天界へ行きたい~生命の世界では想像でき得る次元

天界へ行きたい。

わたくしには、この思いが、ずーっと昔からあります。
死んだら、天界へ。

いえ、現世も天界のようでありたい^^;
そんな思いやがあります。

思いといいますか、一瞬、一瞬が、
そういう状態であることがスタンダードでありたいわけですね。

で、そうなるための方法に、善行もありますし、アファメーションもありますし、
いまここもあります。
「いまここ」を軸にして、自然なかたちで天界モードになるのがいいと思います。


 

ちなみに、悟りの初門に入った預流果(よるか)は、死後、必ず天界へ行きます。
これが、何を意味しているのか。
よーく考える必要があります。

悟りは、枯れ木のようになることではありません。
世の中に無関心になることでもありません。

そういう悟り?の状態もあるかもしれませんが、
おそらく、そんな悟りを「小乗の悟り」としたんだと思います。
で、これに対して大乗の悟りを言い出したのでしょう。

で、ブッダの説く悟りとは、いわゆる「大乗の悟り」に近いと思います。
別段、後世になって「大乗の悟り」という言葉や概念が作られたのではなく、
元より、ハートを根底においた悟りの道であろうと思いますね。

そういうことだと思います。
で、本質は、これですね。

禅のような超然とした悟りは、本当にブッダの説いた悟りなのか。
疑問があります。

少なくとも、私は、「預流果は死後、天界に往生する」ということから、
悟りに入れば、ハッピーで、慈悲・慈愛・利他の思いが強くなる、
そんな生命体になると感じています。


 

で、悟りとは想像もできませんので、
悟りを求めること自体がナンセンスなわけですね。
ええ。

悟りを求めているならば、
それは想像の世界、妄想の世界にいることと同じだったりします。
これって意味がわかりますかね?

悟りは想像できないわけです。
にも関わらず、これを求めるならば、想像している前提があるわけです。
実は、自覚していないだけであって、「悟りとはこういうものだ」という想像が
前提にあるわけですね。

なので、想像しているからこそ「目標」として掲げることができるわけでして、
また、これに向かって取り組むようになるわけです。
わかりますかね?
 

ところが「いまここ」にあるようにすると、そういう目標設定がなくなっていきます。
てか、長期の目標設定がウザったく感じられます。
できることは、「いま」と、ちょっと先のことくらい。

実際、日々の中においては、「いま」いあることが、できることです。
で、もし想像するならば「天界」ですね。
せいぜい、天界モードです。
実際、天界モードは、体感もできますし、今、この場で実現もできます。
実は、想像の類ではなかったりします。

なので、いまここを通して、天界モードであり続けることは、
理屈の点でもかなっていますし、こういう生き方が、
社会的にも共有され、有益になるのではないかと思っています。

天界へ往きたい、といいますか、今、この瞬間を天界モードにするこは、
取り組み方、有り様によっては、すぐにできることじゃないかと思います。