パウロは復活したイエスに遭った?~イエスの姿を幻視したアストラル体験

パウロがキリスト教を作った

キリスト教はパウロが作った宗教です。
このことはこちらで詳しく解説しています。

キリスト教はパウロが作ったユダヤ教(ファリサイ派)のアップデート宗教だった

しかしパウロの教え(イエス信仰)は、イエスが説いた教えとは異なります。

たとえばイエスは「律法」を重視しています。が、パウロは律法を完全否定しています。完全否定どころか、律法を守ると救済されないとまで断言しています。

またイエスは「自分以外の人の子が降臨して神の国を作る」といっています。が、パウロはイエスが再臨して神の国を作る」と言っています。

さらにいえば、イエスは信仰を強調していません。イエスは、ファリサイ派のような教条的にならない本質的な律法を推奨。また隣人愛をも包括した親切心の実践を推奨。で、これらを実践していれば誰でも神の国に入ることができると言っています。

しかしパウロの教えは「信仰のみ」です。イエスの死と復活を信じる信仰のみ。

パウロが説いた教えと、イエスが説いた教えには違いがあります。で、当時からパウロの教えへの疑問を抱く人も多く批判も多かったようです。

パウロは復活したイエスをに遭った?

そんなパウロなんですが、自らの考えこそが「福音である」と信じていたようです。事実、パウロ自らの信念に基づいて、キリスト教を考案し、布教し、教勢を拡大しています。

パウロの活動があったお陰で、パウロ教(キリスト教)は地中海沿岸に広まり、ついには4世紀末にはローマ帝国の国教となり、世界宗教へとステップアップ。このことは事実ですね。

しかし別の見方をすれば、パウロの強引さによって広まったともいえます。

で、パウロが自らの信念に強く確信を抱く理由は、「復活したイエスに遭ったから(イエスの姿を幻視したから)」だといいます。

新約聖書に伝わるイエスの姿を幻視したパウロ伝

パウロが「復活したイエスに遭った(イエスの姿を幻視した)」ことは、本人がそう言っています。

このことは新約聖書にあります。4ケ所記載があります。それは、

  • コリント一15章5-8節・・・イエスが現れた(イエスの姿を幻視した)
  • ガラテヤ1章16節・・・イエスの姿を見た(イエスの姿を幻視した)
  • コリント二12章2-7節・・・他人事のように言いながら「第三の天へ引き上げられた」「楽園へ引き上げられた」「素晴らしい啓示を受けた」と回顧
  • 使徒言行録9章・・・光を浴びながらイエスに語りかけられる幻視&回心体験

この4カ所です。

さらに詳細に記しますと、こちらの引用になります。

コリント一15章5-8節

コリント一15章5-8節
こちらにあるのは一言だけです。「イエスが現れた(イエスの姿を幻視した)」というシンプルな説明。十二使徒に続いて、遅ればせながら私もイエスの姿を見たといい、これを復活後のイエスに遭ったと思っています。

ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

ガラテヤ1章16節

ガラテヤ1章16節
こちらも一言です。シンプルな表現。イエスの姿を見た(イエスの姿を幻視した)ことを言っています。

御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

コリント二12章2-7節

コリント二12章2-7節
こちらは第三者のこととして自らの邂逅体験を言っています。コリント一やガラテヤよりも詳しいです。他人事のようにしているため能弁になっています。「第三の天」「楽園」へ引き上げられた「素晴らしい啓示を受けた」と回顧しています。

わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。 彼は楽園にまで引き上げられ人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです このような人のことをわたしは誇りましょう。

しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

使徒言行録9章

使徒言行録9章 サウロの回心
これが最も詳しい記述です。ルカが書いています。が、後述しますが、これは創作でしょう。そもそもルカが書いた福音書と使徒言行録はルカ自身は「福音書と言っていない」と田川建三氏は指摘しています。パウロ教のプロパガンダ、教団宣伝パンフレットが、この2書になります。

話しを相当に盛り込んで虚実を織り交ぜていると思います。現代の新興宗教でも、大袈裟に体験談を書いてパンフレットを作成していますが、ルカの作品も同じだと思います。使徒言行録にあるパウロの体験は話しを盛ったフェイクでしょう。

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 すると、主は言われた。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」

すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 食事をして元気を取り戻した。

パウロは自らの信念を真の福音とした?

このようにパウロは、復活したイエスの姿を幻視しています。で、この幻視体験を、パウロは「復活したイエスと遭った」と言っています。

で、この体験が、パウロの考えに確信を持たせ、自分の体験こそ「真の福音だ」と確信させることになっているのでしょう。

なので生前のイエスが説いた教えとは違うことを言ったり、イエスが説いたとする福音をほとんど関心を持たなかったのではないかと思います。イエスに遭った幻視体験が確信の根拠だからです。

ちなみにパウロの言説には、後に福音書となるマルコ、マタイ、ルカなどにある「イエスの言説」からの引用はまったくといっていいほどありません。

こうしたことからも、パウロには強い自負心、信念、自らの考えへの絶大な自信があることがうかがえます。

で、この強烈な自負心が、パウロ教をキリスト教と称して、地中海沿岸に広げるグローバル宗教とすることにも成功したんだと思います。

使徒言行録のパウロの回心体験への疑問

先述の通りで使徒言行録にあるパウロの回心体験は詳細です。

パウロは道中、突然、光を浴びて、イエスから「迫害するのを止めるように」と語りかけられた。その後、三日間目が見えなくなった。これをきっかけにパウロは回心。

しかし使徒言行録は史実と違うことも多く記述も脚色が多いと言われています。使徒言行録にあるパウロの回心体験も創作の可能性が高いと思います。

実際はコリント人への手紙、ガラテヤの手紙にあるようにシンプルに「イエスの姿を幻視した」のでしょう。で、この幻視体験をもってして「復活したイエスに遭った」と言っているんでしょう。

もしも使徒言行録のような体験をすれば、パウロ真筆のローマ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤの手紙の中で、もっと詳細に書くはずです。

パウロの性格なら、ガンガンに言いますよ。言わないというのは使徒言行録のような体験をしていないからです。

コリント二12章2-7節では、第三者を装って「第三の天」に引き上げられたことを言っていますが、第三者を装うなら使徒言行録にあるような派手な話しをするはずです。パウロの性格なら、そう言います。

なぜこう言えるかといえば、これ以上の説得力はないからです。自信満々に「私は道中、イエスに話しかけられ、復活したイエスから指導を受けた」とか、もっとインパクトのある手紙になるはです。しかもパウロの考えが「正しい」ことを示す根拠にもなります。

けれども使徒言行録にあるような詳細な体験を語っていません。ということは使徒言行録にある事実でないということじゃないかと思います。

もっといえば使徒言行録にあるパウロの回心体験は創作(フェイク)。

先にも書いた通りで、ルカが書いたとされる使徒言行録は、そもそも史実と違うことが多いと言われています。全般的にフェイクで書いたものが多いと思います。

パウロ真筆の文書は信用できます。が、使徒言行録はほとんど信用でいない文書じゃないかと思います。

なので使徒言行録にあるパウロがイエスに遭ったという話しも、福音書作家ルカによる創作であることはほぼ間違いないと思います。

パウロの体験の真相

使徒言行録にあるパウロ回心体験は話しを盛った創作なんですが、コリント人への手紙一、二、ガラテヤの手紙にある「イエスの姿を幻視した」というのは本当じゃないかと思います。

で、イエスに遭ったという、その幻視は、いわゆるアストラル界的なスピリチュアル体験でしょう。

リアルにイエスに遭ったのではなく、妄想や白昼夢の可能性が高いと思います。

あるいは何らかの霊的存在がパウロにビジョンを見せた可能性もあります。

日本の昔話しにある「きつね」の化かしのように、お狐さんや蛇神さんといった精霊は、不思議なビジョンを見せるときがあります。

ユダヤの神は低次の霊的存在ですので(自分を創造主として勘違いしている)、そうした次元の低い霊的存在がパウロにビジョンを見せた可能性もあります。

で、こうした低次の霊的存在が見せるビジョンもアストラル界的なスピリチュアル体験になります。

イエスは幻を見ることには否定的

ちなみに外典の「マグダラのマリアによる福音書」によれば、マリアが「イエスの幻を見たものの動揺しなかった」ことをイエスに言ったところ、イエスは「何とすばらしい!」と絶賛されています。

むしろイエスは「私の幻を見ても動揺しないことは良いこと」として褒めています。

で、人が幻(ビジョン)を見るのは知性(妄想)であるとして、所詮、夢や幻(まぼろし)であることを言っています。

パウロのようにイエスの姿を幻視して、それを「復活したイエスに遭った」と早合点することは、イエス自身は望んでいないどころか、関心しなていないということですね。

これは非常に重要なイエスの言葉です。

マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的

パウロは一瞥体験をした?

話しを戻しますが、パウロが見たイエスの幻視。

他に可能性があるのは「一瞥体験」の可能性があることです。

しかし一瞥体験では、映像やビジョンを見ることはありません。

パウロの場合はイエスの姿を見ているようです。ですので一瞥体験の可能性は低いのではないかと思います。

しかも一瞥体験をすれば、深遠さを求めるようになります。信仰というスタイルを取ることはなく、グノーシス主義のような内的観察や真理探究のアプローチになります。

パウロ教は「イエスの死と復活を、旧約聖書の預言を絡めて理屈で考えて、その理屈を信じる宗教」です。

いわば左脳的な宗教。観念的な宗教です。一瞥体験をした人は、観念からの離脱傾向が出てきますので、パウロ教のような左脳的な宗教を作ることは考えにくい。

パウロ教は、理解する宗教であるため、多くの人に受け入れられる宗教。しかしそのお陰で、当時、苦しみ悩む人の多くに救いとなっているのは事実ですね。しかし一瞥体験をした人が、こういう大衆向け宗教で納得することは考えにくい。

したがってパウロは一瞥体験をしていないのではないかと思います。

パウロはハートの覚醒体験をした?

あるいはハートの覚醒体験が起きて、その後、イエスの幻視を見たのかもしれませんね。

というのもパウロは愛憎共に激しいものの、深い愛情があることは確かだからです。

もっともパウロの愛情は、いわゆるハートチャクラが不良化している状態です。

ハートチャクラが不良化すると、愛憎共に強くなり、攻撃性も高まります。パウロの性格は、ハートチャクラが不良化した状態に近いんですね。

しかしハートの覚醒が起きたならば、もっと崇高なことも理解できるようになります。イエスを祀って信仰するという、雑なやり方にとどまることは考えにくい。

もっと高次な次元の宗教化にするはずです。イエスの死と復活を、旧約聖書の預言に絡めて強引に解釈して、その解釈を信仰とする、いわばイデオロギーにして納得することは、ハートの覚醒をした人がするのは考えにくい。

したがったハートの覚醒も起きていないのではないかと推察します。

結論:パウロはアストラル界的なスピリチュアル体験をした

となりますと、消去法で、やはり、アストラル界的なスピリチュアル体験をしたのではないかと思います。

使徒言行録の記述はオーバーかつ創作になりますが、第三者の振りをして「第三の天」に引き上げられた「コリント二12章2-7節」の話しでは、やはりビジョンを見ていることが明らかです。

ですので、パウロの体験は、幻視・ビジョンの体験で、妄想または霊的存在が関わったアストラル界的なスピリチュアル体験になると思います。

しかし妄想や白昼夢であっても、あるいは何らかの低次の霊的存在による幻視であっても、それがパウロの信念、確信となって、原始キリスト教は作られて、地中海沿岸に広まり、そうしてローマ帝国の国教となり、世界宗教となっていったということですね。

2000年前の当時は、ローマ帝国の圧政に苦しむ人々が多かったですので、そうした苦しみ人々の救いとして、パウロ教は役だったところもあったんじゃないかと思います。

パウロ教(キリスト教)の根底には、パウロの「イエスの幻視体験」があるってことですね。で、その幻視体験が中身がどうあれ、パウロを強く動かしたことはまごうことなき事実ということですね。

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