生まれ変わりと見性と陥穽

北海道はいいところです。
中でも札幌近辺。
北広島、恵庭、千歳。
この辺りはいいですね。

北海道の空には、
「わたあめ」のような、もっこりした雲がかかります。
胆振(いぶり)地方の太平洋の水蒸気を含んだ雲ですね。

この空。
この雲。
そういえば幼少の頃、この空をいつも見ていたんだなあ、と。

この空と雲を見ていると、無性に郷愁感に襲われます。
北海道の空の写真を見ているだけでも、郷愁感が出てきますね。
 

ちなみに、ミャンマーの空も、この北海道の空に似ているんですね。
なので、ミャンマーにすごく惹かれるのかな、なんて思ったり^^;

しかし、やはり「ミャンマー」には惹かれます。
忘れた頃に、ふっと、ミャンマーに惹かれる心がムクムクとわいてきます。

やっぱり私の過去世は、ミャンマー人なのかしら、
ミャンマーのお坊さんだったのかしら、
なんて妄想してみたり^^;
 

以前、30年振りに北海道へ戻った時がありましてね。
ええ、30年近くも故郷に戻っていなかったのですが、
突如、里帰りをしたものです。

北海道へ戻ったときは、
長い間、時間が止まっていたのが、急に昔にトリップして、
子どもの頃を思い出し、忘れたいたいろんなことを思い出したものでした。

歴史を遡っていくといいますか、
時間を巻き戻していく感じがしましたね。

時間。
歴史。
巻き戻し。

長い間、、行っていなかった土地へ行くことは、
まるで前世の記憶を思い出すかのようです。

すっかり忘れていたこと、体感、記憶が、
よみがえってきます。

おそらく前世の記憶を思い出すと、
「ハっ」とすることが多くなるんじゃなかろうか。
 

そうそう、この前は久しぶりに古い友人と会い、
あれやこれやの話しをしましてね。

で、まあ、年月といいますか、半生を振り返るような気分になりましてね。
うーむ。

確かに歳月は経っています。
で、やっぱり年齢を感じてしまいますね^^;

昔に比べて、いろいろと年齢を感じることも出てきています。
体力が落ちたり、体調が悪くなったり、昔なかった不具合が出てきたり。

やっぱり「もう老境に入りつつあるんだ」と、思いますね^^;
ま、当然といえば、当然なんですが^^;

ピンピンコロリではありませんが、
そういうナイスな亡くなり方がいいですね、
と、死を思うことが出てきたりもします。
 

輪廻転生。
私にとって、生まれ変わりは「核(コア)」になっています。
昔に比べて、輪廻転生に対して「別段、まあいいんじゃないの」
という感じになってきていますが、それでも核(コア)にはありますね。

輪廻転生を、すっごく否定的にとらえる人もいます。
私は、こうした向き合い方はよくないと思っています。
また私の向き合い方は、こうしたネガティブな向き合い方ではありません。

もちろん輪廻転生には怖い面もあります。
しかし、そういうネガティブな向き合い方ではないんですね。
真理として存在して、生命は流転していくのが実相であり、
こうしたことが体感的に腑に落ちまくっていたりします。

輪廻転生は事実として存在している。
そういう体感が、幼少の頃からあったりします。
 

感じるに、過去世においても一瞥体験をしていたんだろうなあと。
で、いい気になってしまって、スピリチュアル・エゴにはまったんだろうなあと。
禅で見性をした人に多いタイプです。
たぶん私もそうだった。

しかし、そういう生き方は、必ず業報の作用を受けます。
仮に見性をしてもです。
が、悟り系には、意外とこの視点が欠如しています。
見性をした人の中には、傍若無人になったり、世間を否定したり、
慈悲のかけらすら無くなる人もいます。
残念なことに、こうなりやすい。
非二元(ニンデュアリティ)は、まさにこの有様。

が、それくらい陥穽が多い世界なんです。
この世界は。

中でも、空体験を無意識のうちに観念にして、固定化してしまい、
そこからある種の見解を持つようになりやすい。
これを「空病(くうびょう)」といいます。

「空病(くうびょう)」は、一種の魔境です。
が!空病になったら、もうダメです。
空病は「不治の病」といわれています。
現世では、空病にハマったまま、はいさようなら。
そんな人生になります。

空病に陥ると、全てを幻想という「見解」からみてしまいます。
なので社会問題すら意味が無いとしてしまいます。
確かに森羅万象は変化(へんげ)して無常ですのでね。
しかし、ここに巧妙な見解の落とし穴があるんです。

空病は不治の病です。
空という「見解」に陥っていることが高慢であることに気づかない、
いや気づけないんです。
空病は、空という観念の「無限ループ」に入ってしまった状態なんですね。
なので空病に陥った人には、何を言ってもムダなんです。
聞く耳を持たないからです。
 

見性しても、その後の適切な生き方、歩み方があるんです。
ブッダが説いた八正道は、何故、そこに戒律的なものが入っているのか。
これは見性した者のガイドラインでもあるからなんです。
悟るための手引きだけでなく、見性した人にも欠かせないガイドなんです。

見性したからといって、あるいは大悟したと自称しても、
大酒飲んだり、愛人を作ったり、人を切ったり、冷酷無比な対応をしたり、
信奉者を支配下においたり、世間を否定したり、他人を小馬鹿にしたり、
人心にもとり、道徳心を失うようなことはしてはならんのですよ。

大悟すれば、自ずと整うもんなんですよ。
整っていなければ、まだ途上なんです。

生まれ変わりをしますって。
で、生まれ変わったら、大変苦労します。

だから、慈悲が大切なんですね。
ハートが大切なんです。

といいながらも、時にはウッカリして間違いやら、
トンデモなことをしてしまうこともあります。
でも、方向性は、歩みは、慈悲・ハートに立脚するようにしたほうがいいんですね。
これは本当に、そう思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です