預流果になる直前の預流道心は一瞥体験ではない

以前は、一瞥体験をすれば預流果になるのでは?と思っていましたが、これが間違いであることがわかり、以下に修正の記事をしたため、内容も大幅に書き換えてあります。一瞥体験は預流果にはなりません。見性した人の多くも悟りではありませんね。2020/10/17

預流果になる直前の預流道心は一瞥体験ではない

預流果
仏教でいう悟りの最初の階梯ですね。四向四果(しこうしか)の最初の段階。

で、預流果になる直前の心を「預流道心」といっています。で、この心は一瞥体験ではないと思います。

そもそも
・一瞥体験・・・認識が残っている悟り体験
・悟り体験・・・認識が遮断した悟り体験(忘我)
だからです。

一瞥体験は認識が残っていますので、悟り損ねです。悟りではありませんね。だから預流道心は一瞥体験ではないと思います。

預流道心

ところで何気にふっとスマナサーラ氏の本を読みたくなりましてね。きっかけは、たまたま見かけ動画です。
◆預流道の特徴/預流果と五戒の関係/ウサギを逃した青年の後日談

預流果の話しをしていましてね。で、預流道心について言及されています。

預流道心
この心は一回だけ生じる心といいます。預流果になる直前に生じる一瞬の心。

で、預流道心に続いて預流果心が生じるといいます。預流果心とは預流果の心のことです。で、預流果心は瞑想などに入れば何度も生じるといいます。

アビダルマでは、このように精密に分析しています。

預流道心と預流果心

預流道心預流果心
大変、興味深いですね。
預流道心とは、悟り体験ですね。認識が死にきった覚醒体験。一瞥体験とか見性とか覚醒体験とは異なります。

で、アビダルマでは預流道心預流果心というように2つに分けています。

で、アビダルマでは「預流道心は一回だけ生じる心」としています。最初の起爆心のようなものですね。

で、預流果心は預流道心が定着したもの。まさに結果ですね。

預流果心はサマーディの一種

ちなみに預流果心はサマーディの一種といいます。

このことは「増支部経典 三集 第五 一掬塩品 92-4」にもあります。このお経にあることを整理しますと、

・法眼を得る(無常・苦・無我を悟り)。
・三結(有身心、疑惑、戒禁取)を断じる。
・貪・瞋より離れる(嫉妬心、吝嗇心が薄らぐ)
・思考があっても自然にわき上がる喜楽のある初静慮(軽いサマーディ)を具える。

となります。

預流果になると初静慮を具足する

三結(有身心、疑惑、戒禁取)が無くなり、貪・瞋からも離れはじめ、思考がありながらも自ずと生じる喜楽をともなう初静慮(軽いサマーディ)。
これが預流果心であると。

預流果になると日常的に禅定(サマーディ)が生じるというのは驚きかもしれません。

けれども仏典にそう伝承されているわけですね。「有尋、有伺、離所生の喜楽ある初静慮を具足する」とあります。「初静慮」ですので、これは「初禅」のことです。

しかも「具足する」です。
常に身についている状態です。
つまり日常的に禅定(サマーディ)な状態です。自我が無くなった状態ですね。

これが預流果の心。

預流果は宇宙意識が日常的になる?

で、預流果の心は、スピリチュアルでいわれる宇宙意識とか、そういうのと同じでと思われやすいですね。リチャード・モーリスバックの「宇宙意識」の記述は該当しそうです。

けれども違いますね。宇宙意識は認識が「変容」した状態です。意識が拡大した状態ですね。

けれども預流果の心は、心がいったん完全停止した末に生じるワンネス感でしょう。いわゆる宇宙意識とは異なります。

もっとも原始仏教では、こうした意識状態の言葉はありません。下手をすると真我とみなされてバッシングもされるでしょう。

なので真我とかいう言葉は使わずに「有尋、有伺、離所生の喜楽ある初静慮を具足する」といった表現を取っているんだと思います。※増支部経典 三集 第五 一掬塩品 92-4

預流果は五戒を破らない

しかし伝承通りの預流果はいるのでしょうか。なぜなら預流果は五戒を決して破らないといわれているからです。

五戒とは、
・生き物を殺さない
・盗まない
・嘘を付かない
・不倫をしない
・お酒を飲まない
この5つですね。

この5つを完全に守ることができるか。現代人で守ることはできますかね?微妙じゃないかと思います。

ゴキブリや蚊を殺すときはあるでしょうし。方便でウソ言ってしまうときもあります。

やさしいウソも言ってしまうこともあるでしょう。お酒だって、宴会などで飲まざるを得ないときもあるでしょう。

現代人は仮に預流果になっても、伝承通りの預流果かどうか。厳密にいえば違うのかもしれません。

預流果とは、悟り体験+五戒(戒律)を守る存在。そういうことかもしれません。

ここはまだまだ考察する余地があると思います。

預流道心と預流果心は分ける必要が無い?

ちなみに預流道心と預流果心とは、本当は分ける必要はないんじゃないかと思います。が、あえて分けて分類するのがアビダルマらしい精密です。

スマサナーラ氏の話しでも、
預流道心が生じて、次ぎの瞬間に預流果心が生じる。
といった説明です。

預流道心も預流果心も実質同じ。けれどもアビダルマでは、厳密に区分する。ってことではないかと思います。

ただ、預流道心にしろ預流果心にしろ、その深浅といいますか、状態は人によって違うんじゃないかとも思います。

預流道心・預流果心は瞬間起きる体験ですが、これは認識・心がストップする体験と、その後、認識・心が再起動する体験に相当すると思います。

預流道心・預流果心は人によって深浅がありそう

で、人によっては、さらに意識に変容が起きて、一来果心、不還果心、阿羅漢果心まで至ってしまうと。人によって、その深度が違ってくるんじゃないかと思います。

預流道心・預流果心が生じたものの、疑、戒禁取が、その瞬間に綺麗に落ちるとは限りませんからね。

心の奥底では落ちているのでしょうが、表面的な意識、思考の部分ではまだ残骸が残っている場合もあります。

有身見は預流道心が生じたときに落ちます。疑、戒禁取も深部では落ちるのでしょうが、これが認識、思考レベルまで浸透するのは、また別問題かもしれません。

意識の底では断たれても、表面意識ではまだ残骸があって、習慣の力があって混乱しまくることも起き得ます。

適切な指導者や指南本に出会わなければ、迷い続けることもあり得ると思います。

それ故に三宝や、これに準じる存在が大切なんでしょう。正しく適切に導く存在がありませんと、迷い続けることも出てきます。

同じ預流果でもレベルに違いがありそう

なので同じ預流果でも、
出来の良い預流果と、
あんまり出来が良くない預流果
がいるんじゃないかと。
ピンからキリまでといいますか。

で、有身見、疑、禁戒取が、表面的な意識や思考レベルでまだ根強く残っている人は

・自分に起きた体験を信じられず戸惑う。
・悟り体験をやたらと誇示したがる(YouTuberになる)。
・スピリチュアルエゴに陥ってしまう。
・未解決のトラウマがあると心がアンバランスになってしまう(言動が怪しくなる)。
・クセの強い性格だと相変わらず怒りっぽかったり欲しがったりしがち。
・発達障害が残ったまま。

となってしまうケースも出てくるのではないかと思います。こうした方はあまり出来のよくないケースかもしれません。

魂のレベルで自己の認識に大転換が起きたものの、表面意識におけるクセや、潜在意識における問題を抱えたままのケースです。
こうしたケースもあると思います。

なので仏教では、悟る前から戒律を実践させ、善行や慈悲を実践して、表面意識や潜在意識のクセを落として(浄化して)、言動を整えるように推奨しているんだとも思います。

戒律・善行・浄化の実践が欠けていると大変なことに

こうした浄化の実践をしていませんと、悟り体験が起きたときに、エゴのインフレーションを起こしてしまって、手が付けられない人になってしまうことも出てきます。

禅の世界には、この手の人が時々出てきています。禅では元より禅では、戒律も善行も切り捨てています。なので問題行動を引き起こす人が多いのだと思います。

傲岸で傍若無人だったり、攻撃的で暴力も振るう。喧嘩上等。臨済義玄のような喧嘩禅などそうでしょう。

その破天荒な非常識さ、傍若無人さが、まるで悟りの特徴であるかのような受け止め方もされています。

しかし実際はそうではありません。単にエゴがインフレーションを起こして、エゴが増大し、未解決な心やトラウマの制御ができず暴走してしまっているだけです。
重篤な空病に陥っているケースです。

こうした状態は、本人もさることながら周囲や社会にとって迷惑です。で、こうした未解決の心の問題は解決していく必要があります。

だからこそ戒律、善行、慈悲といった浄化の修行が欠かないわけですね。こうすることで悟った後、スムースに馴染むようにもなり、問題行動や言動が減っていくようにもなります。
で、悟後を安定して過ごせるようになるのではないかと思います。

で、これがうまくゆかない人は、それこで7回くらい生まれ変わってやり直しを続けるというプロセスを経るんじゃないかとも思います。

三結が同時に綺麗に落ちるケースは優れた預流果じゃないかと思います。で、優れた預流果は適切な仏教の世界にいて、適切な指導を受けている場合に多いのではないかと思います。

そういう意味で「適切な三宝」は貴重です大切になります。

スマナサーラ氏はすごい

しかし、こうしたことを示唆し、考えさせるスマナサーラ氏はすごいですね。

改めて思います。
優れた指導者のお一人だと思います。ただ口が悪いのが玉に瑕なんですけどね^^;

が、著書を手がかりに自習できるすごさがあります。ここまで解脱について説明できる人は数少ないと思います。

スマナサーラ氏のアビダルマ講座はメチャおすすめですしね。これだけわかりやすい解説書は、おそらく無いんじゃないかと思います。

テーラワーダにおける優れた指導者

ウ・ジョーティカ氏、スマナサーラ氏、アーチャンチャー、グナラタナ氏。このお4名は優れています。書籍を読んでいても「すごいなあ」と感じさせます。

しかし日本人には、残念ながら適切な指導者がいるかどうか。悟りへ導く指導者は大変少ないか皆無かもしれません。指導者の中で預流果に達した方は極めて少ないと思います。

ちなみに禅は乱暴ですし慈悲が根本的に欠落していますので、除外しています。

日本では悟り宣言はリスクがある

ところで日本は「みんな平等」という意識の強い国民性です。しかしこれがマイナスに出ると、

・横一列に並びたがる(並ばせたがる)
・出る杭は打つ(叩く)
・足の引っ張り合いをしたがる(上に行かせないようにする)

という意識があります。

なので悟りを宣言することは「叩かれる」「試練に遭う」「試される」というのがお約束でしょう。

上記の動画でも言っていますしね。
昔のインドでも「預流果になった」と言ったところ、本当かどうかを試されて処刑台にまで連れられてしまっています。

こうしたことは現代でも起き得ます。
もちろん処刑台には連れていかれないでしょうが、試されたり、意地悪されたり、試練に遭うでしょう。強烈なバッシングも受けることもあり得ます。

なんだか面倒なもんです。
もし仮に悟り体験が起きたとしても、おいそれと「私は悟った」とかは言わないほうが無難だと思います。

ま、悟ったとか言わなくても、上手に生きていくことはできますね。
波風を立てずに、お気楽にしているのが現代における「賢者の道」ではないかとも思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です