仏教が説く「善」とは「心を浄める」ことだが裏側に天晴れ・陽気・生命力の発露がある

仏教が定義する「善」とは?

仏教では「善」のことを明確に定義しています。
それは、

◎善・・・心が浄らかなこと、物事を巧みに行うこと

このように定義しています。

ま、定義といいますか、
仏教は、心をきよめて悟る(解脱する)ことが目標ですね。
 

このことは、よく言われている「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」に
端的に言い表されています。

・諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・もろもろの悪いことをしない
・衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)・・・もろもろの善いことをしましょう
・自浄其意(じじょうごい)・・・自らの意(こころ)を浄めましょう
・是諸仏教(ぜしょぶつきょう)・・・これがもろもろの仏の教えですよ

wikiにもありますね。
◎七仏通誡偈 – Wikipedia
 

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)では、このように表現しています。
仏教で言うところの「善」とは、まさに「心を浄めること」ですね。

で、もう一つ、仏教が言うところの「善」には、意味があります。
それは「物事を巧みに行うこと」、つまり「上手に行うこと」です。
これも「善」とみなしています。

「善」の裏側にある陽気・明朗・生命力

ただ、仏教が説明する「善」には、裏側にあるエッセンスをくみ取る必要があります。
それは何かといいますと、

・陽気
・明朗
・生命力
・ポジティブ

といった高揚し、精神を発露するエネルギーですね。
これらが「裏側」にあります。

そもそも善となっていきますと、必然的「明るく」なっていきます。
 

ところが、観念が強かったり、方向性を間違えると、
枯れ木のように静寂した状態を「心が清まった」として勘違いしてしまうことがあります。

で、この様は間違いなんですね。

ところが、日本の仏教では、こうした文脈で理解されてしまっている形跡もあります。

「あるがまま」は高次元ベースであることが必要

で、これが「いまここ」「あるがまま」でも同じことが起きていたりもします。
陰気な状態をベースにしたままの「いまここ」です。
後述しますが、これはとかく間違いを引き起こすことがあったりします。

やっぱり、平静さの裏側に、いい塩梅の陽気・明朗さ・生命力があるんですね。
言葉を換えますと、「高次元ベースのあるがまま」が必要ということなんですね。

ただし、「意図的」に「高次元に」とかやると失敗するでしょう。
自然に高次元ベースとなるように、
自分を練り上げていく必要がありましょう。

で、こうなるために「善行」が大事なわけですね。
言い換えますと「浄化」です。

陰の気・低次元ベースで「あるがまま」はよくない

で、仏教では、「陰の気」「低次元」ベースで「あるがまま」
なんてやるもんですから、おかしくなるわけですね。

進まなくなることもでてきます。

てか、日本の仏教には、「陰の気」に陥ることが
悪業、罪という説明がありません。

なので陰気なまんまやり続けてしまう人も出てくるのでしょうね。
ここは気をつける必要がありましょう。
 

ちなみに神道家の宮地水位先生の文献を見ていますと、
陰気にやっていたら、死後、「仏魔天狗界」という
独特の悪趣に陥ってしまうこともわかってまいります。
苦しみの世界ですね。
この次元では「黒い気」を発しているといいます。

しかし、こういう説明を聞きますと、妙に納得してしまいます。
ああ、その通りではないか、と。

観念だけで善を理解すると生命に直結した善がわからなくなる

けれども、こういうことは、いちいち説明しなくても、
当たり前の感覚でしょうね。

妙に考えすぎたり、観念に陥るから、
「善」がわからなくなるんだと思います。
「慈悲」もそうですね。

「陽気」であることは大切です。
「陰気」はダメ。
これは当たり前の常識です。

 

しかし、この当たり前の常識に、
気づいていないケースが意外と多い印象も受けます。

で、ブッダが、何故、善行を勧めたかかといえば、
ズバリ、陽気を養うことを意図したのでしょう。
そういう一面があると思います。

ま、意図したといいますか、当たり前のことなんすが、
あえて言語化したと思います。
 

そもそも「善行」というのは、
「◎◎すべき、××しちゃいかん」といった
「観念的な善」ではありません。

仏典では「べからず集」的に書いてありますが、
そういう観念的なものではないんですね。

入門としては、観念(説明)から入りますが、そこを離れて、
生命に直結した、陽気のある、明るく、広がりのある
そんな体感をともなったエネルギー意識のようなものが「善」です。

観念的な取り組みをしちゃいけません。

天晴れであること~「陰の気」が強いと何かと問題を引き起こす

観念だけで取り組むのは、やっちゃいけないのですが、
「観念的な取り組みがおかしい」ということに気づかない理由に、
「陰の気」が強いというのがあります。

「陰の気」が強いと、変に知的になるとか、観念的になりやすいんですね。

で、「陰の気」が強くなると、とかく問題が多くなります。
やたらと批判的になったり、文句や不満、愚痴も多くなり、傲慢になったり。
礼節を欠き、動作も機敏でなくなって、悪業も多くなります。
人相も悪くなります。
陰の気が強いことは、何一ついいことがないんですね。

で、陰の気が強くなると「妖魔」になります。
妖魔になると厄介です。

なので神道で言うように「天晴れ(あっぱれ)」であるように
努めていく必要もあるわけですね。

朗らかであること、明朗であること、カラっとしていること、
これがいいんです。

ブッダは善と禅定を経由した悟り・解脱の道を教え諭された

で、ブッダは、生命の輝きが増し、命がはつらつとしてくることを
「善」と言っていたわけなんですね。

これが「心を浄める」の裏側にあることなんです。
枯れ木になるような「心を浄める」というニュアンスは間違いです。

で、さらに別の言い方をしますと、
「天人または梵天レベルとなって悟る」ということなんですね。

天人、梵天は、陽気の塊です。
生命の輝きにあふれた存在です。

で、これが「善」なわけです。
厳密にいえば、善の始まりになるんですね。

なので、ブッダは、「善行」「禅定」を経る「悟り」解脱」の道を
教え諭されたのでしょう。

で、仏教を平たく言えば、
「陽気、高次元をベースに【あるがまま】」
ということですね。
これが「善」ですね。

陽気・生命・天晴れとしての「善」を培うことが大切

だからまず行うことは、何を置いても「善」、
つまり陽気を養い、エネルギーを浄め、高めていく、
高まるような進め方をしていくことですね。

さらに、そのエネルギーが洗練されてゆく、
つまり「心を浄める」ことですね。

で、心を浄めることは、陰気になったり、閉鎖的になったり、
生命が小さくなることではありません。
むしろはつらつとなっていくことです。

枯れ木みたくなる「心を浄める」は間違いです。

ここを違(たが)えてはなりませんね。
 

ずーっと仏教的な文脈の中でやってきて、時々ひっかかることに遭遇しつつも、
それをうまく言語化できなかったのですが、
「ハっ」とする表現、

それが「陽気」です。
そう、「陽気」。

躍動感があって、生命力に満ちて、生き生きしています。
で、陽気といっても、文字通り、元気あふれる状態もあれば、
静かでたおやかな陽気もあるわけですね。

で、人は、こうした状態に、自ずと惹かれもします。
 

陽気がなければ、とにかく物事はうまくゆかない。
陰気になると、人から敬遠され、忌み嫌われるようにすらなります。

で、「陰気」は、生命力をそぎ落とす、
つまり善を損ねるパワーを持っています。

だから、陰気自体が悪・悪業なんですね。
他人を、周囲を、そしてその人自身を傷つける状態でもあるからです。
存在波動がよくないとは、「陰気」のことなんです。

神道の世界でも、陰気を嫌います。
「穢れ」といっています。

自己啓発の世界でもそうです。
「ネガティブ」といっています。
成功しない要因としています。
 

陽気は善。
厳密にいえば、善を生み出す重要なファクターです。

「笑う門のは福来たる」
陽気発動を端的に言い表した格言です。

陽気を発動しましょう。
陽気を養い、陽気をベースにすることですね。