「いまここ」を徹底すると不幸になる人もいる(しかし内面はハッピー)~カルマも操作しない生き方

すごい話しを聞いた。

「いまここ」の実習は、厳しい側面があります。

畢竟、「なにもしない」になるからです。
 
で、この「何もしない」を本気で行うと、どうなるか。

「いまここ」を徹底したら浮浪者になった

なんと、「いまここ」に従って生きていたら、浮浪者になったと。

な、なに^^;?

と、驚くわけですが、さらに、驚くことが。
 

それは、内心は幸福感に満ちている。

しあわせな浮浪者。
 

これは常識の物差しを超える事例だぞ^^;
 

で、そんな「幸せな浮浪者」を、ある宗教家が見つけたと。

で、「こんなに幸せな浮浪者は見たことが無い」と惚れ込んだと。

で、彼に家と仕事を与えたといいます。
 

これ、日本での話しであると。

すごいですね。

「いまここ」を徹底すると幸福になる人もいれば不幸になる人もいる

が、やっぱり「いまここ」は、こういうものなんですよ。

徹底して行うと、浮浪者のようになる場合もあります。

失業、離婚、貧困などなど。
 

家も何もかも捨てて、世捨て人になる人もいます。

これが「いまここ」の生き方と多様性。
 

意識の声に従っていきますと、潜在的に内在しているカルマが表出します。

表出というか、カルマの通りに進むことにも「抗(あらが)わない)」流れというか、志向ですね。

生き方自体が、無防備になります。

 
ちなみに、善いカルマがあれば、善いことが起きるようになります。

見方を変えると、「潜在意識内の表れ」とも言えます。

悪いものも、善いものも、そのまんま噴出することも「ありのまま」にしてしまう。

悪いものが噴出することは「浄化」「浄化のプロセス」ともいえます。

 

以上のことは、意識で操作しないで、文字通りに「ただ、あるがまま」にしてしまうということに他なりません。

このときのカルマ(潜在意識)の具現化が、ハッピーな物語もあれば、そうでない物語もあるということなんです。
 

凄まじいですね。

しかし、これが現実です。

で、これが「いまここ」の本当の姿です。

厳しい。
 

で、だから、出家が望まれるわけなんですね。

おわかりですかね?

「いまここ」を真剣に行えばカルマ通りに展開することも

そう、「いまここ」を本当に真剣にやると、意欲がどんどん下がっていって、世捨て人になりそうになることもあります。
 

しかし、こう言いますとね、
 「それは間違っている!」
 「正しくやっていればおかしなことになるなんて無い!」
 「選択ができる!」
このように力説される方もいます。
 

しかし、そうとばかりではありません。

「いまここ」を、天然自然に任せていけば、その人の持っているカルマ通りの展開になっていくことがあります。
 

ちなみに、カルマの流れにも抗わないからこそ、出家という無防備さが徹底できる環境が助かるわけなんです。

浮浪者みたくなっても、元より、出家者は乞食です。
 

出家とは、何があっても最低限、生活はできるという保証のようなものです。

だから、「いまここ」を徹底するなら、出家が望ましくもなるわけですね。

「いまここ」でパフォーマンスが上がるなどは浅い段階に多い話し

「いまここ」をやってパフォーマンスが上がるというのは、最初か、初心の段階なんです。

というか、浅い段階だからこそ、意志を使うんですね。
使ってしまうんです。

で、常識から外れないように操作もできます。
操作してしまう。

が、これは、やっぱり浅い段階の「いまここ」なんです。
 

名色分離智、縁摂受智、思惟智、生滅智といった段階では、喜びや開放感、明るさを感じます。

こういう段階では、ハッピーモードが強くなります。
 

けれども、この先からはネガティブモードも出てきたりします。

潜在意識にある諸々が噴出したり、直面したり、対峙するようになったり。
 

しかし、潜在意識にあるダークサイドが出てきますと、生活上、困ることになります。

ですので、意図的に、常識から外れないように修正しながらの「いまここ」も、意義と価値があるんです。

実際のところ、こうしたほうが、いいんです。
無難ですから。

社会生活を送っている者にとっては、一般的には、これが適切であり、現実的です。
 

操作を交えた「いまここ」も、これはこれで価値があります。

無難なやり方です。

普通は、浅いこの段階でとどめておくのが無難です。
 

しかし、瞑想の専門家でも、この辺りのことがわかっていない方もいるかもしれません。

経験が乏しいのでしょう。

それか、本気でやったことがないのでしょう。

潜在意識のことがわかっていませんと、この辺りのことが、わからなくなります。

「いまここ」で意欲の減退が起きることがある

やはり、「いまここ」を本気でやると、浮浪者街道に行ってしまうこともあるのでしょう。

意欲の減退は、確かに起きます。
 

このことは清浄道論のテキストにもあります。

壊滅智、怖畏智、過患智などの後半の段階に入ってくると、憂鬱モードになると。
減退モードです。

こうした段階に入ることが、ちゃんと伝承されています。
 

で、なぜ、こうなるかといえば、先述の通りです。

潜在意識にある諸々が出てくるからですね。

あるいは内在するカルマが天然自然のまま発露するからです。
 

言葉を換えれば、潜在的に有している暗く重たいエネルギーが浮上してくるからです。

これは浄化の現象でもあったりもします。

「意識の姿勢が間違った瞑想」はマイナスを引き起こす

もっとも「意欲の減退」などに関していえば、別の理由もあります。

わりと初心の方が始めた段階で、意欲の減退が起きることが多々あります。
 

それは、瞑想している意識の姿勢が間違っている場合です。

根を詰めたり、緊張していたり、ネガティブだったり、悲壮だったりしている場合です。

こうした意識の姿勢で「いまここ」を行っていると、心身が硬くなり、心も硬くなって、意欲の減退を引き起こします。
 

具体的にいえば、厭世的な気分が高まります。

怒りっぽくなったりします。

好き嫌いが強くなったりもします。

気難しくなることもあります。

人付き合いが悪くなったり、孤独な様相を呈してくることがあります。
 

意識の姿勢が間違っていると、このように、瞑想がマイナスに作用します。

こういう現象が起きる場合があります。
 
しかし、これこそ、初心の方や、初期の段階で時々みられる「間違った意識による瞑想のやり方」です。

間違った「状態」で瞑想すると、こうなります。
 
けれども、こうした状態ではなく、正しい姿勢で瞑想をしているものの、ある段階からネガティブになっていく時期があるわけですね。

これと、間違った姿勢の瞑想とは、一緒にしないことです。

悟った人や悟りのプロセスにおいて幸福になるとは限らない

「いまここ」を徹底したところ、何もやらなくなって浮浪者になった話しを聞いたとき、「なんかわかる」感じを受けたものです。

人によっては、業(カルマ)によっては、貧困に陥ることがあるのでしょう。

潜在的に有している意識が、ネガティブなことを引き起こすこともあると思います。
 

何らかの原理主義的に、「そんなことは無い」とか「そういう風になるのは間違っている!」というのは、あまりにも浅薄で、短絡的としかいいようがありません。

現実は、百人百様でしょう。
 

事実、パーリ仏典には、阿羅漢になった者でも、過去世の業により宅派時には充分な食事が得られなかったとか、自ら命を絶った者がいたことが記録に残っているくらいです。

悟ったからといって、また悟りのプロセスにおいて、全員が全員、ハッピーエンドなプロセスを経るとは限りません。

で、こうした現象こそ、業(カルマ)の存在と、過去世の実在です。
 

しかし、驚くのは、冒頭の話しの浮浪者は、そこから奇蹟のV字回帰をしたことです。

これはすごいですね。
 

しかし、誰もが、そうなるとは限りません。

一生、浮浪者で終わることもあり得ます。

「いまここ」は多様性のある生き方を展開する

結局、「いまここ」は、多様性のある生き方を展開していくんですね。

人によっては、厳しい生き方に誘われることもあるのでしょう。

常識にあてはまらない奇っ怪な人生を歩ませることもあるのでしょう。
 

だからこそ、「いまここ」への理解が難しいわけですね。

スピリチュアルに夢中な人でも、不幸になったり、浮浪者とかになった話しを聞けば、ドン引くでしょう。

「そんな風になるのは間違っている!」と絶叫する人が出てくるのも理解はできます。

しかしながら、この手の感性や理解の段階の人では、話しが難しくもなってくるわけです。

外見が不幸にみえても内面は幸せな「いまここ」もある

「いまここ」は深い。

どこまで、観念、価値観へのとらわれを落としていくか。

非常識の世界を違和感なく受け入れることができるか。
 

しかし、非常識といっても、見た目だけ。

外見だけ。
 

内面は、幸福感に満ち、人としてのハート、思いやりを備えている。

これは普通には、理解不能な状態です。
 

人生での成功、こうあるべきだ、あれは正しい間違っているという意識が強い人には、到底、「いまここ」の深い領域は不可能です。
 

世間の常識の物差しにあてはまっている「いまここ」の生き方なら侃々諤々にはなりません。

しかし、スピンアウトするような生き様になると、さあ、大変です。

試練の連続になります。
 

意識の声に従うとは、こういう破天荒な歩みになる可能性も秘めています。

ここまでのことを、言及できるかどうか。
 
とても厳しい側面を見せつけられます。

「いまここ」の生き方は厳しい。

社会生活を送っている人は「念」と「定」の両輪が望ましい

なので、私は、「いまここ」が深まってきて、危険領域に入りかけたなら、出家か出家環境に身を置くのが望ましいと思っています。

経済的に余裕のある人なら、何もしない生活を貫くことができるかもしれません。けれども、こうした人は、ごくごく限られた人でしょう。
 

もしも、そのまま社会生活を送る倍は、折衷案が現実的だと思います。

折衷案とは、「念(サティ)」と「定(サマディ)」の両輪のやり方。

捨てることと、積み重ねることを両方行っていく進め方ですね。

これが無難であり、安全であり、問題にならないやり方であると思っています。