マインドフルネスの本当の歴史~念、覚知、気づき、智慧

マインドフルネスの真実

これは良記事。
おそらく、日本では、ほとんど知られていない事実です。

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/09/23/102022
「Vipassanā 瞑想にとって、サマタ瞑想は有害である。サマタをしないで、直接 vipassanāに取り組もう」という国民的運動が、英国から独立した直後の緬甸に起き、これが隣国タイに伝わり、タイから全世界に伝わっていきました(タイに修行に来ていた欧米の人たちが、母国に戻って伝えた。その為、欧米では、マインドフルネス瞑想、vipassanā 瞑想という言葉が、一人歩きしてしまった)。

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/09/25/070111
そこで、アメリカの兵士の中に、休暇を貰うと、タイの僧院に行って修行をする、ちょっと変わり種の人々がいました。この人たちが、タイの僧侶方が言う<サンマ・サティ>を、<マインドフルネス>という英語に置き換えました。

このマインドフルネスという訳語が、日本に入って来ると、古めかしい漢語の<正念>よりも斬新な感じがする為もあって、日本でも、瞬く間に流行しました。そして、

サンマ・サティ
= マインドフルネス
= マインドフルネス瞑想
= 気づきの瞑想
= 常に(己自身の喜怒哀楽に)気づいている事
= Vipassanā 瞑想
 

という図式が出来上がりました。
しかし実は、中国語の<念>の本当の意味は<忘れない事>で、では何を忘れないのか?と言えば、<業処>を忘れない、です。

気づきの瞑想とは「覚知」「正知」だった

素晴らしいですね。
よく、この真実を言われたものです。

このブログに書いてある通りです。
大正解。

「マインドフルネス」は、「念(サティ)「気づき」と言われていますが、これは違うということですね。

タイやミャンマーでも「気づきの瞑想」という瞑想があります。マハシ式などがそうですね。が、「念(サティ)」ではないということですね。

これらの瞑想は、「五感に入る情報に注意(気をつけて)、心を整える」のが目的の動作になります。

「覚知」「正知」です。
瞑想に入る前の準備トレーニングになります。

気づきの瞑想が成立していく歴史

ところが、上記のブログにある通りで、

  1. ブッダは、サマタ瞑想(禅定)だけでは解脱は無理と言っていた。
  2. ブッダは、サマタ瞑想(禅定)はヴィパッサナ(観察)に直接、役に立たないと言っていた。
  3. 禅定の手前の近行定と智慧による観察で阿羅漢になれる(乾観者、慧解脱者)
  4. 19世紀半ばから始まった仏教改革運動によりミャンマーでは、瞑想から「気づき」

こうした事実があり、後世において、瞑想修行が変容してしまった歴史があります。

この変容の歴史は、ミャンマーで19世紀半ばから始まった仏教改革運動が始まりです。禅定から「気づき」と言われるやり方に変わりました。で、これがタイにも伝わっていきます。

で、現在「気づきの瞑想」とかいう言い方で、「五感に入る情報に注意(気をつけて)、心を整える」ことが「瞑想」と言われています。マインドフルネスとも言われています。

ミャンマーから始まった瞑想が変容する仏教改革運動

何故、こういうことになったのでしょうか。歴史は、ミャンマーから始まります。

ミャンマーでは、19世紀の半ばから終わりにかけて、政府主導で仏教瞑想の改革をしています。

それは、禅定(サマタ瞑想)は危険という触れ込みとともに、禅定をしないで、いわゆる「気づき」でOKとする動きです。

この流れを受けて、マハシ、ゴエンカといったやり方が台頭してきています。ビルマ政府も後押しします。

マハシとゴエンカは、ビルマを代表する瞑想の仕方です。これが広まった背景には、ビルマ政府の意向があったわけです。

ちなみに、こうした運動が起きた背景には、禅定ができる出家比丘は3割くらいしかいなかったためです。比丘の地位と権威に揺らぎが出てきやすかったからと言われています。

つまり、禅定のできない比丘にも権威を保たせるために、禅定の無いやり方を推進したという話し。

タイにも伝播した仏教改革運動

ビルマの仏教改革の流れは、隣のタイにも伝わります。タイでも、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、仏教が改変されています。

最初は19世紀の半ば。王室のモンクット親王が、仏教を大幅に改変しています。

モンクット親王は、西洋合理主義に対抗するために、それまで仏教にあった神通、天界・餓鬼といった異次元の世界、輪廻転生などの神秘的なことを全て排除。

で、「心理学仏教」に改造しています。で、これを、「タンマユニット派」として、仏教を新しく創設しています。

折しも隣のミャンマ(ビルマ)で起きた「禅定排除運動(念:サティ」運動」の影響を受けて、タイでも「禅定は危険だ」として、念(サティ)を正しい瞑想とする動きも始まります。

マインドフルネスは変容した瞑想に基づいていた

実は、こうした歴史があったりします。

で、ミャンマーとタイとで変容された仏教の瞑想に基づいて、マインドフルネスが誕生します。

マインドフルネスでは、「仏教本来の瞑想」と言っていますが、これは違います。

マインドフルネスでやっていることは、五感に入る情報に気をつけて、心を整え、落ち着けることです。

ところが、マインドフルネスでは、これを「ブッダの瞑想」としています。

しかし、これらはブッダの瞑想ではありません。「正知」「覚知」と言われるものです。

五感に入る情報に「気をつける」、いわば瞑想に入る前の準備トレーニングです。

ただし、「正知」「覚知」であっても、心を落ち着けたり、病的な人の症状を緩和するなどの効果はあります。

「正知」「覚知」は、いわば「正常な人」に立ち戻らせる方法といえます。

乖離していると「正知」「覚知」の方法でも難しい

しかし、「正知」「覚知」の方法でも改善を図ることのできない人もいます。それは「乖離(かいり)」している場合です。

思想、教義、観念、思いといった想念にとらわれていている状態です。で、「とらわれている」ことへの自覚がないため、厄介だったりします。なかなか本人が気づけない。5年も10年も乖離したままの人もいます。てか、物心ついたときから乖離しっぱなしの人もいます。

意識が自分から離れてしまっているわけです。

心が、常に自分から離れているため、瞑想もできません。「正知」「覚知」もできません。にっちもさっちもいかないわけです。

・瞑想ができない、
・魂にあるあたたかさがわからない、
・リラックスができない

という人は、ほぼ100%「乖離(かいり)」しています。

オカルト、スピリチュアル好き、小説・文学・ファンタジー、アニメな人に、乖離している人が多かったりします。

該当している心当たりのある人は、乖離している可能性が高いでしょう。「乖離」は、なんとしてでも改善する必要があります。

念(サティ)と覚知と気づきと智慧

乖離の問題もありますが、しかしマインドフルネスの歴史がようやく明らかになってきた感もしますね。

19世紀のミャンマーやタイで起きた仏教改革運動によって、念(サティ)本来の意味が変容したということですね。

元々は「一つのことに専念する、保持する」といったサマタの方法だったわけです。いわば日常生活の中で行う動中禅だったわけですね。

それが「覚知」と混同されてしまい、「気づき」といわれ、「マインドフルネス」となっていったということなのでしょう。

しかしながら「覚知」からスタートして生じる「気づき」は、おそらく「智慧」になると思います。「気づき」とは「智慧」でしょうね。

なのでアーチャンチャーも「覚知」としての「気づき」の方法を推奨されているのだと思います。

「覚知」「気づき」も決して誤りではありませんが、言葉の定義の上においては、厳密にいえば間違っているということになるのかもしれませんね。

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