと思います。
途中で止まってしまうか、あるいは虚無へ進むようになる。
または効果がわかりずらいとして、禅などほかに鞍替えしてしまう。

この反対に、アドヴァイタでは成功者が多くなっています。
「真我」「純粋意識」「大いなる存在」「宇宙意識」「それ」といった指標があり、
ここにシフトし、溶け込むアプローチがわかるからです。

極論すれば、禅定を使わないテーラワーダ式は
センスがあったり、智慧が豊かな人以外は、
悟りにはあまり役に立たなくなりがちです。
悩みの解決や、ストレスの解消に役立つということに止まりがちではないかと。
(これはこれで素晴らしいことですが)

真我か禅定かのどちらかは必要

真我あるいは禅定を否定してしまうと、または両方を否定してしまうと、
「大いなる存在」としての「意識」に気づきにくくなりますし、
気づいても否定しがちいなります。
こうなると瞑想が進みにくくなると思います。
実習者のセンスが求められます。
ハードルが高くなってしまう。
これがテーラワーダ式の問題点ではないかと。

で、「大いなる存在」に気づき、開けるためには、
やはり禅定ができるようになっていると速いんです。
あるいは覚醒体験があると、すぐにわかります。
これらが「参照項」になるからですね。

「大いなる存在」は、自然体、リラックスができるようになっても、
わかるようになると思います。

で、こうしたセンスこそが智慧でもあるわけです。

「大いなる存在」に気づくには智慧が必要ですね。
で、この智慧を磨くためには、
シャープな感性と洞察をつちかっていく必要もあります。

なかなか一筋縄ではいかない問題が、
この界隈にはあると思います。

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