真の道・グノーシス主義が台頭する21世紀

今、もっとも興味があることは、縁ある方の意識の開眼。

キリスト教はまったくといっていいほど学びも無かったのですが、グノーシス主義には目を見張るものがあったものです。

グノーシス主義の中には、
・神性とは善である
・善とは神である
といったことを説いているところがあります。

こうした言い方は時々聞くかもしれません。

が、このグノーシス主義で言っていることは、体感から生じている表現だったりします。

概念的なものとはまったく異なります。

体感的な善の感覚。
それを神性という。
 

ところで今日のミュージックスタート。

First Memory – Piano Solo

「shookmusic」さんというミュージシャン。

たぶん日本人だと思いますが、海外にお住まいで、海外から自分の作品をYouTubeにアップして発信しています。

坂本龍一さんっぽい音楽を作り、なんかいいんですよね。

今日は、「shookmusic」さんのピアノを聞きながら記事を書いています^^

 

で、善とは神性。
真我とは、善性。

このことは、以前から私も言い続けていることでもあります。

ようやく自分が感じていることと同じことをストレートに言っているグループを発見。

まさか、それが2000年前のグノーシス主義にあったとは。
 

真我とは、まさに善の感覚。

これを言語化したのが、戒律であったり、道徳的なことだったりします。

しかし、これら言語化されたものは、本来のニュアンスと異なっています。

そんな教条的なものではないんですね。

決して教えではないんです。

もっと体感的なことだったりします。

瞑想や自己観察でしか啓(ひら)けてこない感覚です。
 

で、その体感的なことは心地よさだったりします。

一般的に考えられている「善」とは異なります。

善とは気持ちがよいこと。
 

しかしその気持ちの良さは、肉体的な快楽とは性質が異なります。

精妙な心地よさ。

それ故に、伝わりにくい。

瞑想と日々の行いの先に開けてくる特有の感覚だったりします。

瞑想や自己観察をしないと、まったくわからないものです。
 

それは、やわらかく、やさしく、あたたかく、広がりを持った輝く有り様です。

一般的に考えられている神性とはちょっと違ったりします。

ここに体感と想像との決定的な違いがあります。

なので、体感、体験を重視するんですね。
 

想像上のこと、本を読んで思う感覚、いわゆるスピリチュアル的なことは、まった見当違い。

スピリチュアルは「害毒にすらなる」というのは、こうした体感的なこととの相違があるからなんですね。

スピリチュアル(アストラル界系スピリチュアル)は、本当によくない。

本当の善の感覚がわからなくなってしまうからでもあります。

 

しかし、この善の感覚は、これからの時代にとって必須であると感じています。

けれども、どうやってここに誘うのか。

なかなか難しいものもあります。

精妙であるが故に、人を選ぶところがあるのも事実。

ジレンマがあります。
 

2000年前のグノーシス主義では、素養のある者を見つけると、何年にもわたって観察し、時間をかけて接触。

そんなことが記録に残っています。

で、機が熟した時に、エソテリックに招く。
 

人を選ぶ。

素養のある見つけ、選ぶ。

こうした秘儀的なことを行っていたと。

当時のグノーシス主義は、大変慎重。

素養を見抜いて、教える人を選んでいた。
 

精妙な領域であるが故に、その中身を人前で明かしません。

訪ねられても、相手がそれを理解する素養が無ければ黙ってしまいます。

あるいは「あなたには理解する能力が無い」と言って一蹴。

こうした対応は、冷たいと思うかもしれません。

が、非常に適切な対応だったりします。

そういう性質だからなんです。
 

ちなみに正統を自称するキリスト教徒や司祭に対しては、特に一蹴して無視していたようです。

キリスト教徒を「無能扱い」にもしていました。

「イエスの復活」という頓珍漢な物語を信じている、程度の低いキリスト教ですので、相手にする価値も無かったんでしょう。

しかし、そんな小馬鹿な対応をされたエイレナイオスなどは、狂ったようにグノーシス主義を批判、攻撃します。

短絡的にしか理解できない愚かな護教者さながらです。
 

キリスト教神学の粋でもある「ヨハネ福音書」は、グノーシス主義に対抗するために創作された文書。

え、虚飾交じりの創作福音書なんですよ。

てか、ハッッキリいえば嘘。
迷信。

が、この「ヨハネ福音書」こそ、キリスト教のキモになっています。

が、小説みたいなもんなんです。法華経のような創作文書。

で、そんな華々しいながらも虚飾を交えた創作福音書を作らざるを得ないほど、2000年前はグノーシス主義が盛んだったということです。

主流でもあったという説もあるほど。
 

2000年前、地中海沿岸のグノーシス主義は、正統を自称するキリスト教を足蹴にし、無視。

まったく相手にもしません。

で、資質のある者だけを探して、精妙な対応をしていたようです。

まさに神秘行特有のやり方。
 

こうしたことが、キリスト教の勉強をしてわかったものです。

 

しかし、驚いた。

このやり方に、ある種の感銘といいますか、共感を覚えたものです。

実際、こうしたやり方は私自身が行っているからです。

もちろん、グノーシス主義的なことを、そのまま真似て行ったりはしていません^^;

差別的なことは言いません。

でも、本質的には似たようなことをしています。

やはり適性は、残念ながらあるからなんです。

残念ながら。
 

しかし皮肉なことに、素養があるなあと思う方でも、去っていったり、興味を失ったりします。

仮に素養があっても、それが開花するまでに時間はかかります。

で、開花する前に辞めてしまうケースも少なくない。

この道はいかんともし難いものがあります。
 

素養は大切。

ご本人が、その素養にまったく気がついていないことも多い。
 

私が「素養がありますよ」と言っても、リップサービス程度にしか思っていない人もいます。

いえいえ、リップサービスでなんか言いませんよ^^;

無理っぽいなという方には、遠慮申し上げています。実は。
 

ちなみに天啓気療をおすすめしているのは、まさに素養作りだったりします。

天啓気療を、あきらめずに受け続けていくこで、潜在的に持っている素養が開花することがあります。

しかし何度受けても手応えがないと、あきらめる人がほとんど。

そうして途中で辞めてしまう。
 

しかし可能性のある人を見つけては、それとなくアプローチしています。

が、それでも結果が出てくる、成果に結びつく方は、少なかったりします。

やはり時間がかかるからです。
 

で、何も結果も出てこないまま何年か経つと、あきらめてしまわれるわけですね。

で、去ってゆく。

しかし、その少ない中、素養があって意欲のある方は確実に伸びていきます。

で、高次の意識を体現されていくようになる。
 

この道は、決してマス対応できるものではありません。

一人一人と向き合ってアドバイスしていく世界。

まるでマイスター(職人)のような世界。
 

今のところ、このやり方しかできないため、手作りのようにひっそりと行っています。

一気に、10人、100人の覚醒者が出てくるのは夢なんですが、やはりそれは難しいのかなあと思います。

コツコツと一人、また一人と行っていくことになるのが、この道。

もっと多くの人を、と思いますが、私のキャパの限界なんでしょう、なかなか難しいものも感じさせます。
 

しかし、今、自分ができる中で、精一杯やり続けることだと思っています。

今までも、こういう生き方をしています。

で、気がつけば、意外な成長をしていたりするんですね。

そんなことを何度も体験すると、人と比べたり、昔を悔やんだり、未来にあれこれと思うことは減っていくようになります。

てか、適切な瞑想をしていれば、そうなっていくんですよね。
 

10代の頃は、まさか今のようなことができるとは想像すらできなかったものです。

その想像すらできなかったこと、思いもよらなかったことがわかるようになったり、できるようになったのは、その時々で出来ることを精一杯やり続けてきたからだとも思います。
 

こうした考えが腑に落ちれば、過去や未来をあまり考えなくなります。

今できることに力を注ぐようになります。

で、必然的にアストラル界的なスピリチュアルには興味を失います(エンタメや話題としては面白いですけどね)。

 

アストラル界的なスピリチュアルは、頭に圧迫感と朦朧感を与える、破壊的な産物であることが、おそらく多くの人も体感するようになると思います。

ホント、有害なんですよ。
有害。

アストラル界的なスピリチュアルは、決して精神を成長させません。

むしろ劣化へと誘い、破壊をもたらします。

危険な精神世界。それがアストラル界的なスピリチュアル。
 

風の時代、ゲートが閉じる、自分軸、アシュタールとか、流行のスピリチュアル言葉を使っているものは、全て乖離したスピリチュアル集合無意識にシンクロしています。

こんな乖離した状態では、とてもではありませんが、真の道に入ることはできません。

むしろ知性と感受性を劣化させ破壊し、不幸に誘います。

魔の道なんです。
 

ちなみにOSHOも、アストラル界的なスピリチュアルには否定的でした。

迷いの世界であるとキッパリ。

テーラワーダ仏教でも否定的。

超能力や霊能力といったアストラル界に興味を持つと、悟りが遠くなると諫めているほど。
 

しかしそんなアストラル界的なスピリチュアルは、現代も花盛り。

2000年前も、実はまったく同じ。

独特の香りを出し、その香りに引き寄せられる人は多い。

しかし迷いの世界。

 

真の道、グノーシス主義は、アストラル界的なスピリチュアルであるキリスト教によって消された。

真の道は、いつの時代でも険しい。

そういう性質なのかもしれません。
 

しかし現代では、むしろグノーシス主義的なものが歓迎されつつあると思います。

2000年前とは異なります。

今後、グノーシス主義的なもの、真の道は、陶太されることなく、むしろ主流になっていくと思います。

反対に、アストラル界的なスピリチュアルやキリスト教が消え去っていくことでしょう。

劣化した諸々こそ消えてゆく運命。
 

と、今日も独り言^^

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