お釈迦さまはスピリチュアリストだった

お釈迦さまもスピリチュアリストだった

実はお釈迦さまもスピリチュアリストでした。
ええ。

このことは日本の仏教では認識されていません。

しかしお釈迦さまは、生粋のスピリチュアリストであり、
スピリチュアリズムに生きた方だったんですね。

このことは、もっとも古い経典であるパーリ仏典を読めばわかります。
随所に霊界とのコンタクトの様子が描かれているからです。

パーリ仏典に伝承されるスピリチュアリストとしてのブッダ

たとえば、パーリ仏典経蔵長部経典第16経「大般涅槃経(大パリニッバーナ経)」があります。このお経は、「ブッダ最後の旅」としても邦訳されています。

大般涅槃経は、釈迦の入滅を叙述したお経ですが
ブッダの周りには常に多くの神霊がつきまとい、
また神霊との関わりが伝承されています。

お釈迦さまの周囲には、常に最高神霊である梵天が付き添い、
高級神霊が巨大な群団をなして付き従っていたほどです。
常に。

お釈迦さまにお会いするために、何千、何万の神霊が
順番待ちしていたことも、確か伝承されています。

そう、お釈迦さまは生粋のスピリチュアリストだったんですね。
ハイレベルで真っ当なスピリチュアルです。

天界の神とチャネリングしていたブッダ

お釈迦さまは、時に梵天、神霊からのメッセージを語るときもあったものです。
チャネリングもされていたわけですね。

天界の神々からの連絡や報告、アドバイスも受け取っています。
弟子が亡くなったことを伝える天界の神。
弟子が不祥事を起こしたことを伝える神霊。

お釈迦さまや、お弟子さんの周囲には、
常に天界の神(神霊)がいらっしゃいました。

そんな様子が、パーリ仏典の至る所に伝承されています。
これを「スピリチュアリスト」と言わずして、何と言っていいのでしょうか。

善という表現で悟りの道を示す

で、お釈迦さまは、「善」という表現を取りながら、
本当の自分、真我、大霊、命、サムシンググレート、
大いなる存在を踏まえた悟りの道を提唱されていたんですね。

「善」とは、観念的な善ではないんです。
教条的な善でもないんです。
実に、命に直結した宇宙性の善感覚なんです。
これを「霊性」ともいいます。

禅のように、いきなり思考を遮断してしまうのではないんですね。
生命の根源に立ち返るアプローチを取りながら悟る歩みです。

禅とは、違います。
禅には、霊性がありません。
慈悲がありません。
禅は、外道になりやすく、魔人になりやすい悟道です。

霊性とは善のことでありスピリチュアリズムのこと

まずは「生命」「徳」「大霊」に開かれること。
これこそが「霊性」です。
スピリチュアリズムです。
真の「心霊主義」です。

霊性には、宇宙善、絶対善といってよい感覚があります。
まずは、この感覚に開かれること。
つまり霊性に開かれることですね。

霊性に開かれれば、命のあたたかさ、ぬくもり、やさしさ、ハート、
絶対善、異次元への感覚などが必ず開けます。

また異次元、つまり霊界・「あの世」の存在を感じ、認識するようになります。
ご神霊とともに生きる歩みになります。

人間界でも「あの世」でも大事な「霊性をベースにして生きていくこと。
そして、まずは霊性に開かれること。

お釈迦さまは霊性(スピリチュアリズム)にもとづいた悟りの道を提唱

お釈迦さまは、霊性にもとづいた悟りの道を提唱されていたという事実。
このことを述べている日本の仏教はありません。
残念ながらない。

ミャンマーのテーラワーダ仏教にはあります。
ここには豊かな霊性があります。
日本の仏教がお手本にするのは、参考にするのは、
実に、ミャンマーのテーラワーダ仏教です。
豊かな霊性に根ざした本来の仏教。

霊性。
とても大事な感覚です。
で、霊性こそ、スピリチュアル本来のことですし、
スピリチュアリズムの原義でもあったりもします。

霊性に開けること。
霊性に根ざした生き方をすること。
これが大事なんですね。

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