イエス・キリストの復活は後世の創作・追加・改竄?

イエス・キリストの復活は後世の創作?

キリスト教を知れば知るほど、ビックリな話しが出てきます。

たとえば「イエスの復活は無かったのでは?」という話しがあります。

このことは聖書学の世界で言われているといいます。「イエス・キリストの復活」は後世の追加の可能性があると。

なんと!

イエス・キリスト復活が後世の追加であることは、バート・D・アーマン田川建三氏の書にあります。特に田川建三氏「新約聖書 訳と註 マルコ福音書/マタイ福音書」p491~p500にかけて詳細な説明があります。

「イエス復活は創作?」は、キリスト教の神学では200年前から指摘されているようです。しかし一般人にはあまり知られていないといいます。

そのため世間ではほとんど知られていないことだといいます。が、クリスチャンでないと、なんとなく「作り話なのでは?」と思います。

とはいっても、「イエスの復活」はキリスト教では最重要の教義になります。イエス復活を否定すると、教義や信仰が総崩れになります。イグナチオの霊操も、イエス復活に基づく観想修行もあるくらいです。

イエス復活は、キリスト教では超重要な教えになります。外す、まして否定することは言語道断でしょう。

しかし歴史を丁寧にたどっていき、文献をしっかりと研究していくと、イエス復活は創作の可能性が高いというのが、キリスト教神学における結論のようです。

イエス・キリスト復活の真実

で、「イエス復活は創作であろう」のあらましは次の通りだといいます。

  1. イエスの生涯を記述した最初の福音書「マルコ福音書」
  2. マルコ福音書が最初に書かれて世間に広まった
  3. ちなみにマタイルカは、マルコを下地に作成された
  4. 元祖福音書であるマルコ福音書は16章8節で終了
  5. マルコ福音書にはイエス復活の記述はない
  6. マルコ福音書ではイエスの墓は空っぽだったで終了(16章8節「恐ろしかったからである」で終了
  7. マルコ福音書では、イエス復活の真偽は不明(言及がない)
  8. マルコ福音書は世間に広まる
  9. しかしパウロ教としてはこれでは問題がある
  10. イエスの死と復活こそパウロ教教義のキモだから。信仰のキモ。絶対に外せない
  11. そこでマルコ福音書を参考にしながらも、マタイ福音書、ルカ福音書では「イエス復活」を創作して追加した
  12. その後「イエス復活は真実」として強調
  13. 後になってから、オリジナルのマルコ福音書にもイエスの復活を追記(16章9-結び)
  14. 事実、最も古くかつ重要な聖書とされている「シナイ写本」「ヴァチカン写本」の両方とも16章8節で終了(イエスの復活話しはない)
  15. しかも3~4世紀に活躍した聖書注釈家エウセビオスも弟子宛の手紙の中でこれらを証言している。

おおよそこういうことのようです。
証拠は多方面から出そろっています。

イエスの復活は創作の可能性が濃厚。少なくとも、最初に書かれた福音書マルコには、イエスの復活話しは載っていなかった。つまりイエス復活の話しは真実でないとマルコは考えていた可能性が高い。

しかし、これではパウロ教側としては大問題。なぜならイエスの死と復活こそが信仰のキモだから。そこでマタイとルカの福音書では、イエスの復活を書き入れた。

これが史実になりますね。

イエス・キリストの復活話しは噂に尾ひれが付いて伝聞した?

「イエスが復活した」というのは、おそらく伝聞(噂)に尾ひれが付いた話しなのかもしれませんね。

昔、「口裂け女」「人面魚」の噂もありました。で、目撃者も何人も出てきたものです。「私は見たよ!」と。

で、「口裂け女」や「人面魚」の話しは事実であるかのように広まったものでした。

ところがやっぱりデマだったことが判明。

これと同じで当時「イエス・キリストは生き返ったんだって!?」という噂話が広まって、あたかも事実であるかのように言われ始めたのではないかと。

ちなみに初期のキリスト教徒は、奴隷、女性、子どもといった知的訓練を受けていない(受けられない)方々が多かったといいます。

また当時は、今では考えられないほどの過酷な時代。今日食べるパンの入手にも困り、絶望も多く希望を見いだせない時代だったと。

認知や知的レベルのほかに希望や願望やらも重なって、「イエスは復活したんだって!」という噂を、本当の話しと信じて(信じたいとして)広まったんじゃないかと思います。

キリスト教を作ったパウロは復活を信じていたファリサイ派

で、キリスト教を作ったのはパウロです。パウロはファリサイ派の人。で、ファリサイ派は「死んだ者も復活する」を信じていた派なんですね。

なのでパウロとしては、イエス復活の噂話を「事実」と信じてしまったのでしょう。というか彼も「信じたかった」のかもしれませんね。

実際、パウロが作ったキリスト教には、パウロの思惑が表れています。ファリサイ派とパウロ教(キリスト教)を比較すれば浮き上がってきます。

  • ファリサイ派は「律法主義」パウロ教では「信仰主義」に大転換。律法を否定してイエス信仰を義(正しい)とする。
  • ファリサイ派では「復活信仰」があった ⇒ ユダヤ教にはかつて「復活」の出来事はなかった。しかしイエスが初めて「復活」した(と信じたい)。ユダヤ教史上快挙となる出来事。これはすごいことだ!

ご覧の通りです。パウロが作ったキリスト教の重要教義は、ファリサイ派を意識している(ファリサイ派を超えようとする)意図があることは明らかです。

キリスト教はパウロが作ったユダヤ教(ファリサイ派)のアップデート宗教だった キリスト教を簡単にいえばイエスの「死」「復活」がキモのユダヤ教

イエス・キリストの復活はパウロが広めた?

で、パウロは旧約聖書のダビデの預言などを当てはめてイエスを解釈。で、「イエスは肉体のまま復活した」と言い出して布教。しかし引っ込みがつかなくり、強引にでも押し通した。

これが本当のところでじゃないかと。

で、引くに引けなくなったことが、その後のパウロ教(キリスト教)の強引さ高圧的な姿勢、また異なる教えに対して徹底的に排他し、しまいには抹消(焚書、処刑)するほどにまで徹底したいくようになっていったのではないかと。

パウロ達は、「もしかしてイエスは復活していなかったのかも?」という迷いに正直になれば、その後キリスト教が犯した数々の残虐事件は起きなかったかもしれませんね。

当時は復活信仰が広く信奉されていた

ちなみに当時は大変荒んだ時代だったといいます。陰気さは墓場のようでもあり、希望も見いだせない時代。

こうした荒んだ時代だったこともあって、当時は「メシア信仰」「復活信仰」が広く信じられていたといいます。

「亡くなっても復活し、いつまでも若々しく、病気で苦しむことも、生活で苦しむことのない不老不死かつスーパーボディ」となるといったユダヤ教に伝わる「復活信仰」。

この復活信仰が、当時、広く浸透していたため、「イエスが復活する(した)」という話しや噂も、信憑性をもって、あるいは期待を持って信じられたということは容易に想像がつきます。

イエス・キリストが生きていた頃はメシア信仰と復活信仰が広まっていた時代

別段、パウロ達の布教や宣伝で「イエスの復活」が信じ込まれたのではなく、当時、復活が広く信じられていた(希望の種となっていた)ということですね。

福音書作者のマルコは真実を知っていた

しかし最初に書いた通りでして、田川建三氏「新約聖書 訳と註 マルコ福音書/マタイ福音書」p491~p500には詳細な説明があります。

聖書学者の田川建三氏によると、福音書作者のマルコは真実を知っていたといいます。「イエスは復活していなかった」と。だからマルコは福音書にイエスの復活を書かなかったと。

事実、最古のマルコ福音書の写本には、マルコ福音書は16章8節で終了しています。「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」で終わっていると。

実際、最も古くかつ重要な二大聖本と言われている「シナイ写本」と「ヴァチカン写本」は、両方とも16章8節で終了しています。イエスの復活の話しはない。

らさに3~4世紀に活躍した聖書注釈家・エウセビオスも弟子宛の手紙の中で「マルコ福音書は16章8節で終わっている」ことを書いているといいます。

で、これが事実なんですね。史実です。

イエスの死と復活がなければパウロ教側が困る

が、パウロ派としては、これでは困ります。なんといっても「イエスの復活」はパウロ教の中核だからです。これがあってこそイエス信仰が成立しているほど。絶対に外せない。

外せばパウロ教が崩壊する。他のイエス信仰グループに主流の座を奪われてしまう。是が非でも自分が信じる宗教を押し通したい。広めたい。

そこでマタイやルカの福音書では最初から「イエスの復活」話しを挿入。後になってからオリジナルのマルコ福音書にも追加。改竄。

が、追加すれば痕跡が残る。200年前にバレた。

現在で知られているマルコ福音書は「16章9節~結び」まであります。しかし、これは後世の追加・改竄であると。

ちなみに、追加された文章を読むと、いかにもキリスト教らしい仰々しい物語になっています。逆にいえば、追加・改竄された箇所は、このように不自然なほどの仰々しい記述であることが推測できてしまいます。

以上のことをもっと詳しく知りたい方は田川建三氏の「新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書」をお読みになってみてください。納得すると思います。

おそらくこんなところではないかと思います。

キリスト教は解釈の宗教

「イエスの復活」は、パウロ教(キリスト教)では最も重要な教義です。

しかし、このことですらあやふやといいますか危うい。脆弱な論拠に基づくキリスト教って感じでもあって「どうなの?」ってなりそうです。

キリスト教は「解釈・判断」の宗教です。解釈・判断といった知的エッセンスが強い。どっちかといえば宗教というよりも思想・イデオロギーです。

キリスト教は「イデオロギー宗教」「解釈の宗教」だと思っています。

が、こういう宗教も珍しかったりします。

ちなみに仏教や神道などでは、修行をして深めていけばいくほど、言語化されたものは周辺に追いやられます。方便として扱います。

そもそも神道は言葉化されたものはありませんでした。神道は宗教でもなく「霊性」の有り様。

仏教や神道は典型的ですが、言葉ではなく「霊性」を重んじています。体験を重視。

しかしキリスト教は、これとは正反対で、むしろ教義に固執するようになります。言葉にとたわれ、教義にとらわれる。で、少しでも異なると排他的になる。攻撃性も強まって、しまいには処刑にまで突き進みます。執着、執念が強くなる宗教ともいえそう。

キリスト教の勉強を続けていますが、反面教師としてのキリスト教(パウロ教)という感じが募ります。

おそらくキリスト教は、本来のイエス・キリストの教えとは違うんだろうなあと。今はそのように感じています。

で、イエス・キリストの教えは、正統派と自称している教会側が「異端」と呼んでいる中にあるんじゃないかと思います。

2 COMMENTS

にゃんこ

以前、関西学院大学の元学長が教会礼拝式で説教をし、その後勉強会を開き元学長は「キリストはゾンビのように(ゾンビのようには私の表現です)復活したのではなく、教会として復活したのです」と言われました。教会はイエスの理想とはうらはらに、キリスト教=パウロ教として発展し世界中に広まり、人民の心まで支配する巨大組織となりました。イエスは自然と命の根源を天の父と呼び、イエスを師と仰ぐ人々が清く正しく生きて行こうと志す集まりがキリスト教会ですが、そうはなりませんでした。アーマンは不可知論に陥りましたが、その理由は「愛の神がいながらどうして人間に苦しみがあるのか」との問いに回答が得られなかったからです。アーマンは「神とはこうでなければならない」という前提に立っているからです。もともと西洋の神はユダヤ人やキリスト教会が作り出した偶像です。田川健三サンは優れた新約聖書学者で批判精神に富んだ方です。しかしもうお年をめした方で、教会を改革する余力はありません。キリスト教会を復活させるには若い力が必要だと思いますが、いかがでしょうか。

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トリステーザ

私はイエスをリスペクトしていますが、クリスチャンではありませんので、その点はご理解していただくということを前提に言いますと、キリスト教を復活させることは極めて困難だと思っています。おそらく自然に淘汰されていくか変節していくと思っています。

というのもキリスト教の問題は、言葉で理解したり情緒的に受け止める姿勢そのものにあると思っているからです。仏教、ヨーガ、神道などは言語化された教えよりも霊性を培うことを重視していて、言葉化された教法から離れていく趨勢があります。ところがキリスト教をはじめとしたアブラハムの宗教は、言葉にこだわり、言葉化されたものを重視。これは致命的な欠陥であり、言葉に規制されている以上、どうあがいても問題の解決には至らないと思っています。

とはいえキリスト教は長い時間をかけて変節の歴史をたどっています。プロテスタントの登場による揺さぶり。その後「内なる光」を重視したジョージフォックスはグノーシス的であったものの、理解する信徒がいなかったため衰退。ユニテリアンは日本の神道に近い創造主観があり、三位一体とイエスの奇蹟否定していたものの、観念的であったため今ひとつ。現在アメリカの福音派の主流となっているペンテコスタルは、まさにモンタノス派的でありスピリチュアルそのもの。

キリスト教は内部から変節を繰り返して、やがてパウロ教の原型も崩れていき、非言語的なスピリチュアリズム(たとえば「シルバーバーチの霊言」は明らかにキリスト教の問題を前提にしています)へと変節していくと推察しています。あるいは初期教会の時代に異端として抑え込んだグノーシスやモンタノス派が形を変えて登場し、こうしたバラエティのあるキリスト教の登場がうねりとなり、キリスト教そのものの改革になる(といいますかパウロ型のキリスト教は変節・衰退していき、やがてまったく別の有り様になっていく)のではないかと思います。

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