「神は至る所にいる感覚」は慈悲・霊性のこと~鎌田東二著「神道用語の基礎知識」は良書

鎌田東二著「神道用語の基礎知識」は良書

それにしても神道がおもしろいですなあ。
感慨深い。
自分のルーツを、ついに見つけた、という感がします。

で、鎌田東二著「神道用語の基礎知識」が、とてもよく出来ています。
言葉や概念の説明を手ほどきしてくれています。
神道の基本からわかるようになっています。

鎌田氏は、神道の本質を「何も無い」としています。
教祖も、経典も、教団も無い。
何も無い。
あるのは「神道の感覚」であると。
これは言い得て妙です。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が感じた神道の本質

ちなみに、この「神道の感覚」について、ギリシア人のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、
初めて出雲大社に行ったときの言葉を引用して説明しています。

ラフカディオ・ハーンの感慨は「新編 日本の面影」に収録されている
「杵築 (きづき)――日本最古の神社」の中にあります。

ラフカディオ・ハーンは、こう述べています。
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「この大気そのものの中に何かが在る
−−うっすらと霞む山並みや妖しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、
何か神々しいものが感じられる−−
これが神道の感覚というものだろうか。 」
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鎌田氏は、ハーンの感慨に対して、こう述べています。
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「このハーンのいう「神道の感覚」とは、この自然界を構成している
空気、光、水、土、風などの中に神々しいものが存在すると感じ取る感覚。
すなわち自然の中に神を見出す感覚である。」
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ここを読んでいると、「ああ、そのとおりだなあ」と。
そうして「神道とは、こういうものだったんだな」ということが、
言語化された説明を通して腑に落ちます。

自然の中に神々しさを感じる~「となりのトトロ」の世界に通じる

この感覚は「まったくその通り」。
ハーンにしても、鎌田氏にしても、その通り。
自然の中に神々しさを感じる。

子どもの頃、自然の中に神を感じて、
精霊がささやくのを肌で感じていた人は少なくないと思います。

かくいう私も、その一人です。
幼少の頃より、自然の中に、周辺に偉大なる存在(サムシング・グレート)を感じ続けていたものです。
言葉では言い表すことのできない存在。
感覚。

こうした感覚を感じている日本人は少なくないと思います。
だからこそ、宮崎駿さんの「となりのトトロ」が共感されるんだと思うんですね。
「となりのトトロ」は、まさに「神道の感覚」が根底にあるアニメですからね。

神道の感覚を持った人は多い

こうした「神道の感覚」を持っている方は、少なくないと思います。
その感覚に「強い弱い」はあっても、ほとんどの人が持っていると思います。

日本人であるなら、多くの人が、「神道の感覚」を持っていますし、
惹きつけられていくんじゃないかと思います。

日本人でなくても、ラフカディオ・ハーンのようなシャープな感受性を持った人なら、
誰もが感じると思います。

自然界、森羅万象の中に何か偉大なる存在がある。
サムシング・グレート。

そうしてこの感覚こそが「プレゼンス」に進展もしていくようになります。
悟り系でいわれる「いまここ」「気づき」ですね。

「神」はいたるところに存在するという感覚こそが神道の真髄

鎌田氏のこの書は、こうした「神道の感覚」を前提にして、
神道や神社が、いかに観念化、教理化、儀式化していったかをも解き明かしています。

根底に「神道の感覚」がありますので、とてもわかりやすい。
フィット感があります。

著者の鎌田氏は、「おわりに」のところで、こうも述べています。

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そもそも、わが国では、「神道」の語は、最初「仏法」に対置されて用いられた。
『日本書紀』用明天皇の段で、「天皇、信仏法、尊神道」と記されたのが初見である。

その用法から明かなことは、
第一に、「仏法」が信不要という信仰の対象であるのに対して、
「神道」は「尊ぶ」か「軽(あな)ずる」かの対象であったこと。

つまり「神」の存在や「神道」の所在を
信じないなどという者はいなかったということだ。

わが国に、中世のキリスト教神学で最大の問題になった
「神の存在証明」など起こるようがなかった。
なぜなら、「神」はいたるところにいたからだ。

本来、「神」とは信じるとか信じないという
”信仰”のカテゴリーには属すようなものではなかった。
自明の存在であった。

そこに水があれば、「水の神さま」がいた。
日があれば、「日の神さま」がいた。
海にも山にも川にも谷にも、天にも地にも、鳥獣や人の中にも、
いつでもどこでも「神」はいた。

「神」に対しては、ただ敬うか、敬わないかという態度の違いがあった。
信か不信かではなく、敬か不敬かの違いである。
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見事な説明です。
正鵠を射た素晴らしい説明。
まさに、この通り。

仏教の「信か不信か」は後世に創られた「信仰型の仏教」

ただ、一つ、二つ、補足すれば、仏教が「信か不信か」ということに関しては、
それは後世に創られた「信仰型の仏教」のことになります。

本来の仏教(原始仏教)においては、いわゆる「信仰」というものは希薄だったものです。
といいますか、修行が進むに従い、「信じる」という思考活動そのものが
消えていく性質が、原始仏教にはあったりします。

だから、、、原始仏教は、むしろ神道に近い。
スタンスは極めて似ている。
というか、同じ。

「敬か不敬か」ではなく自然の中に神を見出す感じ方の「強い弱い」の違い

また、神道では「敬か不敬か」とありますが、
これもまた微妙に違っているのではないと思います。

用明天皇の言葉に従って説明していますので、そのような表現になったのでしょう。
が、そもそも「神道の感覚」には、「敬も不敬も無く」、
ただ、自然の中に神を見出す、その感じ方が「強い弱い」の違いと言ったほうが
適切ではないかと思います。

そうして、この「強い弱い」の感じ方は、
そのまま真理の「それ」に対する感じ方の違いと重なってきます。
つまり、「『それ』自体がある」という感覚が深いか浅いか。

原始仏教における有り様とは、「それ」への深い浅いの違いがあるように思います。
そうして、この感性は、そのまま神道にも当てはまる。

神道が「教祖も経典も教団も無い」とするのは原始仏教も同じ

奇しくも、神道では、「教祖も、経典も、教団も無い」といいます。
このことは原始仏教でも同じ。

事実、初期の頃は、ブッダは「三宝」を説いていませんでした。
三宝を尊重するようになったのは後のことだったりします。
原始仏教、ことにブッダが悟った頃は、まさに「教祖も、経典も、教団も無い」状態でした。

ちなみに初期の頃は、教理もオリジナルのものはありませんでした。
ジャイナ教やバラモン教で使っていた言葉や概念を借りて、
ブッダは説明していたという事実。

だから、仏教学者の中村元先生は、頭を抱えてしまい
「仏教とは一体何なのだ?」と、その著書で述べていたくらいです。

けれども、こうした有り様は、神道と大変よく似ています。
不立文字の禅にも似ている。

神道の感覚とはハートであり霊性のこと

ちなみに、禅はハートがありません。
欠けています。

けれども、神道にはハートがあります。
いや、ハートそのものと言っていいでしょう。
ハートの有り様が神道。

何か、こう、神道には、原始仏教、アドヴァイタ、真理系に通じるもの、
重なるものがあるように感じられます。

姿勢、態度は、まったく同じといっていいでしょう。
非言語化の世界。
教祖、経典、教団も無い。

神道とは、ハートの有り様なのでしょう。
事実、「神道の感覚」とはハートであり、霊性です。
霊性は、「神道の感覚」が色濃くなるにしたがって強まってもいきます。

神道とは、ハートであり、霊性。
これで決まった。

ハートの覚者フーマンは日本人はハートの民族と言っていた

ハートの覚者・故フーマンは、日本人はハートの民族であるという。
また、ある過去世では日本にいて、神職をしていたという。

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)に頼まれて、日本に来たというフーマン。

神道のことがわかってくるにつれ、フーマンが言っていたことが、
今になって、リアリティをもって腑に落ちる。

「ああ、だから、そうなのか」と。

神道の感覚は、ハートであり霊性です。
この感覚を多くの人は持っています。

だから日本人の場合は、ハートを基盤にし、
ハートを踏まえながら進めていくのがいいんですね。