慈悲を体得すると自分が変わる
慈悲。
思いやり、慈しみ、やさしさ、親切などの徳が渾然一体としたエネルギー意識。これが慈悲ですね。
で、この慈悲を体得すると必ず自分が変わります。ええ。必ず変わります。
どうすれば慈悲を体得できるのか。
身につけることができるのか。
慈悲に開かれるようになるのか。
このことについて今日はお話ししたいと思います。
慈悲は誰もが内在している宇宙性
ところで時々「慈悲」がいわれますよね。慈悲は、親切さ、丁寧さ、サービス精神が旺盛といった美徳に連なります。
こうした美徳の根底には「慈悲」があることも多かったりします。計算づくめや打算的な動機であるならば、慈悲にはなりませんけどね。
しかし厳密にいえば「慈悲」は、親切さ、サービス精神が旺盛といった、そういう一般的な「やさしさ」系とは、実は本質は異なります。
やさしさの向こうに開きやすい性質はあっても、「慈悲」は一般的なやさしさとは性質が異なります。
やさしさは、心を訓練したり習慣化することで生じることもあります。また波動自体が低い場合もあります。
慈悲は、宇宙性に根ざすもので、誰もが内在しています。作り上げるものではなく、開かれていく性質があります。
慈悲に目覚め体得する方法
ですので、慈悲に目覚めるということは、自己に内在する宇宙性に開かれることにほかなりません。また波動が高く、高揚するエネルギーがあります。
慈悲には、一般的なやさしさ、親切さも備わってきます。そういうことだったりします。
ただし、もし慈悲に開かれても、外見だけからはわからないこともあります。人によって見た目の様子は異なると思います。
慈悲の表れ方には、人によって違いも出てくるでしょう。見た目は、親切だったり、やさしくはないかもしれません。しかし受ける印象に、ある種の特有の感触や香りがあります。
「プレゼンス」「いまここ」を行う
そういう性質のある「慈悲」ですが、慈悲に開けるためには、いくつかの方法があります。
が、もっともポイントになってくるのは「プレゼンス」「いまここ」ですね。「気づき」ともいいます。
「プレゼンス」「いまここ」にいますと、慈悲が生じてくるようになります。
最初は「弱い」感覚であるかもしれません。が、そういう微弱な感覚であっても、感じていきますと、次第にその感覚が大きくなっていきます。「慈悲」の味わいが出てくるようになると思います。
個人差はありますが、「プレゼンス」「いまここ」から慈悲が開けてくることは、わりと多いと思います。
善行・積徳を行う
それとやはり、やさしさ、親切さの実践ですね。これらも大事です。いわゆる「善行」とか「積徳」と言われる実践ですね。
ただし自分の利のために行ったり、何らかの見返りを求めるやさしさや親切さの実践であるなら、慈悲が生じることは無いでしょう。
「動機」が大切です。だから「自己観察」も必須になってくるんですね。ここでつながります。
自己観察・動機の観察を行う
もしも功利的な動機があって、他人に親切にしたりしていれば、慈悲に開かれることはありません。
エゴ的な動機や、功利的な「微細な動機」を、しっかりと観察し、見抜きながら行っていくことが必要だったりします。「自己観察」ですね。これが最も重要かもしれません。
で、ここで大事なことは、こうした実習を始めたときは、仮に「慈悲」的なことができなくても、そうしようようと努めていることを「自覚」することです。
自覚が大切です。うやむやにしない。ありのままの自分を認めることが大事になってまいります。きちんと自分を認める、気づくということですね。この姿勢は、あらゆることに言えたりもします。
喜び・感謝を表す
さらに自分の存在の波動を上げる、高揚させることも大切です。ダラーっとしたり、不活発な低い波動では、100年やっても無理だと思います。心を鼓舞させる。
心の底からの喜びや感謝の気持ちも大切です。また、そういうのを表現することですね。言葉、表情、文字などで表すことも効果があります。
「自分」から離れる
慈悲は、自己を超越した実践の連続の中で開けてくる性質もあります。これは言い換えると、「プレゼンス」「いまここ」そのものでもあります。
ただ、フォーカスしているのが「プレゼンス」「いまここ」ということよりも、「自己の超越」といったことなんですね。
「プレゼンス」「いまここ」も「自分から離れる」「自己を超越する」も同じ意味だったりします。
で、こうした意味での「自分から離れる」ですが、「自分を無にする」「自分を滅却する」といった荒行からも慈悲に開かれることがあります。
「自分から離れる」行為は「宇宙性」にリンクする行為でもあったりもします。で、これを継続していくことで慈悲に開かれていくことがあります。
で、「自分から離れる」ことは、いわゆる「執着から離れる」実践そのものになります。
自己を超越するやさしさ、親切さにフォーカスしていって、そういう文脈の中での「利他」の実践を続けていく。
この連続性の中において慈悲に開かれることもあります。これこそが「プレゼンス」「いまここ」にもなってくるわけですね。
慈悲に開かれると「自分が変わった」という感覚が生じる
で、いったん慈悲に開かれると、自ずと「欲が減る」「執着が減る」といったことが起きます。
嫉妬心もそう。完全に無くなりはしないと思いますが、それまでと比べれば明らかに減ります。
そして「自分が変わった」「変容した」という実感が出てきます。結果的に「自分が変わった」という感覚ですね。これが出てきます。
結果的に自分が変わる
興味深いのは「自分を変えよう」として始めたわけではないのに、慈悲に開かれることを続けていると、結果的に「自分は変わった」という結果が訪れることなんですね。
この意味において「自分を変える」「変わる」というのは可能なんですね。「誰もが内在している宇宙性を目覚めさせる」ということが起きて、結果的に「自分が変わる」ようになります。
結局、宇宙性に開かれれば、誰もが変容するんですね。
誰もが内在させている宇宙性が目覚めることで、「自分は変わった」という実感や感覚が出てきます。これをもたらすのが「慈悲」「ハート」のエネルギーなんですね。
慈悲による覚醒「信解脱者」
慈悲のアプローチこそが「ハート」系と言わます。で、ブッダ在世の頃に、在家が軸としてやっていたやり方こそが、この慈悲系・ハート系です。
「信解脱者」と言われているスタイルです。これは「バクティ(献身の道)」の一種になります。
慈悲・ハート系は、ブッダが亡くなって300年~500年くらい経ってから、在家を中心に、強く主張されて勃興もしはじめます。これが大乗仏教の一つの潮流にもなっていきます。
思うに、大乗仏教は、在家・一般人の有り様だったのでは。慈悲・ハート系を軸にして、「いまここ」「プレゼンス」を実習していたのではないか。「信解脱者」の道です。そう思わせるものがあります。
で、このアプローチ(信解脱者の道)は、伝承にほとんど残ることもなく(わずかに示唆する伝承はある)、「失伝した在家の方法」だったように思います。
確かな証拠や文献がないため、想像の域を出ないのですが、私にはそう思えてなりません。
自分を変える「2つの方法」
ということでして「慈悲は自分を変容させる」、そんなパワーがあったりします。
ところで自分を変える方法には「2つの方法」があります。それは、
- 1.エレメンタルを作り、新しいエネルギーを生み出す・・・イメトレ
- 2.誰もが内在している宇宙性を目覚めさせる・・・本当の自分、慈悲
この2つです。
「1」はまさに作る行為。「変える」といった行為です。
「2」は、自然に開けてくるものです。いわゆる「それ」に開けていくことですね。
で、「1」と「2」とは似て非なるものです。ええ、「1」と「2」とは違います。
「1」の「エレメンタルを作る」というのはイメトレ系ですね。イメージでエレメンタルを作って、それの作用を受けるというものです。ポジティブシンキングは代表的なやり方ですね。
けれどもこの方法は大変な場合があります。恒常的な性質(「第二の天性」とか)になるには多年の実習も要します。しかしながら「一時的に気分が良くなる」といったメリットがあります。
一方「2」の「誰もが内在させている宇宙性」に開かれると、すぐさまに、それが自分の性質になります。恒常化します。「第二の天性」になります。
「第二の天性」というよりも、元から誰もが内在している宇宙的な性質ですね。これが開かれて、自ずと自分の性質になっていきます。こちらは、エレメンタル系の作るものとは性質が異なります。
で、この「2」の方法で得られるのが「慈悲」になります。
慈悲は自分を変える
自分を変える。「いまここ」系の世界では「あるがまま」の姿勢を取ります。したがって
・自分を変える
・コントロールをする
・操作をする
ことはしませんね。てか、タブーになっています。
ということで、今日は「慈悲」について、思うところをあれやこれやと書いてみました。
30年以上前に、荒行の中で偶発的に慈悲に開け、そうした自らの体験に基づくことをベースにして書いています。30年以上ベースが変わりませんと、さすがに気分とかそういうものではないと思います。
人前で言うには、はばかれるのですが、しかし今の世の中を見るにつれ、また宗教界を見ていると、慈悲・ハートの大切さを感じましょうか。
決して智慧とか洞察といった知性系だけではやっぱりバランスが悪いんですね。慈悲・ハートに裏打ちされていませんと、とかく問題が起きやすいと思います。