「善悪の判断」必要だが真理においては手放す

善悪の判断は欠かせない

現実の生活においては、「善悪そのもの」を見極める感性が必要です。

ここでいう「善悪」とは、「心が綺麗か、汚いか」という意味ですね。この見極めが無ければ、見境なく、悪業を犯してしまいます。

けれども、意外と、ここで勘違いしているケースがあります。

「善悪を判断しない」というのを額面通りに受けてしまう。そのため、社会悪といわれる問題に対しても無関心を装う人も出てくるわけです。

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社会の問題に対して、冷静に見極めることは大切です。ですが社会の問題に対して、過剰に反応し過ぎるのがよくないわけですね。

たとえば怒りモードにハマって、カリカリしてしまうの場合です。

アジャシャンティが説く善悪の苦しみ

ところで「善悪の判断」が、自分を苦しめてしまうことがあります。

「自分はダメ」だとか、そういう思考モードにハマってしまうときです。

こういうのは、まさに「自分を裁く(ジャッジする)」モードです。いわゆる「善悪の判断をする(裁く)」という行為です。

こうしたことを、アメリカの覚者アジャシャンティが、わかりやすく説明してます。

アジャシャンティは、「自分を裁く」モードにハマっていたというわけです。しかしそのことに気付き、ジャッジすることを手放したと。

自分自身の「根本的な姿勢そのもの」に、「良い悪い」という判断をしてしまう。
判断をして、一喜一憂してしまう。
こうした姿勢があったことに気付いたわけですね。

ちなみに、アジャシャンティは悟った方です。

真理においては善悪の判断を放置

物事を正しく見るためには、善悪の判断は必要です。実際の生活において、善悪の判断は欠かせません。

もっといいますと、現実の生活では、思考が必要です。

けれども、真理に至るプロセスにおいては、修行においては、善悪の判断、ジャッジ、思考と一体化することは、それらに気づいて、回避していくことが欠かせません。

で、思考に限らず、同一化していること自体に無自覚になることを回避していく必要があります。

このことが「気づき」とか「サティ」といわれています。

現実と真理とでは善悪判断は異なる

真理へ至る過程においては、あらゆるジャッジ、思考は、気づいていく必要があるということですね。

実際の生活では、善悪の判断は欠かせません。この辺りの妙味がわかることも大切なのでしょう。

現実的なことも含めていえば、善悪を判断して、感情を引き起こし、「良い悪い」「好き嫌い」といった具合に、やたらに裁くのが良くないということですね。

また、その時代や社会で通用している法律とか価値とか常識で、善悪を判断しても、それは真理の世界では無意味ということですね。

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