トマスによる福音書~真我を説くヨーガ的なイエスの教えに驚愕!

トマスによる福音書とは?

「トマスによる福音書」について。

これも外典です。
正典とされていない文書。
グノーシス文献ですね。

で、正統派を自称するキリスト教からは徹底的に異端視され、陶太されきた歴史もあります。

そんな外典としての「トマスによる福音書」。外典の中では最古の福音書といわれています。

結論を先にいえば、自称正統派の教会のほうがドグマが酷いおかしな教義であり、トマス福音書のほうが認知行動療法にもつながる普遍的な教えになっています。

「トマスによる福音書」は1945年にエジプトで発見の「ナグ・ハマディ」文書に収録されています。

共観福音書と63%が共通している

興味深いのが新約聖書の福音書(マルコ、マタイ、ルカといった共観福音書)と重なるところが多い点です

「トマスによる福音書」は全部で114節あります。このうち72節(63%)が共観福音書と重なります(ほぼ同じ)

残りの42節(36%)がトマス福音書独自の文言になっています。

「トマスによる福音書」もグノーシス文献と言われています。

トマスによる福音書は仏教・ヨーガ的

が、「トマス福音書」にはグノーシス特有の概念はほとんど無いんですね。なので以前も書きましたが「正統キリスト教」以外の「よくわからないもの」をグノーシス主義にしていることは、こうしたことからもわかるわけですね。

グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容

トマスによる福音書の教え

そんな「トマスによる福音書」は、瞑想的です。ヨーガ、仏教的です。ざっとポイントをあげると、トマス福音書は、

  • イエスは「本当の自分(真我)」を探究することを推奨
  • 自己の中に「神の国」がある
  • 内なる神を求めよ
  • 神の国生ける父の子真我
  • 認知を善くせよ
  • 外側に幸せを求めると信仰が生まれる
  • 「あるがまま」を説くイエス
  • 私たちは光から来た「父の子、神の子」
  • 私たちは「生ける父から選ばれた者」
  • ヨハネ福音書とは正反対の内容
  • ヨハネ福音書はトマス福音書を消し去るために作成された文書
  • 新約聖書のようなドグマではなく普遍的な真理・教えを説く

このような教えが説かれています。一言でいえば、現在のキリスト教のような特定の教義を信じることはしない「普遍的な教え」。しかも語り手は「イエス・キリスト」。

「トマス福音書」岩波文庫から出ている「ナグ・ハマディ文書抄」に収録されています。

またエレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」は、ヨハネ福音書との対比考察があり、大変学びになります。

トマス福音書のイエスは真我探究を指導

「トマスによる福音書」は瞑想実習者にしてみればピンと来る内容です。

というのも「トマス福音書」も「マリア福音書」と同様、真我探究がテーマになっているからです。ヨーガ的です。

たとえば、こちらの節には、「真我探究を指導するイエス」のことがあります。

トマス福音書 3節

「神の国」はあなたがたの中にある。それはあなたがたの外に広がる。自分自身を知るならば、それがわかるであろう。そして自分が生ける父の子らであることを知るであろう。しかし、あなたがたがは自分自身を知らないなら貧困にあり、これが貧困なのである(意訳)」。

この文言は少し意訳しました。で、「真我」のことを言っていますね。

神の国=生ける父の子=真我

従来の福音書とは正反対の内容を説いています。仰天。

しかし「トマスによる福音書」には、真我探求を勧めるイエスの言葉が伝わっています。

興味深いのは、本当の自分(真我)に気がつかない・知らないことを「貧困」と言っている点。

山上の垂訓の「貧しい者」の意味

新約聖書マタイ福音書で有名な「山上の垂訓」「心の貧しい者は幸いである(マタイ5章3節)」

この解釈を巡っては侃々諤々になっているようです。が、トマス福音書を踏まえると「心の貧しい者」とは「真我に目覚めていない者」であることがわかります。

つまり山上の垂訓は「まだ真我に目覚めていない者は、これから可能性があるので幸いである」という意味になります。筋も通ります。なんといっても希望のある教えなります。

イエスは真我探究を勧めていた

イエスは、真我探究、真我に目覚めることをうながしていたことがわかります。

イエスが真我を教えていたんじゃないかということは、他にもあります。たとえば

トマス福音書 17節

イエスは言われた。わたしはあなたがたに目がいまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い浮かびもしなかったこと(まったく新しい教え)を与えるであろう。

これにも表れていると思います。

「トマスによる福音書」も「マリア福音書」と同様に、「真の自己」を探すことをうながす教えになっています。

その「真の自己」とはインドでは「真我」といっています。イエスは「真の自己」を「人の子」「神の国」「メシア」といっています。

マグダラのマリア福音書のイエスの教えはヨーガ的

トマス福音書が伝える「神の国」とは?

トマスによる福音書には「神の国」に関するイエスの言葉もあります。

トマス福音書 113節

彼の弟子たちが彼に言った。どの日に神の国は来るのでしょうか。彼が言った。それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。「見よ、ここにある」、あるいは、「見よ、あそこにある」などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない

これまた驚きですね。

「神の国」は心の中にある

「神の国」は既にある。それぞれの心の中にある。ただそれに気がついていないだけ。

トマス福音書が伝える「神の国」とは、パウロが考案したキリスト教のような「イエスが上空から降臨して地上に理想郷『神の国・千年王国』を作る」といった救済される世界ではないことがわかります。

神の国は既にある。
汝らの心の中にある。

確かに、世の中が良くなる、世界が「神の世界」のように素晴らしくなることに越したことがありません。またそうあることが望ましいですね。

認知が善くなることで神の国は現れる

けれどもそれ以上に大事なことは「認知(受け止め方、理解、解釈)」が良くなること。また心そのものが善くなっていくこと。ここが大事なんですね。

イエスは、神の国は既に地上にあることを言っています。

つまり、認知が曇っているため、既にある「神の国がわからないんだよー」とイエスは言っているわけですね。

そうなると認知行動療法的なことや、自己の内面を見つめる内観的・瞑想的なアプローチが必要なことが、自ずから明らかになってきます。

従来の福音書とは真逆な教えになっています。

自分の心の中に「神の国」はある。つまり「認知が天人のようになれば、見るもの、聞くものがしあわせに見え、うるわしく聞こえて、自分も周囲が神の国のようになるんだよー」と言っているわけですね。

認知が善くなると幸福を感じる

そもそも2000年前に比べれば、現代は神の国のような世界です。が、いくら文明が発達して、2000前に比べてどんなに素晴らしい世の中になっても、認知や心が善くならなければ2000年前と変わりません。

従来の福音書は、要するに「世界が良くなること、世の中が『神の世界』のように素晴らしくなること」で、みんな苦しみが無くなる、痛みもなくなるという教えを説いています。

しかし、これは不十分な教えです。時代が証明しています。

仮にスピリチュアルでいう「アセンション」が起きても、人々の認知が善くなっていない限り幸福感は得られません。だからそれほど期待できないわけですね。

内なる神を求める

トマス福音書に伝わるイエスの言葉は「外側(世界や周囲、見えるもの聞こえる音)に「神の国」「神」を求めるのではなく、内側(自分の心)に「神の国」「神」を見出すことのほうがもっと大事ですよ」ということです。

で、実のところ「神の国は既にあるんだよ」という指摘。

ごもっともです。
新約聖書にあるような「イエスの再臨によって地上に神の国が作られる云々」といったドグマになっていません。

トマス福音書に伝わるイエスの言葉のほうが合理的ですし納得できます。で、何よりも普遍的です。

外側に幸せを求めると信仰が生まれる

世界が良くなったり周囲や環境がよくなることこそが「幸福なんだ」「神レベルの幸せなんだ」とする発想からは、パウロ教のような信仰も生まれます。

「外側」に幸せを見出していると、誰かをあがめ奉ったり、本尊にする信仰が生まれます。外部に幸せを求めるというのは依存心であり、依存心が信仰というスタイルを生み出しています。

ただし信仰の中にもインドのようなバクティ・ヨーガもあります。バクティ・ヨーガは、キリスト教のような信仰とは違います。

もっともキリスト教のような信仰は、これはこれで即行的な安らぎが得られやすいメリットがあります。またわかりやすいため、理解力が乏しい方でもわかるといったメリットがあります。

しかし根本的な解決にはなりにくいんですね。

グノーシス主義は認知にフォーカスする

認知や心の有り様にフォーカスして追求するのがヨーガや仏教。で、トマス福音書などのグノーシス主義もそうです。

で、トマス福音書をはじめとしたグノーシス主義にこそ、本当の宗教の教えと実践があります。またイエスの本当の教えがあるように思えます。

ちなみに仏教では、認識の有り様そのものを根本的に変えてしまう「悟り」を提唱しています。悟りですね。

「あるがまま」を説くイエス

「トマスによる福音書」には、「あるがまま」を説くイエスの言葉も残っています。

トマスによる福音書 5節

イエスは言われた。あなたの面前にあるものを知りなさい(認識しなさい)。そうすれば、隠されているものはあなたに現れされるであろう。

これは「観察」「あるがまま」を推奨した言葉に通じます。

というのも「観察瞑想」「自己観察」は、本当の自己(真我)に開眼するアプローチだからです。

トマス福音書のイエスは「本当の自己」を探すようにうながしています。なので「面前にあるものを知りなさい」とは、本当の自己がわかるアプローチ「あるがままに認識しなさい」という意味に受け止めると、筋が通ります。

トマス福音書のイエスは真我探求者です。なのでこの文言は「観察・あるがままにしていると真我がわかるよ」と言ったイエスの言葉になると思います。

私たちは光から来た「父の子、神の子」であると言いなさい

これまたびっくりなイエスの言葉になりますが、

トマスによる福音書 50節

イエスは言われた。人々があなたがたに「どこから来たのか」と聞かれたならば、人々にこう言いなさい。「私たちは光から来た。そこで光が自ら生じたのである」と。

さらに彼らがあなたがたに「それがあなたがなたのか?」と聞かれたならば、「私たちは、その光の子であり、生ける父から選ばれた者である」と言いなさい。

さらに彼らがあなたがたに「あたながたの中にある父の徴(しるし)は何か?」と聞かれたならば、「それはエネルギーであり、静寂(瞑想による禅定)である」と言いなさい。

聖書にある福音書を圧倒する内容ですね。

わたしたちは光から来たとは真我のこと

で、「わたしたちは光から来た」。これも真我を示した表現です。真我は光にたとえられます。

ちなみに禅定を体現した者が死後行く世界は、「光音天(梵天=真我の世界、神の国)」になります。「光から来た。光が自ら生ずる場所から」は光音天(梵天)を思わせます。

生ける父から選ばれた者とは神の子

この後に「生ける父から選ばれた者」とありますので、「神の子」を示しています。つまり「真我」ですね。

この一節とほかのトマス福音書の言葉を総合すれば、

光の子 = 生ける父から選ばれた者 = 神の子 = 神の国 = 真我

このようになります。

ヨハネ福音書とは異なるトマス福音書の内容

トマスによる福音書からもわかりますが、イエスは「私(イエス)だけが神の子」とは全く言っていないんですね。そうではなく「私たちが神の子」であると、イエスはいっています。

一方、ヨハネ福音書には「私だけが唯一の神の子である」「私を通らなければ神の国に行けない」「私は命のパンだ」などとあります。

が、エレーヌ・ペイゲルス「禁じられた福音書」で指摘している通りで、ヨハネ福音書はトマス福音書に対抗して考案された創作文書というのはうなずけます。

そりゃトマス福音書を「異端認定」して、徹底的に叩きつぶしたくなるのもわかります。

真我を説くヨーガ的なイエスの教えの「トマスによる福音書」

以上が「トマスによる福音書」のあらましです。

イエスは真我を説くヨーガ指導者のようです。で、パウロ教の信仰とはまったく異なることがわかります。

世界が良くなるとか、周囲や環境がよくなることで幸福を感じる・求めるといった対処は、いわば依存的です。で、ここからパウロ教のような信仰も生まれます。救済を他(イエス)に求めるスタイルです。

信仰的な対処や期待も決して悪くはありません。周囲や環境は良いことに越したことがありませんからね。

けれども外界から受ける情報処理を善くして、心を善くするがヨーガ。認知そのものを根源的に刷新するのが仏教。

トマス福音書ははまさにヨーガ的。パウロが考案したイエス信仰とは、発想やアプローチが根本的に異なります。

しかもトマス福音書に伝わるイエスの教えは「普遍的」です。誰にでも当てはまり、どの国でも言い得ることです。

ヨハネ福音書のように奇妙な教義(ドグマ)もなく、盲信を勧めることもなく普遍的な真理や法則、実践を説いています。

まとめ

以上をまとめると、こちらの一覧の通りとなります。

トマス福音書
グノーシス主義
新約聖書(ヨハネ福音書)
正統派教会
イエスの教えとは?汝らの心の中にある真の自己(真我)を探せ。あるがまま。イエスを通してのみ神の国へ往ける。イエスは絶対盲信せよ。命のパン。
神の国とは?汝らの心の中に「神の国」がある。神の国生ける父の子真我イエスが再臨して地上に神の国を作る
神の子とは?私たちから来た「父の子神の子イエスだけが唯一の神の子
幸福とは?認知を善くすることイエスを信じること
奇跡とは?奇跡は瞑想(ワンネス・禅定)によって起こせる奇跡(しるし)は神の子の証、イエスだけができる
教義の特徴普遍的(教義を信じなくても救われる)ドグマ(教義を信じなければ救われない)

ご覧の通りです。
トマス福音書と、正統派教会・新約聖書とは、真逆です。正反対。本当に180度違います。

なんといっても教えは普遍的。キリスト教のようなドグマは一切なし

グノーシス主義にこそ、イエスの本当の教えがあるんじゃないのと思えてきます。つくづく、そう思います。

グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容結局キリスト教とはなにか?~パウロが作った物語の宗教

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