慈悲に開かれることは現代人には最適なアプローチ
思うに、「慈悲に開かれるアプローチ」こそ現代人には最適ではないかと。そう思います。なぜなら、
- いたずらに社会や現実の生活を否定することがない
- 社会調和性がある
- 人間関係がよくなる
- 人から好かれる
- 心が明るくなり、幸せ感に満たされるようになる
- ささいなことでクヨクヨしなくなる
- おおらかな気持ちになる
- 明朗で健康的になる
- さっぱりした気性になる
- 基本的に他人を好意的に感じられる
- 相手の長所も短所も両方がよく見えるようになる
- 自分も他人も同じ命であり、どちらもかけがえのない存在である実感がわく
- 損得抜きにして自分も他人をもしあわせを祈るようになる
- 運がよくなる
- 創造的「いまここ」が可能になる
- 他を蹴落とし自己中になりやすい世の中の仕組み・構造を変革する可能性がある
- とにかくいいことずくめ^^
思いつくままにざっと上げてみましたが、こういうことがあるからですね。ものすごく現実的です。ええ、現実的です。
これ以上にないくらい現実的で役に立ちます。しかも実際の生活を豊かにもします。安定もさせます。で、幸福感が高まります。
慈悲があれば社会を否定しない
素晴らしいのは、いたずらに社会を否定したり、欲とか何かを否定する「仏教の出家型」要素が無い点です。イメージとして思われている仏教を完全に払拭します。
また「創造性」「クリエイト性」を発揮しながらの「いまここ」系をしやすくなります。で、これが可能なのは、慈悲・ハートのエネルギーに裏打ちされている場合です。慈悲・ハートのエネルギーは、自己の超越性を実現します。結果的に「いまここ」を実現します。
ちなみにこのことはクンダリニーエネルギーによっても起きます。だからエネルギー系の覚醒の道もあるんですね。しかしこうしたメカニズムや仕組みや原理については、おそらくほとんど言及されていないかもしれません。
で、慈悲・ハート系は、意欲が衰えたり、後ろ向きな性格になったり、あるいは虚無になって、無理やり執着を手放そうとしたり、戦うことをしません。もっとも「自己を離れる」といった意味での「小さな自己」との戦いはあります。
慈悲・ハート系は、高次の意欲を伸ばし、創造性を発揮させ、健全な快活さや積極性といった輝く徳をはなちながら進んで行く道でもあったりします。
慈悲を欠くと格差社会を生み出す
慈悲のアプローチは現代人には最適だと思います。いや「必須」かもしれません。それは現代の経済システムを見れば明らかだからです。
昔から富は、一部の富裕層に蓄積される仕組みになっています。これは「弱肉強食」を前提にしているからですね。だから経済の仕組みも「強者必勝」をヨシとしている。
しかしこれは「畜生の有り様」です。天人のような「わかちあう」「いたわる」という心はありません。
「強者必勝」は畜生・修羅の思想です。これを「正しい」としている時点で、現代の経済システムは誤りなんですね。
間違いを犯しているにも関わらず、他人を蹴落とし、自らが登り詰める「畜生ゲーム」に興じてしまう。で、「強者クラス」になろうとする。「勝ち組」です。
慈悲が無いと智慧も無くなる
が、こうしなければ自分も落ちてしまう。だからみんな「畜生ゲーム」のラットレースに参加してしまう。いや、参加せざるを得なくなる。そうして貧富の差ができてしまう。
今では、たった8人の超富裕層が、人類総人口の約半分の36億人分の資産を保有しているという異常さです。
◎この8人の大金持ちは、世界人口の半分と同等の資産を持っている
https://www.huffingtonpost.jp/2017/01/15/
この様子は、もはや狂気でしょう。富を持ち豊かになることは素晴らしいことです。しかし限度があります。
人間一人が生きていくことができて、家族を養わせるだけなら、何もこれほどの富をため込む必要はありません。
こうした「歪み」が生じるのは、端的にいって慈悲・ハートが欠如しているからです。慈悲・ハートの裏にある智慧もない。だから自己中に邁進し、畜生ゲームの勝者になるしかなくなる。
慈悲と智慧のない経済はますます格差増大
けれどもこれに驚いてはなりません。2030年には、富裕層は人類の富の2/3を保有するという予測もあります。
◎「2030年までに1%のエリートが世界の3分の2の富を独占」英政府機関発表! ピケティの予言的中、NWOが現実に!
http://tocana.jp/2018/04/post_16573_entry.html
完璧に歪んでいます。どれだけ多くの人が、経済的な不安をかかえ、悩み、心配をしていることか。
けれども世の中の仕組みが「畜生ゲーム」のルールに基づいているため、この枠から逃れることはでみません。
だから、みんな「畜生ゲーム」に参加せざるを得なくなる。みんな自分のことで手一杯になってしまう。
これが昔から続く「世の中の仕組み」。経済は「畜生ゲーム」。しかし実害が大き過ぎます。改めないとなりません。
慈悲による覚醒は現代人にふさわしい
けれどもこの慈悲・ハート系のアプローチとしての「信解脱者」は、現代人にはふさわしいと思います。厳密にいえば慈悲と智慧の両方が必要です。
なぜなら社会問題の多くも解決するからです。暴利を貪る愚かな行為に走ることは減っていきます。その結果、格差社会は縮小されるか解消されていくようになります。
平和な社会が訪れますね。だからキリストは「愛」を重視したのでしょう。社会が平和になるという視点。ここに基づけば「愛」が軸になるということですね。
智慧と慈悲の両方が必要
だからこそ!現代においては、本当の慈悲・ハートが必須であろうと思うわけです。慈悲・ハートに開ける人が多くなればなるほど、自ずと社会の構造や仕組みも変わりやすくなるからです!
智慧にウェイトを置くと、時としてハートが弱くなることがあります。実際、そういうことがわりと起きています。
智慧の裏側には慈悲があるのですが、それに気づかず、個人主義になったり、批判的になったりして、功利主義に走らせるケースもあります。下手をすると「畜生・修羅カラー」を増してしまうことすらあります。
実際、仏教の世界を見ていても、そういうケースをちらほらと見かけます。だから、智慧よりも、まずは「慈悲」。慈悲・ハートのほうが、誤解・誤読が少ないのではないかと。
日本人は慈悲・ハートの民族
日本人には、慈悲・ハート系が最適です。慈悲のベクトルがふさわしい。
仏教も有益なのですが、実際はいろいろと問題もあります。手放す、そぎ落とす系が多いため、人間が小さくなっていったり、性格も否定的になったり、意欲が乏しくなるなど、社会不適合性を生み出すこともあります。
実際の面からいえば、どうしてもそういう人が多い印象を受けます。そういう有り様も一つのスタイルかと思いますが、現代人のライフスタイルと対立しがちです。で、忌み嫌われる。日本の社会においては、受け入れがたいことも少なくありません。
テーラワーダの中には、慈悲と博愛にあふれた人もいますし、ミャンマーにも、そういう方も少なくありませんが、総じていえば、従来のままの仏教では、現代社会・文明国では軋轢が多くなります。現代に適した修正が必要でしょう。
日本という風土、民族性にとっては、インドの出家型仏教やテーラワーダは、とかく誤解・誤読されやすいんだと思います。
日本は、大乗仏教やキリスト教的な「在家主体」のアプローチが適切であると思うようになっています。
こちらのほうが合っている。社会を創造的に発展させ、みんな幸せで豊かになりながら、真理にも開かれていくアプローチは日本をはじめ文明国には適切です。一石二丁にもなります。