あるがままに生きるは究極の処世術

コーヒーが美味しい。
そんな今宵は、ポエム調でも。
 

毎日見慣れている光景。
出会う人々。
お店の店員。

部屋の様子。
装飾品の数々。
テーブル、カップ。
 

その瞬間、瞬間に、輝きと美しさを見出します。
目に映るものは、光を放ち、よろこびとともに、命の美しさを伝えてくれる。

見た目のフォルムもさることながら、その奥で放っているエネルギー。

高次のさざなみを持ったエネルギーは、
たとえ、それが老い朽ち果てようとする醜形であっても、
印象では、美しく感じられる。
 

美しさ。
それは外観だけではなく、実に、内面から放たれるエネルギーであることに、
その本質があったりする。

もっとも美しいものは何?
それは「いまここ」。
「あるがまま」。

もし、「いまここ」に開け、そこにたたずむことが長くなればなるほど、
人は、次第に高貴なる波動を放つようになり始める。
そして、五感を通して感じられるものですら、美しさを感じ始めるから不思議なものだ。
 

月の光(ドビュッシー)Clair de Lune (Debussy)

月の光。
ドビュッシーの代表曲。

ドビュッシーは、見た目の有り様もさることながら、
その奥で放っている気・エネルギーを感じ取っていた。

その感触を、音符に並べて、楽曲にした。
だからこそ、古典派、ロマン派では
「音楽べからず集」として縛られていた音楽教則を、
無視し、破壊せざるを得なかったのだろう。

エネルギーの動きは、
浅はかな人間がこしらえたルールに収まるものでは無いからだ。

ドビュッシーが現代にいれば、必ずダンスミュージックやテクノに走ったであろう。
あるいは、アンビエント・ミュージック(環境音楽)やヒーリング・ミュージック。
これらはダイレクトに、エネルギーに直結する音楽だからだ。
 

それにしても月の光は美しい。
技術の進展も素晴らしい。

人は、文明の利器の進展に従い、精神性も向上している。
時々、文明批判を聞くこともあるが、
それは文明の進展の仕方が悪いわけで、
文明の利器そものものは極めてありがたい。

この先、人工知能が発達し、ロボット化も進み、
コンピュータとロボットが人間の営みの大半以上をまかなう時代がやってくるだろう。

2045年のシンギュラリティを待たずとも、その一端はまもなく訪れるであろう。
ドローンも、ものすごいことになっている。

人間が行ってきたことの大半を、人口知能やロボットが担うことになれば、
では、人間は一体何を行うのか?といったことが不安視されている向きもある。

しかし、何も恐れることは無い。
新しい労働観念、経済観念、貨幣観念が登場し、
新しい社会になるだけだ。

旧い固定観念に縛られていると、何事も不安に映ってしまう。
 

Johann Sebastian Bach: Ich ruf zu dir BWV 639

バッハ「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」BWV639

バッハの曲は、神に捧げられた音楽に聞こえる。
神はどこに存在するのであろうか?

いや、そういう問いかけはよろしくない。
神は自分の中にいるからだ。

そう、神は自分の中にいる。
それを「いまここ」といっている。

観察瞑想では、「いまここ」への入口に立ったときの知性の働きを
「名色分離智」と言っている。

「名色分離智」。
観ている心と観られている対象物の両方に気づき、
それぞれが別に存在していることを認識できている状態を言っている。

一言でいえば、「気づに気づく」ということ。
気づいている主体に気づくということ。
その主体こそが「いまここ」。
「あるがまま」。
 

ここに開かれると、心が軽くなる。
安心感が、どっと出てくる。
思考や感情に巻き込まれっぱなしではなくなる。

その「いまここ」には、妄想や思考から離れたリアリティがある。
そして、そこに神がいる。

命の泉。
あらゆる徳の源。

観念や概念ではなく、
これを如実に体感することが大切だ、
あるがまま

「神聖さ」はとても大切なエッセンスだったりする。
「親しみさ」も大事な徳ではあるが、「神聖さ」はもっと大事だったりする。

何故、世界中の宗教が、崇高さや神聖さを醸し出そうとしているのか?
それは、神聖さも「いまここ」の入口だからだ。
「親しみ」は、「いまここ」の入口にはなりにくい。
あるがまま

神聖さ、崇高さ、偉大さ。
そうした超然とした圧倒される存在に触れたとき、
人は、その瞬間に心が止まる。

神聖さをはなった高貴なるモノに触れたとき、
人は、その瞬間に止まる。

そして、言いようのない崇高な気分になる。
このとき、「いまここ」に触れている。
 

沈みゆく夕陽。

大海原に輝くさざ波。

鳥がさえずる山岳。

芳香を放つ草原。
 

美しい自然の光景に触れると、その瞬間、瞬間に、全てが止まっている。
このときに、人は「いまここ」を体験している。

それが神の香りだったりもする。
 

風光明媚なところへの旅行はおすすめだ。
観光ガイドにも無い、マイ・スポットを見つけることができれば幸いだ。

目に映るもの、耳に聞くもの、心に感じられるものの多くが、
美しさを放っているものとして感じることができれば、
それだけで幸せでもある。

「いまここ」に滞在するようになると、
外界から受ける五感の有り様も変わってくるのだろう。

意図して、ポジティブになろうとしなくても、
自ずとポジティブになる。

しかも、ネガティブに対するポジティブではなく、
それ自体がポジティブといってよい高揚と気持ちのよさ。

「いまここ」は究極の処世術であり、生き方の基本となり得ます。
日々の生活の瞬間、瞬間において、美しさを感じ、ありがたい感じにもなり、
悟りとか、そういうことだけでなく、人が心地良く生きて行くことができる、
究極の有り様といえます。

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