マインドフルネスを巡る問題~注意深さ・禅的・政治絡みの事情等々

いわゆる「マインドフルネス」は「注意深さ」

マインドフルネスも知れ渡ってきていますが、
一般的に知られているマインドフルネスには問題があります。

どういうことかといいますと、
畢竟、やっていることは「注意深さ」なんでんすね。

「今行っていること」への「集中」。
行っていることに集中し続けることで「平常心」になれる。

しかし、これって、普通の人は、当たり前のように行っているんです。
ええ。
普通の人でも、これを日常的に当たり前に行っています。

たとえば仕事中、上司に嫌なこと言われたら、気分がむしゃくしゃしますが、
電話をかけて相手との話しに夢中になってて気持ちを切り替えたり、
仕事に没頭して気持ちを切り替えたり、
あるいは同僚と話しをして気持ちを切り替えます。

今流行っている「マインドフルネス」は、原理的には、
こういうのと本質的には同じなんですね。

ただこれを、瞑想的な姿勢を取って行っているという
違いだけだったりします。

心のバランスを崩している方は「注意深さ」で回復

が、マインドフルネスが、何か秘伝的なノウハウに思われているのは、
効果を上げているからですね。

ただ、マインドフルネスで効果を上げている方々は、
ほぼ全員が、心を病んでいたり、精神のバランスを崩されている方です。

うつ病、心が一杯一杯、注意力が散漫、繰り返し悩んでしなう、とか、
ちょっとワケありな方々。
こうした方々に効果が著しかったりします。

しかしながらこうしたケースの場合では、ごく普通の「注意力」を持つだけでも、
症状が改善していくようになるんですね。

悩みや鬱々とした気持ちが、延々と脳内を駆け巡りますが、
その終わりのないリピートを繰り返す「思いの反すう」を軽減し、
悩みから解放させていきます。
 

で、これはこれで必要ですし、いいことなんです。
何も間違っていませんし、優れた方法の一つです。

ただ、これが「瞑想そのもの」と言ったりしますと、
厳密にいえば「それは違うんじゃないの」ということですね。

で、心を病んでいたり、うつ病や神経症になるなど、
精神のバランスを崩してしまった方々を対象にして、
臨床実験ばをしていますと、必然的に効果があるという結論になるのは、
当たり前とえいば当たり前だったりします。

やっていることは「注意深くなること」なんです。
悩みや思いから、「今行っている」ことに注意を向け変えることで、
悩みのループから離脱できるようにしているんです。
それを「マインドフルネス」をいう言葉を使って言っているんですね。

本当のマインドフルネス瞑想的・禅的

ここに、一つの問題と、錯覚があるわけなんです。
今流行っている「マインドフルネス」の中には、
普通に行っている「注意深さ」が混じっています。

これは厳密にいえば「瞑想」ではありませんし、
本当の「マインドフルネス」ではないでしょう。

本当の「マインドフルネス」は、やはり瞑想的であって、
只管打坐的なものです。

なので今流行っているマインドフルネスは、廃れると思っています。
廃れないにしても、その意味合いが見直されてくると思います。

そうして「本当のマインドフルネス」と、
臨床的なマインドフルネスの違いが
明らかになってくるんじゃないかと思います。

本当のマインドフルネスには時間もかかる・コツも要る

本当のマインドフルネスは、
そんな一朝一夕に出来るものではありません。

瞑想的です。
常に自分の心、しかも隠れている心を誤魔化さずに
自己観察をするのが基本です。

しかも、その「観察する意識の座」「意識の視点」が、
大いなる意識、宇宙性の意識、純粋意識から
受動的な姿勢で「ある」ようにしていくわけでして、
実は、まずは、この姿勢になるように、
背景にある意識に気づくことが大事だったりします。

で、マインドフルネスも只管打坐も同じ。
結局、その要諦をつかむまでには、
相応の研鑽が必要になってくることもあります。

で、マインドフルネスがややこしいのは、
こうした「一般的な注意深さ」と「只管打坐的な瞑想」とが
ごちゃ混ぜになっている点なんですね。

サマタを排除したマインドフルネス

しかも、本当は、サマタ的なエッセンスも必要なんです。
ええ、マインドフルネスを強めるのは、サマタ瞑想のパワーなんです。
このサマディの力は欠かせません。

ところが、サマタ瞑想は誤解されています。
無になる瞑想であるとか、一時的に変性している意識だとか・・・。
専門家ですら誤ったことを言って喧伝していますので、どうにもこうにも・・・。

サマタ瞑想は、その「一境性」、
つまり一体化するワンネスの意識が重要なんです。
ここがミソなんですね。

近代のタイやミャンマーは念(サティ)主体になった

で、サマタ瞑想を否定し、排除する流れは、
驚くことに、近代のタイやミャンマー仏教の特徴でもあります。

近代のミャンマーにしろ、タイにしろ、
政治絡みで「念(サティ)」主体にしてしまっているといいます。

で、マインドフルネスは、近代のテーラワーダの瞑想を
ひな形にしています。

言うなれば、偏った瞑想の仕方を、
マインドフルネスはモデルにしているわけなんです。

ここにも重大な錯誤と誤りがあったりします。
ややこしい。

マインドフルネスは整理が必要

こうした複雑な事情がありながら、
それぞれ手応えや感じ方が違っているんです。

しかし、こうした事情を、きちんと整理しないまま、
十把一絡げに効能だけが喧伝されています。

マインドフルネスは整理が必要だと思います。
でありませんと、いずれ手厳しい批判が投げかけられることになるでしょう。

これらの問題に気づいている人も多くなっているでしょうから、
時間の問題です。