キリスト教をわかりやすく説明~聖霊体験(愛の目覚め)が理解のカギ

キリスト教をわかりやすく言えば「聖霊体験」

キリスト教のことが最近わかるようになりましてね。

キリスト教は実のところ体験主義。「聖霊体験」といって、聖霊の働きと恵みによって、強烈な愛が自らの内側からわき出る体験が信仰者として大事であり、神に召される証であると。聖霊体験は見神体験でもあります。

聖霊体験は、十二使徒が体験していますし、500人が体験したというペンテコストの奇瑞が代表的でしょう。あとキリスト教神秘主義の「照明体験」、ルターの「塔の体験」、カルヴァンの「突然の回心」なども聖霊体験、見神体験でしょう。

明治の頃のクリスチャンだった綱島梁川(つなしま-りょうせん)も見神体験(聖霊体験)をしています。
綱島梁川「予が見神の実験」は一瞥体験

ちなみに聖霊体験は、旧約聖書でも重要な体験といいます。

「聖霊体験」はキリスト教の信仰者のみに起きる

ただしキリスト教における「聖霊体験」は、ユダヤ教とは別。イエスが天に召した後、イエスが使わした「聖霊」によって、愛の目覚め体験が起きることを「聖霊体験」といっているようです。

いわば「キリスト教を信じている人のみに起きる体験」としているようです。しかしこれは「ドグマ的な解釈」とも言えますね。果たして、聖霊体験と言われる「愛に目覚める体験」は、キリスト教特有のものなのでしょうか?

答えを先にいえばNoです。後述するような「聖霊体験」は、仏教、ヒンドゥ教、ヨーガ、気功、神道、イスラム教、スピリチュアルなどなど、精神的な世界では時々起きています。何もキリスト教の特権や特徴ではありません。

むしろ、「聖霊がイエスが残したもので、キリスト教を信仰する人のみに起きる」とするほうが、視野狭窄で危険な宗教と化すようになります。

ただし初期の頃の神学者だったアウグスティヌスは、キリスト教を信じていない人の上にも聖霊体験が起きるといったことを言っています。が、これは例外的な見解でしょう。

イエスはキリスト教を作っていない

西洋では、キリスト教を信じない人を侮蔑する、排他的で独善的になった歴史もあります。

とはいってもそもそもイスラエルの宗教がルーツですからね。で、そのイスラエルの宗教の旧約聖書には、異教徒殺害を示唆するなどおかしなことを言う神も登場しています。なので、イスラエルの宗教は全体的におかしいんじゃないかと思います。

この延長にキリスト教が形成されましたので、キリスト教の教義自体に問題があるのは当然の帰結じゃないかと思います。

で、キリスト教は、イエスが作ったものではないんですね。パウロをはじめ、ヨハネやヤコブ達によってキリスト教が形成。そうして初代教会が作られ、共同体となり、布教によって世界宗教へと発展していったわけです。

イエスが作ったのではなく、イエスの弟子や、当時いた人達によって作られた宗教なわけですね。

イエスの十字架の死と復活信仰がキリスト教だが・・・

しかもイエスが復活したり(生き返ったり)、イエスが本当に亡くなった後、奇跡や奇瑞が起きたことから、イエスを信仰するとうキリスト教が誕生したわけですが、奇跡奇瑞を体験した見ることで、キリスト教という宗教が形成されたわけです。

これはいわば、Mrマリックが、100円玉にタバコを通すのを見て「わお!すげー!」と感嘆して、「Mrマリック教」を作るとの、そう変わりがありません。本質からいえばそういうことになります。

なので、なんていいますか、イスラエルの民もそうですが、西洋人の理解力や受け止め方が微妙といいますか稚拙であり、その稚拙なレベルの中で誕生したのキリスト教といえます。

こういう言い方をすると、キリスト教を信奉する方は、気分が良くないかもしれませんが、冷静になって事実を理解していくと、上記のような見解になります。おそらく普通に理解力があれば同様のことを思うでしょう。

キリスト教における宗教的な体験こそ聖霊体験

しかし、そういう問題を多くはらんでいるキリスト教ですが、唯一といっていいほど貴重かつ大切な宗教的な直接体験があります。

それが「聖霊体験」です。聖霊体験があるがゆえに、キリスト教はさまざまな問題があったとしても、人間の精神性を高める意義のある宗教としてみなすことができると思います。

聖霊体験とは?

聖霊体験とは、たとえばこちらの牧師さんがお話しされています。

「私を愛するか」という言葉が引き金となって愛を如実に顕現。その後、聖書の理解がまったく異なり、聖霊体験をしたあとは、聖書の言葉が理解できるようになったと言われています。

ご自身の体験をお話しになるときに涙ぐんでいますが、お気持ちはとてもよくわかります。

聖霊体験にはバリエーションがあるようですが、たとえばこちらの牧師さんは次のような体験をされています。

◆聖霊を体験したら変わること/ハ・ヨンジョ牧師

「川の水が体にぶつかり、池の水が吹き出て、火が体にくだるようでした。驚くべき霊的体験をしました」 これが聖霊による洗礼。聖霊体験。

後述しますが、これはエネルギー体験ですね。ハートのエネルギー体験。そうです、聖霊体験とはハートのエネルギー体験です。

聖霊体験とはハートのエネルギー体験

で、「聖霊」は、キリスト教神学においては実在する存在といいます。が、ハート・エネルギーのことですね。

キリスト教を信仰していなくても、上記の牧師さんと同じような体験をしている方はいます。

しかしキリスト教の信仰で「ハート・エネルギー」といえばひんしゅくを買うと思います。また受け入れることはできないと思います。が、本質はハートのエネルギー体験ですね。

聖書はハートのエネルギーを覚醒させる

で、聖書はハート・エネルギーを体現しているイエスをはじめ、同じくハート・エネルギーを体験した十二使徒たちによる「ハート・エネルーの体験」が伝承されています。

なので聖書を読んでいると、ハート・エネルギーが起動しやすくなるんですね。またハート・エネルギーが起動しやすい高波動に包まれた教会や仲間達の空気感と、そうした高揚する空気の中で「とりなしの祈り(他者のしわせを祈る)」を行うことで、ハート・エネルギーが覚醒しやすくなっています。

神を求める、聖書、教会(仲間)、祈り。この4つがキリスト教でハートが開眼する、知られざるメカニズムにもなっています。

なのでハート・エネルギーの開眼は、聖書を重んじている「プロテスタント」で多く出ています。実際、上記の動画の二人の牧師さんも「プロテスタント」ですからね。

聖書を読む際には「御顔を知る」意欲が大切

「プロテスタント」は聖書をよりどころしたキリスト教の一派です。で、聖書は、ハートエネルギーを体現したイエスと弟子たちの体験記録でもありますね。

ですので、聖書にある言葉を追っていると、またその言葉の向こうにある「高次元の愛」が一体どういうものなんだろうかと求めていると(御顔を知ろうとすると)、愛(ハート・エネルギー)の目覚めが起きやすくなっています。

で、これが「聖霊体験」とよばれる「愛の目覚め」になるわけですね。

大事なことは、言葉だけを追うのではなく、言葉の向こうにある真実・愛・神の実態を「知りたい」「どういうものなのか」と考え巡らす、意欲を持つことですね。

この姿勢のことを「御顔を知る(知りたい)」と言うようですね。

十二使徒の全員は聖霊体験をしていた

聖書を、エネルギーという観点から読み解くと、そこには非常に示唆に富んだ伝承があることがわかります。

十二使徒の全員が聖霊体験をし、愛に目覚めていることもわかります。

で、キリスト教とは、イエスが色濃く体現していた「愛」に目覚め、それを伝える「体験主義の伝承」であることがわかってきます。

人間臭いイエスと十二使徒

しかし「愛」の塊であるイエスであったり、「愛に目覚めた」十二使徒といっても、実はイエスにしても十二使徒には、非常に人間臭いところがあります。煩悩まみれということですね。

イエスにしても、十二使徒にしても、人間臭く、時に下卑たる俗物性を見せていたことは、聖書を読むと浮かび上がってきます。

これを受け入れない、否定するのは、よくないですね。事実は事実として受け止める。で、どうしてそうなのかを理解することは大切です。

では、人間臭い野卑な一面を持ったイエスや十二使徒とは、一体、どういう姿なのでしょうか?ダイジェストでご紹介します。

挑発的で暴れん坊だったイエス

イエスに関しては、ファリサイ派の司祭を挑発するような言動を取っているんですね。

司祭が監視している中、安息日にあえて仕事(ヒーリング)をしてみたり。司祭が見ていないところでやればいいのに、司祭の怒りを呼び起こすような挑発的言動をしています。

またイエスが磔刑にされる直接の原因となった「宮きよめ事件」を起こしています。これはイエスが激昂して、神殿の前で商売している人達のお店を「おりゃー!」といって壊しまくる暴力事件です。

イエスって結構、カっとなりやすい激昂的なところや武闘的なところがあります。

そもそも数々の物理的な奇跡(水をワインに変えるなど)を起こしていますので、丹田系のエネルギーも強いことがわかります。

なので、イエスの性格には、一面オラオラ感があったんじゃないと推測します。ハートにあふれているのも事実だったと思いますが、その反面、ムっとしたり、攻撃心を出すこともあったんじゃないかと思いますね。

丹田系に多いタイプです。

で、仏教の修行の物差しでいえば、イエスの状態は「まだまだ未熟ですね」となります。

が、遺伝的に問題があるんじゃないかと思うくらい視野狭窄で自己中な民族にとって、隣人愛、ハートに目覚めることは必要。なので、彼らにふさわしいレベルの使いとして、闘争本能が強めの生命体としてのイエスが使わされた(登場した)とも考えられます。

十二使徒も俗物性が強かった

十二使徒においては、銀貨30枚でイエスを売り渡した「裏切りのユダ」は有名ですね。自分の師匠・先生をお金で売っちゃうんですから、「なんじゃこりゃ」レベルですよ^^;

でも、「愛」に目覚めていたんですね、ユダっちも。で、ここに高次意識の理解のヒントがあります。ユダっちからは意識の構造と働きを学ぶことができます。

また十二使徒のうち、代表的な使徒だったヤコブとヨハネは、イエスに対して「神の王国」を作る統治者とみなして、その神の国が実現したら「私たちを重鎮(臣下)にしてください」と、俗っぽい願いを臆面もなく言っています。

イエスの弟子のトップ2でさえ俗物根性が強く、しかも先生をお金で売る弟子もいたりして、イエスを取り巻く人間模様はカオスです^^;

イエス一行は非業の死を遂げる

ちなみにイエスは最後は政治犯として逮捕され、磔(はりつけ)にされて、手足に釘をガンガン打たれて処刑。

無実の罪で政治家を殺害するのは、現代の西洋社会でも起きています。フセインやカダフィーの殺害はそうですからね。彼らのメンタリティのおかしさは、今も相変わらずってところなのかもしれません。もはや病的です。

で、十二使徒のうち、ヨハネ以外は全員、他殺か自殺。首を切られたり、十字架に吊されて殺されたり、暗殺にあったり、ノコギリで切断されたり、棍棒で頭を割られたり。

殉教なんですが非業の死を遂げています。悲惨。イエス一行は、ヨハネ以外は全員、非業の死を遂げているわけですね。

それだけガイキチな時代だったということですね。で、そんな異常な社会と人間たちを、真っ当な方向に導くために、命がけでイエスが登場した(天界から使わされた)と考えるのが妥当だと思います。

「ならず者が多かった」時代背景を踏まえることは大事ですね。またどう見ても日本人には理解できない殺伐とした民族性ということも理解する必要があると思います。

キリスト教の理解で大事なイエスと十二使徒の俗物性

こうした人間臭い、下卑たる俗物性をどう解釈するかが、キリスト教を理解する上でのハードルにもなっています。が、これは「意識」の構造と働きを知らないと理解できないことです。

で、イエスも十二使徒も聖霊を体験していた。愛を体現していた。しかし、それとは別の心もあったということです。

意識は多層構成になっていて、本能、感情、理性の構造になっていて、それそれが縁によって出てきます。

で、聖霊体験をして愛に目覚めると、至高意識・愛が生じます。で、本能、感情、理性、至高意識・愛の4構造になります。しかし、それでも時に本能(怒り、暴力、野心、俗物性)が出ることもある。

ここの理解は大事です。イエスにしろ十二使徒にしろ、本能がありますので、条件(縁)次第では煩悩やらの俗物性が出てくるわけですね。

意識には多層・構造があることがキリスト教の理解で大事

キリスト教では、この「意識の構造」の理解が欠かせなくなります。聖なる「愛」の心が目覚めても、俗物性そのものは残っている。まだ勢いを持っていることがある。

で、これを踏まえると、イエスや十二使徒の俗物性も受け入れることができるようになります。

で、意識には構造があること。仮に愛に目覚めても俗物性は残っているので、それが出てしまうことがある。しかしながらキリスト教は、聖霊、愛、祈りにフォーカスして理解していく必要があるってことですね。

この理解は非常に大切です。後のキリスト教の神学では、異常にイエスを神格化してしまったり、あるいは極端に蔑むなど、へんてこぶりやおかしさも出ていると思いますが、これらは後のキリスト教徒が意識の多層・構造を知らないところから生み出した歪んだ見解です。

聖霊体験と新プラトン主義・ヘルメス主義

で、キリスト教のことがわかると、その周辺のこともわかってきます。

ヨーロッパには新プラトン主義、ヘルメス主義、カバラといった元祖ニューエイジやオカルト・秘教のアンダーグラウンド文化もあります。

で、これらがスピリチュアルにも発展しています。で、キリスト教を理解することで、こうした周辺事情も深く理解できるようになります。

キリスト教は信仰の色合いが強いため、ヘルメス主義や新プラトン主義では聖霊体験を科学的・合理的な説明を試みようとしたのではないかと。また後のイルミナティも同様。

一方、アストラル次元での神秘体験を聖霊体験と誤認し、これが魔術やオカルトでびこることに。が、ブラックであるが故に、後に魔女狩りにまで発展していったのではないかと。

ザックリといえば、こういう歴史があるんじゃないかと推測。

キリスト教がわかれば、西洋の歴史がわかるといいます。確かにキリスト教(聖霊体験)がなんたるかがわかると、西洋の深層部分がわかるような気がします。

愛は西洋人の理想の精神

キリスト教は、イエスが登場した時代は、「ローマに支配されるユダヤ人向け」に登場しています。しかし後に、「西洋社会」に広まります。で、西洋人の宗教になります。

民俗宗教から世界宗教へシフトしています。で、こういう広まりになるのは、案外、想定内だったのかもしれませんね。

で、おそらく西洋人にとって「聖霊体験」は、西洋人の精神性の極地であり理想だったのではないかと思います。つまり「愛」の顕現・体現こそ西洋人の理想

逆に言えば、西洋人は「愛」が著しく欠如した人が多いことが浮かび上がってきます。自己中過ぎて、視野狭窄になる種族。これは遺伝的なのかもしれませんね。実際、戦争ばかりしています。また使用人に対しては、同じ人間とみなしていないといいます。おかしすぎです。

それ故に、イエスは「愛」を伝えた、強調した。で、これが西洋社会に受け入れられるようになったんじゃないかと推察しています。

「聖霊体験」は西洋社会の根源にある精神性

ですので聖霊体験は、分離感が強く、愛がわかりにくく、思考が非常に強過ぎる西洋人の根本的な精神を改める特効薬になり得るんだと思います。

で、愛こそが、異常な西洋人を真っ当な生命に導く故に、彼らには心の奥底から響き、キリスト教が広く信奉されるようにもなったんじゃないかと推察しています。

聖霊体験(愛の目覚め)は、西洋人の理想的な精神、精神性の粋であり華。「聖霊体験」を抜きにして、西洋人、西洋文明、文化などは深く理解できないと思います。

西洋人のこだわり・思考の強さがキリスト教の多くの分派を生み出した

ところでキリスト教は分派が非常に多いんですね。おそらく宗教の中で最も分派が多い宗教だと思います。

何故、分派が多くなっているのかの理由は、西洋人はこだわりが強く、思考が強く、分析が好きだからです。そのため些細な違いでも「これが正しい」と自己主張して新しい派を作っていく。

白人、アーリア人、戦争ばかりしている人種ですが、彼らの代表的な宗教(キリスト教)の始まりだけを見ていても、いかにこだわりが強い人達なのかがわかります。やはり遺伝的に問題があるんじゃないかと思います。

で、こうした劣勢種族の白人や当時のユダヤ人に、隣人愛に目覚めて、平和な社会を構築できるように導くために、天の計らい(天界における西洋人救済計画)としてイエスが使わされた(登場した)のではないかと推察しています。

で、彼らに「聖霊体験」が起きるように導いた。それがキリスト教。そんなキリスト教の分派の歴史は次の図がわかりやすいですね。wikiから拝借しました。

キリスト教全体の系譜

プロテスタントの系譜

ちなみにキリスト教の中でもっとも真っ当なのは、1500年代に登場した「プロテスタント」です。

後発組なのですが、プロテスタントは、聖霊体験をしたイエスと十二使徒の記録(聖書)にもとづく「イエスの教えにもっとも忠実」な一派になります。

が、この「プロテスタント」も分派が非常に多いんですね。世界一分派の多い宗教でしょう。それだけ西洋人は思考やこだわりの強い、つまリ煩悩過多な人達なんだと思います。

バチカンやローマ法王で有名なカトリックですが、カトリックは聖書よりも祈祷書や司祭の言葉、マリア信仰などにウェイトを置いたりして、実のところ「なんちゃってキリスト教」だったりします^^;

キリスト教を読み解くカギは「聖霊体験」

聖霊体験のことがわかると、キリスト教のことがわかるようになるという塩梅。

「聖霊体験」こそキリスト教を読み解くカギ。

歴史をひもとくと、水による洗礼から、聖霊による洗礼にターニングポイントしたのがイエスの功績。

洗礼とは「愛の目覚め」。で、聖霊による洗礼(愛への目覚め)こそが聖霊体験でもあって、初代教会と言われる原始キリスト教の要。

この辺りがキリスト教のキモであり、構造を理解する上で非常に大事なことがわかり、一気にキリスト教のことがわかってきたという塩梅。

何事もそうですが、その世界観の要諦を知ることで、全体像や構造がわかるようになると思っています。

キリスト教は体験を重視している。聖霊体験こそキリスト教のキモ。要諦。

ということで、キリスト教のことがわかってきましたので、今年は「スピリチュアル講座」を行ってみようかと考えています。もしご興味があればご連絡をいただければと思います。

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