慈悲を体得すると自分が変わる~社会問題をも解決する現代人にはふさわしいアプローチ

自分を変える。
「いまここ」系の世界では「あるがまま」の姿勢を取ります。
したがって
・自分を変える
・コントロールをする
・操作をする

ことはしませんね。
てか、タブーになっています。

けれども、そういうことは百も承知で、
今日は「自分を変える」方法について書いてみたいと思います。

自分を変える「2つの方法」

そもそも自分を変える方法には「2つの方法」があります。
それは、

1.エレメンタルを作り、新しいエネルギーを生み出す・・・イメトレ
2.誰もが内在している宇宙性を目覚めさせる・・・本当の自分、慈悲

「1」はまさに作る行為。
「変える」といった行為です。

「2」は、自然に開けてくるものです。
いわゆる「それ」に開けていくことですね。

で、「1」と「2」とは似て非なるものです。
ええ、「1」と「2」とは違います。

「1」の「エレメンタルを作る」というのはイメトレ系ですね。
イメージでエレメンタルを作って、それの作用を受けるというものです。
ポジティブシンキングは代表的なやり方ですね。
けれどもこの方法は大変な場合があります。
恒常的な性質(「第二の天性」とか)になるには、多年の実習も要します。
しかしながら「一時的に気分が良くなる」といったメリットがあります。

一方「2」の「誰もが内在させている宇宙性」に開かれると、
すぐさまに、それが自分の性質になります。
恒常化します。
「第二の天性」になります。

「第二の天性」というよりも、元から誰もが内在している宇宙的な性質ですね。
これが開かれて、自ずと自分の性質になっていきます。
こちらは、エレメンタル系の作るものとは性質が異なります。

慈悲が開かれる~誰もが内在している宇宙性を目覚めさせる方法

ところで時々「慈悲」がいわれますよね。
慈悲は、親切さ、丁寧さ、サービス精神が旺盛といった美徳に連なります。
こうした美徳の根底には「慈悲」があることも多かったりします。
計算づくめや打算的な動機であるならば、慈悲にはなりませんけどね。

しかし厳密にいえば「慈悲」は、親切さ、サービス精神が旺盛といった、
そういう一般的な「やさしさ」系とは、実は本質は異なります。

やさしさの向こうに開きやすい性質はあっても、
「慈悲」は一般的なやさしさとは性質が異なります。

やさしさは、心を訓練したり習慣化することで生じることもあります。
また波動自体が低い場合もあります。

慈悲は、宇宙性に根ざすもので、誰もが内在しています。
作り上げるものではなく、開かれていく性質があります。

ですので、慈悲に目覚めるということは、
自己に内在する宇宙性に開かれることにほかなりません。
また波動が高く、高揚するエネルギーがあります。

慈悲には、一般的なやさしさ、親切さも備わってきます。
そういうことだったりします。

ただし、もし慈悲に開かれても、外見だけからはわからないこともあります。
人によって見た目の様子は異なると思います。
慈悲の表れ方には、人によって違いも出てくるでしょう。
見た目は、親切だったり、やさしくはないかもしれません。
しかし受ける印象に、ある種の特有の感触や香りがあります。

「プレゼンス」「いまここ」を行い続ける

そういう性質のある「慈悲」ですが、慈悲に開けるためには、
いくつかの方法があります。

が、もっともポイントになってくるのは、
「プレゼンス」「いまここ」ですね。
「気づき」ともいいます。

「プレゼンス」「いまここ」にいますと、
慈悲が生じてくるようになります。

最初は「弱い」感覚であるかもしれませんが、
そういう微弱な感覚であっても、感じていきますと、
次第にその感覚が大きくなっていって
「慈悲」の味わいが出てくるようになると思います。

個人差はありますが、「プレゼンス」「いまここ」から
慈悲が開けてくることは、わりと多いと思います。

善行・積徳~ただし動機が大事、自己観察をする

それとやはり、やさしさ、親切さの実践ですね。
これらも大事です。
いわゆる「善行」とか「積徳」と言われる実践ですね。

ただし自分の利のために行ったり、何らかの見返りを求めるやさしさや
親切さの実践であるなら、慈悲が生じることは無いでしょう。
「動機」が大切です。
だから「自己観察」も必須になってくるんですね。
ここでつながります。
もしも功利的な動機があって、他人に親切にしたりしていれば、
慈悲に開かれることはありません。

エゴ的な動機や、功利的な「微細な動機」を、
しっかりと観察し、見抜きながら行っていくことが必要だったりします。
「自己観察」ですね。
これが最も重要かもしれません。

で、ここで大事なことは、こうした実習を始めたときは、
仮に「慈悲」的なことができなくても、
そうしようようと努めていることを「自覚」することですね。

自覚が大切です。
うやむやにしない。
ありのままの自分を認めることが大事になってまいります。
きちんと自分を認める、気づくということですね。
この姿勢は、あらゆることに言えたりもします。

心の底からの喜び・感謝を表現してみる

さらに、自分の存在の波動を上げる、高揚させることも大切です。
ダラーっとしたり、不活発な低い波動では、100年やっても無理だと思います。
心を鼓舞させる。

心の底からの喜びや感謝の気持ちも大切です。
また、そういうのを表現することですね。
言葉、表情、文字などで表すことも効果があります。

「自分」から離れる

慈悲は、自己を超越した実践の連続の中で開けてくる性質もあります。
これは言い換えると、「プレゼンス」「いまここ」そのものでもあります。
ただ、フォーカスしているのが「プレゼンス」「いまここ」ということよりも、
「自己の超越」といったことなんですね。

「プレゼンス」「いまここ」も「自分から離れる」「自己を超越する」も
同じ意味だったりします。

で、こうした意味での「自分から離れる」ですが、
「自分を無にする」「自分を滅却する」といった荒行からも
慈悲に開かれることがあります。

「自分から離れる」行為は「宇宙性」にリンクする行為でもあったりもします。
で、これを継続していくことで慈悲に開かれていくことがあります。

で、「自分から離れる」ことは、いわゆる「執着から離れる」実践
そのものになります。

自己を超越するやさしさ、親切さにフォーカスしていって、
そういう文脈の中での「利他」の実践を続けていく。
この連続性の中において慈悲に開かれることもあります。
これこそが「プレゼンス」「いまここ」にもなってくるわけですね。

慈悲に開かれると「自分が変わった」という感覚が生じる

で、いったん慈悲に開かれると、
自ずと「欲が減る」「執着が減る」といったことが起きます。
嫉妬心もそう。
完全に無くなりはしないと思いますが、それまでと比べれば明らかに減ります。

そして「自分が変わった」「変容した」という実感が出てきます。
結果的に「自分が変わった」という感覚ですね。
これが出てきます。

興味深いのは「自分を変えよう」として始めたわけではないのに、
慈悲に開かれることを続けていると、
結果的に「自分は変わった」という結果が訪れることなんですね。

この意味において「自分を変える」「変わる」というのは可能なんですね。
一番最初に提示した
「2.誰もが内在している宇宙性を目覚めさせる」
というのが起きて、「自分が変わる」ということが起きます。

結局、宇宙性に開かれれば、誰もが変容するんですね。
誰もが内在させている宇宙性が目覚めることで、
「自分は変わった」という実感や感覚が出てきます。
これをもたらすのが「慈悲」「ハート」のエネルギーなんですね。

慈悲に開かれることは現代人には最適なアプローチ

思うに、「慈悲に開かれるアプローチ」こそ現代人には最適ではないかと。
そう思います。
なぜなら、

1.いたずらに社会や現実の生活を否定することがない
2.社会調和性がある
3.人間関係がよくなる
4.人から好かれる
5.心が明るくなり、幸せ感に満たされるようになる
6.ささいなことでクヨクヨしなくなる
7.おおらかな気持ちになる
8.明朗で健康的になる
9.さっぱりした気性になる
10.基本的に他人を好意的に感じられる
11.相手の長所も短所も両方がよく見えるようになる
12.自分も他人も同じ命であり、どちらもかけがえのない存在である実感がわく
13.損得抜きにして自分も他人をもしあわせを祈るようになる
14.運がよくなる
15.創造的「いまここ」が可能になる

16.他を蹴落とし自己中になりやすい世の中の仕組み・構造を変革する可能性がある
17.とにかくいいことずくめ^^

思いつくままにざっと上げてみましたが、
こういうことがあるからなんですね。
ものすごく現実的です。
ええ、現実的です。

これ以上にないくらい現時的で役に立ちます。
しかも実際の生活を豊かにもします。
安定もさせます。
で、幸福感が高まります。

素晴らしいのは、いたずらに社会を否定したり、
欲とか何かを否定する仏教の出家型の要素が無い点です。
イメージとして思われている仏教を完全に払拭します。

また「創造性」「クリエイト性」を発揮しながらの「いまここ」系をしやすくなります。
で、これが可能なのは、慈悲・ハートのエネルギーに裏打ちされている場合です。
慈悲・ハートのエネルギーは、自己の超越性を実現します。
結果的に「いまここ」を実現します。

ちなみにこのことはクンダリニーエネルギーによっても起きます。
だからエネルギー系の覚醒の道もあるんですね。
しかしこうしたメカニズムや仕組みや原理については、
おそらくほとんど言及されていないかもしれません。

で、慈悲・ハート系は、意欲が衰えたり、後ろ向きな性格になったり、
あるいは虚無になって、無理やり執着を手放そうとしたり、戦うことをしません。

もっとも「自己を離れる」といった意味での「小さな自己」との戦いはあります。

慈悲・ハート系は、高次の意欲を伸ばし、創造性を発揮させ、
健全な快活さや積極性といった輝く徳をはなちながら進んで行く道でもあったりします。

慈悲を欠いた経済システム~格差社会は慈悲の無い「畜生ゲーム」がルールだから

慈悲のアプローチは、現代人には最適だと思います。
いや「必須」かもしれません。
それは現代の経済システムを見れば明らかだからです。

昔から、経済は一部の富裕層に富が蓄積される仕組みになっています。
これは「弱肉強食」を前提にしているからでしょう。
だから経済の仕組みも「強者必勝」をヨシとしている。

しかし、これは「畜生の有り様」なのですね。
天人のような「わかちあう」「いたわる」という心がありません。
「強者必勝」は畜生・修羅の思想であり、
これを「正しい」としている時点で、現代の経済システムは誤りなんですね。

間違いを犯しているにも関わらず、他人を蹴落とし、
自らが登り詰める「畜生ゲーム」に興じてしまうわけなんですね。
で、「強者クラス」になろうとします。
「勝ち組」です。
で、そうしなければ自分も落ちてしまうからなんですね。
だからみんな「畜生ゲーム」のラットレースに参加してしまう。
いや、参加せざるを得なくなる。

そうして貧富の差ができてしまう。
今では、たった8人の超富裕層が、
人類総人口の約半分の36億人分の資産を保有しているという異常さです。

◎この8人の大金持ちは、世界人口の半分と同等の資産を持っている
https://www.huffingtonpost.jp/2017/01/15/

この様子は、もはや狂気でしょう。
富を持ち、豊かになることは素晴らしいことです。
しかし限度があります。
人間一人が生きていく、家族を養わせるだけなら、
何もこれほどの富をため込む必要はありません。

こうした「歪み」が生じるのは、
端的にいって慈悲・ハートが欠如しているからです。
また慈悲・ハートの裏にある智慧がない。
だから自己中に邁進し、畜生ゲームの勝者になるしかなくなるんですね。
 

けれどもこれに驚いてはなりません。
2030年には、富裕層は人類の富の2/3を保有するという予測もあります。

◎「2030年までに1%のエリートが世界の3分の2の富を独占」
英政府機関発表! ピケティの予言的中、NWOが現実に!
http://tocana.jp/2018/04/post_16573_entry.html

完璧に歪んでいますね。
どれだけ多くの人が、経済的な不安をかかえ、悩み、心配をしていることか。
けれども世の中の仕組みが「畜生ゲーム」のルールに基づいているため、
この枠から逃れることはでみませんので、
みんな「畜生ゲーム」に参加せざるを得なくなって、
みんな自分のことで手一杯になってしまいます。

これが昔から続く「世の中の仕組み」です。
経済は「畜生ゲーム」なわけですね。
しかし実害が大き過ぎます。

智慧と慈悲の両方が必要~現代では慈悲のほうが必要かもしれない

だからこそ!現代においては、本当の慈悲・ハートが必須であろうと思うわけです。
慈悲・ハートに開ける人が多くなればなるほど、
自ずと社会の構造や仕組みも変わりやすくなるからです!

智慧にウェイトを置くと、時としてハートが弱くなることがあります。
実際、そういうことがわりと起きています。
智慧の裏側には慈悲があるのですが、それに気づかず、
個人主義になったり、批判的になったりして、功利主義に走らせるケースもあります。
下手をすると「畜生・修羅カラー」を増してしまうことすらあります。
 

実際、仏教の世界を見ていても、そういうケースをちらほらと見かけます。
だから、智慧よりも、まずは「慈悲」。
慈悲・ハートのほうが、誤解・誤読が少ないのではないかと。

それに日本人には、慈悲・ハート系が最適です。
慈悲のベクトルがふさわしい。

仏教も有益なのですが、実際はいろいろと問題もあります。
手放す、そぎ落とす系が多いため、人間が小さくなっていったり、
性格も否定的になったり、意欲が乏しくなるなど、
社会不適合性を生み出すこともあります。

実際の面からいえば、どうしてもそういう人が多い印象を受けます。
そういう有り様も一つのスタイルかと思いますが、
現代人のライフスタイルと対立しがちです。
で、忌み嫌われる。
日本の社会においては、受け入れがたいことも少なくありません。

テーラワーダの中には、慈悲と博愛にあふれた人もいますし、
ミャンマーにも、そういう方も少なくありませんが、
総じていえば、従来のままの仏教では、
現代社会・文明国では軋轢が多くなります。
現代に適した修正が必要でしょう。

日本という風土、民族性にとっては、
インドの出家型仏教やテーラワーダは、
とかく誤解・誤読されやすいんだと思います。

日本は、大乗仏教やキリスト教的な「在家主体」のアプローチが
適切であると思うようになっています。

こちらのほうが合っている。
社会を創造的に発展させ、みんな幸せで豊かになりながら、
真理にも開かれていくアプローチは日本をはじめ文明国には適切です。
一石二丁にもなります。

慈悲・ハート系のアプローチ「信解脱者」は一般人にはふさわしい

慈悲のアプローチこそが「ハート」系と言わます。
で、ブッダ在世の頃に、在家が軸としてやっていたやり方こそが、
この慈悲系・ハート系です。

「信解脱者」と言われているスタイルです。
これは「バクティ(献身の道)」の一種になります。

慈悲・ハート系は、ブッダが亡くなって300年~500年くらい経ってから、
在家を中心に、強く主張されて勃興もしはじめます。
これが大乗仏教の一つの潮流にもなっていきます。

思うに、大乗仏教は、在家・一般人の有り様だったのでは。
慈悲・ハート系を軸にして、「いまここ」「プレゼンス」を実習していたのではないか。
「信解脱者」の道です。
そう思わせるものがあります。

で、このアプローチ(信解脱者の道)は、
伝承にほとんど残ることもなく(わずかに示唆する伝承はある)、
「失伝した在家の方法」だったように思います。

確かな証拠や文献がないため、想像の域を出ないのですが、
私にはそう思えてなりません。

けれどもこの慈悲・ハート系のアプローチとしての
「信解脱者」こそが現代の一般人にはふさわしいと思います。
厳密にいえば、慈悲と智慧の両方が必要です。
が順番からいえば慈悲のほうが先ではないかと。

なぜなら社会問題の多くも解決するからですね。
暴利を貪る愚かな行為に走ることは減っていきます。
その結果、格差社会は縮小されるか解消されていくようになります。

平和な社会が訪れますね。
だからキリストは「愛」を重視したのでしょう。
社会が平和になるという視点。
ここに基づけば「愛」が軸になるということですね。
 

ということで、今日は「慈悲」について、
思うところをあれやこれやと書いてみました。
30年以上前に、荒行の中で偶発的に慈悲に開け、
そうした自らの体験に基づくことをベースにして書いています。
30年以上ベースが変わりませんと、
さすがに気分とかそういうものではないと思います。

人前で言うには、はばかれるのですが、
しかし今の世の中を見るにつれ、また宗教界を見ていると、
慈悲・ハートの大切さを感じましょうか。
決して智慧とか洞察といった知性系だけではやっぱりバランスが悪いんですね。
慈悲・ハートに裏打ちされていませんと、とかく問題が起きやすいと思います。