徳・ハートに開け天人的になることがやっぱり大切~全ての礎になるエッセンス

うーん、やっぱり最近、どうも気の様子が変わってきています。
これと関連してか、ここ数日は、
腰や下腹部の自発功が強くなっていましてね。

横になると、腰や下腹部がピクンピクンとかプルプルと動きます。
で、エンジンをアイドリングしたかのような
低い響きでブーンと唸っているかのような。

どうも何かが起きそうな予感があります。

3月半ばから夢をよく見るようになっていて、
夢解釈では良い変化の暗示なのですが、
何か、こう変化していくのでしょうかね。

確かに気分的にもワクワク感がしていますし、
生活面でも新しい出来事があったりして、
いろいろと新しくなってきています。
なんかワクワク^^;なんですね。
 

ところで本格的に悟りとかを目指しますと、
なんていいますか、下準備がある程度できていませんと、
やっぱり事故とかが起きたり、変な方向に行きやすいのかなあ
なんて思ったりもします。

仏教をはじめ瞑想などによって、ある程度、解決されたとしても、
生来の歪んだ面が陶冶されていませんと、
こうした傾向が途中から全開状態になってしまって、
いろいろと問題を引き起こすことになってしまうことも出てきます。

結局、生来の強すぎる偏向性を整えておきませんと、
後になってからやっぱり仇になるんだなあと思ったりもします。
考えさせられます。

スピリチュアルや悟りをやってはいけない方~まずは普通(ふつー)に立ち戻ること


 

生来的に偏向性が強すぎる場合は、
仏教をはじめ瞑想などが、かえってマイナスに作用してしまうことがありますね。
瞑想だけでなく教えもそうです。
認知にズレがありますので、ネガティブに受け止めることも多くなります。
こうした事例はいくつか見ています。

ネガティブ過ぎたり、思い上がりが強いなどのご性格の方が、
瞑想や坐禅に執念で取り組むと、
ますますおかしくなっていくケースが時々散見されます。

中には偶発的にクンダリーニが覚醒したり、
覚醒体験をする方も出てきますが、
こうした体験が、かえってスピリチュアルエゴを増大させてしまって、
手が付けられなくなり、ネガティブパワーが全開になってしまう人もいます。
かえって厄介なことになってしまうんですね。

これを「ネガティブ経由の悟り」といっています。
苦しみや苦悩、恨み、憎しみが根底に強くあって、
これをバネにしてど根性で進めていく道です。
しかしとにかく問題を引き起こすことが多く、
この手のケースには近寄らないほうが無難だと言われています。

麻原彰光は、まさにこの典型です。
 

やっぱり、まずある程度、性格的に真っ直ぐにして、浄めて、
トラウマや抑圧を解消するなど、ある程度ノーマルにしてから、
本格的な瞑想などに取り組んだほうがいいんじゃないかと思います。
これが無難ですね。

しかし中には、何やっても性格の偏向性が改善されないどころか、
で、やればやるほどかえっておかしくなっていく人もいます。
稀なんですけどね。

これこそもう「過去世の業」なのかもしれません。
そうとしか思えなくなってきます。
 

その点、テーラワーダ仏教は「心の浄化」という軸がビシっとあって、
この軸に沿って「いまここ(如実智見)」を行っていきます。
修行が進めば進むほど人間的にふくよかになっていったり、
慈愛深いご性格へと変わってまいります。

中には、こうした軸を持たないで、意識しないで、
テーラワーダに向き合う指導者や人もいます。
が、しっかりと勉強をしているならば、
ブッダの方法が「心を浄める」という軸に展開されていることが
わかるはずなんですけどね。

やっぱり教理の勉強や研究も必要です。
昔から学習することを「聞(もん)」と言っていて、
ブッダも勉強や学習を推奨しています。
やっぱり知識ベースの学習も欠かせないんですね。
 

それにしても、いろいろと考えさせられます。
実際、私もいろんな方を見てまいりましたし、
話しにも聞いてきましたし、本でも知っていました。

で、瞑想とか悟りとか、そういうこと以前に、
心をよくするとか、徳を積むとか、善行を心がけるとか、
ハートを大切にするとか、そういう行動そのものが大事で、
こういうのが基礎になるんじゃないのかなあと思います。

で、こうした有り様を「ふつー」といっているわけでして、
「ふつー」であることがやっぱり大事なことなんだなあと思ったりもします。
クセの少ないノーマルな状態ですね。

で、こうしたことを長年、意識して続けているだけでも、
自ずと瞑想的になったり、エネルギー的な活性が自然に起きたりして、
どうやら瞑想とか悟りとかを目標にしないで、
「命の有り様」を自然にしていくという文脈のほうが
いいんじゃないかと思ったりもします。

ヴィパッサナ瞑想もそうですが、ハートの乏しい智慧系の瞑想を行って、
わりといい所まで進んでも、次第に人をやたらと攻撃するようになったり、
被害妄想が強くなったり、おかしくなっていくのは、
毎度ながら「あれまー」と思ってしまいます。

オウムがまさにこれでしたからね。
集団として、こうなってしまいましたから。
集団で「魔境」にハマっていったという塩梅です。
 

基本的には、保守的で、注意深く、
そして徳にかなった歩みをしていくのが大事じゃないかと思います。

そのためには、まずは「徳とは何なのか」「ハートは何なのか」
といったことが「わかる」感性といいますか、
状態に開けていくのが大切なんじゃないかと思います。

これがありますと、自ずと「心を浄める」軸ができますし、
もしも勘違いしてしまった場合でも引き戻すこともできますし、
軌道修正もできます。

徳・ハートに開けることを重視していますが、
こうして見てまいりますと、この方針は間違っていないなあ
と思ったりもします。

てか、これこそがブッダの方針なんですよね。
ブッダは「善行」「戒律(五戒)」「天界へ往く」を説いていますが、
これこそが「徳・ハート」に開けていくことを意味しているんですね。
 

「天界へ往く」というのは、何も現世での幸福を目指すためだけでなく、
徳・ハートに開かれるから自ずと天界へ往くことができて、
「天人」になれるわけなんですね。
「天人」になるためには、徳・ハートの感性が欠かせません。
なので「天人になる」というのはわかりやすいんです。
「天人のようになりましょう」という、その指針だけで、
自ずと「徳・ハート」が必要なことをさとり、身につけようとするんですね。

で、幸いなことに、もし仮に悟ることができなくても、
生まれ変わったならば「しあわせ」な生涯となるんですね!
天人になっているか、天人的な感性が宿るんですね。
素晴らしいじゃありませんか!
まさに一石二丁!
なんて合理的なんだ^^;

「戒律」も何もガチで守ったり、
「あれやっちゃいかん」という教条的なものではなく、
その本質は、徳に開け、ハートに生きることの指針なんだと思いますね。
 

せっかくいい所まで進んだにもかかわらず、
こうして途中でおかしくなってしまう方を見ると、
毎度ながらいろいろと考えさせられます。

他山の石ですね。
油断すれば誰にもで起き得ることです。
ええ。
人の心は常に変化しています。
思い上がったり、変なクセが付きますと、
おかしくなることは誰にでも起き得ます。
反面教師として学ばせていただくといった感じです。

で、やっぱり「天界」の波動を身にまとい、
天人であるようになることが大事だなあと思います。

で、これが実現するためには、徳・ハートですね。
ここに開けていくことがまず大事であり、
ベースになるんだと思います。

と、今日は、そんな独り言。