大乗仏教の再評価~在家型原始仏教を再興しようとした試み

霊的な世界は慈悲・ハートが無いとわからない

この世界は、現象世界(物質世界)だけではありませんね。目には見えなくても、霊的な世界があります。アストラル界、コーザル界といった世界です。異次元の世界。よくいわれることですが、そういう世界と、この世界はリンクもしています。

が、向こうにも世界があることや、向こうの世界を実感できませんと、向こうの世界とのシンクロニティや奇瑞も起きないのではないかと思います。そう思うようになっています。

奇蹟、奇瑞は、ハートが担っています。ハート。大乗仏教は「ハートの仏教」だったということ。

般若心経は「般若波羅蜜多」マントラの読誦を奨めたお経

だから、大乗仏教は呪術や奇瑞をアピールもするのでしょう。有名な般若心経。これはマントラの功徳を説くお経です。

般若心経は「空」を説くお経と思われていますが、それは違うんですね。

般若心経はマントラ(真言)「般若波羅蜜多呪」で悟る念仏(サティ)を説いたお経だった

空の解説は「おまけ」みたいなものです。が、その「おまけ」の解説がよく出来ているため、「空」の解説の部分に関心が集まりがちだったりします。

般若心経の真髄とは、「完全なる智慧」を得るとされる「般若波羅蜜多呪(マントラ:陀羅尼)」を唱えることなんですな。「般若波羅蜜多呪」の読誦を推奨しているお経なんです。このマントラ(般若波羅蜜多呪)こそ、

掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提娑婆訶/ギャーティー、ギャーティー、ハーラーギャーティー、ハラソーギャーティー、ボージーソワカー

なわけなんです。
これです。
これが般若心経のキモ。
般若波羅蜜多呪。
陀羅尼(ダラニ)。
マントラ。

般若波羅蜜多呪は、悟りにいたる智慧を獲得するためのマントラであり、これは、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪であり(つまり世界最強ってこと^^;)

一切の苦悩を取り除く、嘘偽りの無い真実の陀羅尼だぞ!と、超太鼓判を押して「みんなこのマントラを唱えよう!」と推奨したお経なんですね。

般若心経は、空を説くお経ではなく、悟りにいたる完全な智慧を獲得するとされる、世界最強の「般若波羅蜜多」マントラを説いたお経です。

般若波羅蜜多呪と経文を音楽にしたものもあります。これは、いい音楽なんですね^^サンスクリット語で唱えられています。

マントラを重視した大乗仏教

般若心経にみられるように、大乗仏教は、初っぱなからマントラを表に出してきます。

で、このマントラが、後の「南無阿弥陀仏」「南無法蓮華経」といった呪偈(じゅげ)を生み出すことにもなっています。また、後期仏教の雑密、純密の真言へと進展していきます。

マントラのい効果を引き出すのは「ハート」

で、これらマントラを唱える秘訣は「ハート」です。ハートのパワーがあって初めて、マントラ、陀羅尼、真言は効力を発揮するトリガーを持ち得ます。

おそらく、こうしたことを言っている方はいないかもしれません。もしかすると、これは私独自の発見かもしれませんね。

マントラは、大乗仏教の特徴を端的に示したツールです。ハートを触媒とした力を発揮する手段。言霊云々とか言われますが、そうじゃあなく、ハートの力を引き出すツールです。

マントラで禅定に至ることができる

またマントラは、これを繰り返すことで、禅定に至らせる効果があります。「音」を媒介(遍処)とした瞑想にもなります。ヨーガでいうところの「マントラ・ヨーガ」。

が、禅定とかいいますと、「それは一時的な特殊な変性意識である」とか、なんとかいわれっる向きがあります。頓悟派に至っては、「修行自体が意味がない」とまでいいます。

しかし、そもそも人間の日常の意識そのものが、ある種の変性意識であるわけなんですね。「無常」の中にある限り、人の意識は偏っているわけです。

なので、「変性意識だからいかん」というのは、それはちょっとおかしな見方でもあるわけです。

要は、そういう特殊な変性意識が、あたかも悟りであるとか、すごいと思い込んで(実際、すごいのですが)、「ありのまま」でいられなくなるのが問題なわけですね。

が、禅定のように有益な変性意識もあるわけです。で、これを足がかりにして、修行を促進させることもできるわけです。

もちろん、変性意識の中にはリスキーなものもありますが、その落とし穴を熟知していれば、むしろ有用性のほうが大きかったりします。

禅定も大切

このことを意図的に誤魔化しているのか、気づいていないのかわかりませんが、ある種の意識状態になることを否定する向きがあります。

が、そうではなく、大事なことは、どういう状態であっても、それを「あるがまま」に受け止め、そういうもんだとして受け止め続けていくことなのでしょう。

で、ここへの自覚、気づきがないまま、ある種の幸福感なり喜悦感、変性意識におぼれているなら、諫められるのは当然なわけです。そんなのは当たり前。

アーチャンチャーが、禅定に入っている修行者を諫めたのは、そういうこと。で、そのアーチャンチャーが、禅定をちゃんと修行させていたわけです。

何が本質なのかを、ちゃんと押さえること。ここが肝要。意識状態がマズいのではなく、気づいていないのが問題。

虚無や否定的な姿勢は問題を生じる

こうした点がわかっていませんと、まるで手放す姿勢が唯一正しいとか、中にはここから派生的に生じる場合もある、虚無や否定的な姿勢こそが正しいみたいな偏った有り様になりかねません。

で、意外と、この虚無や否定性に、無意識にハマりこんでいるケースがあるように思います。

否定的だったりネガな状態になっていると、手放す意味を否定的に受け入れても、何ら違和感をおぼえなくなります。

で、その否定的な状態を「正しい」「いいんだ」と思い込むようになります。しかしこれは、生来のネガな性格を助長しているだけなのですね。(この自覚が無いならば、気づきが無いことになります。)

「無有愛」という生きること自体を否定し自滅に導く心

で、こうした心の正体は「無有愛(むうあい)」だったりします。「無有愛」とは、生存を否定し、生存を止めたい、つまり自滅、自殺へ駆り立てる根源的な渇愛(かつあい)の一つです。

自滅、自己否定という欲望。それが「無有愛」という欲望。「無有愛」は「怒り」の心から生じています。怒りは、その本質は拒絶、拒否、嫌悪です。これが生存欲を否定し、自滅、破滅をうながす「無有愛」となります。

情欲や何かを得るといった「欲望」が諫められることが多い仏教ですが、否定し、自滅し、衰退させようとする「無有愛」もまた欲望だったりするわけです。「無有愛」に陥っているならば、自己向上や自己肯定といった生存欲である「有愛」に陥っているほうがまだましでしょう。

なぜなら、このベクトルは現代社会の流れにも一致するからです。しかしもっとも良いのは、両辺にも陥らない第三の立場(つまりこれが中道)です。

極端な苦行も、「無有愛」が動機となっています。もしかすると、お釈迦さまの六年間の苦行もそうかもしれません。

ちなみにお釈迦さまが六年間の苦行をしたのは、過去世においてジョーティパーラという人間だった頃に、迦葉仏(カッサパ仏)を誹謗したことが原因であると、小部経典の譬喩経にあります。

覚者・仏陀を誹謗したことで、破滅的な「無有愛」を生じたというのは、あながち空想ではないでしょう。

欲望を否定する表現を取る仏教では無意識のうちに無有愛に陥りやすい

話しを戻しますが、仏教では、欲望を否定する表現が取られているため、否定欲である「無有愛」に突き動かされたまま経典の否定的文言に共鳴し、ますます「無有愛」という「破滅的な欲望」を増長していることに気がついていないケースも意外と見受けられます。

問題なのは、この否定性(否定欲)がほとんど省みられることがなく、むしろ「執着を手放す」といった文脈と絡められて、破滅の指向性が正当化されているケースを見かけることが少なくない点です。

が、おわかりの通り、こうした有り様は間違いです。完全な間違いになります。「無有愛」のワナを喝破しなければ、仏教はネガな性質の嗜好物になるだけでしょう。

仏教への取り組みの基本では適切な楽を提唱している

生存を否定する「無有愛」の姿勢は間違いなんですね。こうしたことを示唆する教えは、いくつかあります。

たとえば中部経典第101経「天臂経(デーヴァダハ経)」には、苦楽への四法が説かれています。この教えでは、

・自分を苦しみで覆わない 
・正当な楽を捨てない
・正当な楽に没頭しない
・より精妙な楽に到達するように努力する

といったことが説かれています。これは正しい努力をすることで、苦がなく楽を享受できるとする心得です。もちろん、この楽とは涅槃のことでしょうね。

また清浄道論にも「七随応」というのもあります。修行では、気候も適切なところに住んで、食事をとって、コミュニケーションをして、友人を得て交際をして、日々、適切な行動をとっていくことをお勧めした教えもあります。
 

仏教は、「無有愛」のように変に否定的になる教えではないんですね。仏教教団を分裂させたデーヴァダッタは、否定的マインドの強い原理主義者だったくらいです。デーヴァダッタは、厳格に戒律を守り、厳しい修行をして、ハードなことをしたがっていたんですね。

しかしお釈迦さまは、そういうデーヴァダッタの姿勢に対して「違う」と異議をとなえて、ソフト路線の修行を推奨するようになっています。

普通の人の感性のほうが適切

だから、普通の人は、否定的な姿勢で取り組む仏教の様子を見て「おかしい」と感じるわけなんです。何か間違っている。ズレている。おかしい。そう感じる。

で、無有愛に陥ったままの取り組みをしていると、実際、どんどん脆弱化していくようになります。

貧しくなっていく。
創造性が出てこなくなる。
後ろ向きになる。
ハートも弱くなってしまう。
そんな弊害が実際に起きている。

だから大乗仏教が登場した。
ハートを全面に出して登場した。
おそらく、そういうのもあったと思います。

手放す修行は出家向け

現代のように、人と人とが結びつきあっている社会では、出家的なアプローチでは行き詰まってしまいます。手放すやり方が有益で効果あることは間違いありません。

しかし、これは社会生活を送っている者には、大変厳しい。「無有愛」のリスクもあります。あるところまでは活かせることができても、進んで行くと、大変、厳しくなってきます。精妙かつ巧妙な「無有愛」は厄介だったりします。

しかしその厄介さや厳しさを超えるのが修行といえば修行なのでしょうが、生活が破綻しかねなくなります。これでは非現実的。

やはり、手放すというのアプローチは、人里離れた環境に、ある一定期間滞在するなどをしなければ、なかなか難しいことがわかってきたものです。

出家か、相当に恵まれた環境にある人でなければ難しい。いや、出家している者ですら困難を憶えるでしょう。それくらいハードルが高いのが実際のところ。現代では特に、ハードルが高くなります。

在家型の原始仏教を再興しようとしたのが大乗仏教

で、こうした弊害を喝破したのが大乗仏教という見方ができます。パーリ仏典として経典化された文言では、出家中心のやり方が伝承されています。

しかし、お釈迦さま在世当時に悟った在家のやり方もあったわけなんですね。が、在家に関する情報は、ほとんど伝承されていません。この偏り。歪み。これは明らかにおかしい。

だから大乗仏教が興った。在家中心のスタイルが出てくるようになった。これは当然。なぜなら、お釈迦さまの時代には、悟った在家や優れた在家も多かったからです。

その大乗仏教の主軸は「ハート」。大乗仏教は、ハートを軸にしています。だから慈悲を強調した。

あふれる愛。
人をいたわる爆発的な気持ち。
ふれあい。
ゆるし。
笑い。
よろこび。
高揚。

ハート。
愛。

そして、このハートに溶け込む。溶け込むことで分別心が弱くなる。ゆるすエネルギーそのものとなっていく。それが歓喜。禅定も歓喜。

禅定すなわち智慧。慧能は、そう喝破した。

ここから開かれる道。可能性。

そう、このハートこそが、繭(まゆ)やゆりかごの役目を果たし、清浄道論で説く「怖畏智、過患智、厭離智、脱欲智」といった、無有愛が絡むリスクをうまく乗り越えていかせることも可能にするのではないか。また、だからこそ、罪障消滅を述べるようにもなったのではないのだろうか。

実際的な見地からみれば、これらは妥当だったりします。そしてこれは、キリスト教神秘主義にも通じます。

「こういう歩みもあるんだよ」。これが大乗仏教が強調した側面。おそらく、お釈迦さまがいらした当時、在家が行っていた代表的なやり方なのではないかと。これぞ、ヨーガで言うところの献身の道(バクティ)、行為の道(カルマ)。

いやいや、遍処になり得る機縁はいくつかあるということです。出家であろうと、在家であろうと、その環境や気質に適した遍処がある。手放すを遍処にしてもよし。ハートを遍処にしてもよし。

たとえば、五根・五力というのがある。ここにある5つの項目は、悟りに至る遍処という見方もできるほど。この本質を押さえれば、五根、五力がどういうことなのかがわかります。また五根、五力の違いとは。

大乗仏教的なアプローチは現代に活かしやすい

以上のことは学問的には証明されていません。私の実感からの確証です。

大乗仏教的なアプローチは、現代に活かしやすいと思います。しかし、現在の日本の仏教は、大乗仏教ではありません。大乗の装いをした「日本型の仏教」です。

本当の仏教の歴史~仏教史の真実と誤解

が、日本の仏教が、本来の大乗仏教に立ち戻ることは、決してハードルは高くないと思います。創意と工夫次第では可能。

そもそも大乗仏教そのものが、家族関係や人間関係に根ざした社会的仏教だからです。テーラワーダ系もありますが、これは出家型です。尊いスタイルですし、ミャンマーには本当に素晴らしい比丘もいらっしゃいます。

しかし、出家という形式は、日本には馴染みませんし、定着しません。導入は不可能です。たとえ尊くても。

今の時代にふさわしいのは、本当の大乗仏教。日本の歴史と文化に歪められた仏教ではなく、本来の大乗仏教に戻すことが、大事ではないかと。そう思います。

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