「地に足を付ける」の意味の真意とはグランディング

「地に足を付ける」の意味の真意とは足・脚に意識を向けること

「地に足を付ける」。この意味は一般的には、浮つくことなく現実にしっかりと向き合い着実に進める様のことをいっています。

これとは正反対の言葉として、「地に足がつかない」「地に足が付いていない」といった言い方もあります。

どちらも慣用句になっていますね。

ところが「地に足を付ける」にしてもそうですが、体感から出てきている言葉だったりします。リアルに足・脚に意識が向き、下半身に意識が向かっている様をいっています。これを「グランディング」ともいいますね。

で、「地に足を付く」ようになると、どこかドシっとした感じが出てくるようになります。まさにグランディング。大地に根付いた状態。

「地に足を付ける」とは文字通りだったりします。「地に足を付ける」=「意識を下半身に向ける」=「グランディング」ということですね。

まさに下半身に意識が向いている状態です。下丹田系の状態です。

「地に足を付ける」と物事が流れて感じられるようになる

「地に足を付ける」とは、本当に言葉の通りで、意識が下半身に向き、下丹田系の有り様になる状態です。グランディング。

ところが体感的に「地に足が付く」ようになると、世界はフローになります。ドシっとしていながら、フローになる。

流れている。流れているように感じられる。

フローを感じると、この世界が常に変化し流れているものの、この世界が愛おしく感じられるようになります。

流れているからこそ愛おしい。大事な世界だなあ。そうして自分も流れている。

この流れ。フロー。そう、この現象を「無常」とも言っています。

下丹田・中丹田・上丹田における無常・無我の感覚

人体においては、頭部、胸部、腹部の3ケ所では、「気」が活発に出入りしています。

で、それぞれを

・上丹田・・・頭部
・中丹田・・・胸部
・下丹田・・・腹部

といっていますね。

で、地に足がつく(グランディングする)と、物質次元では、物質エネルギーがフローであることがわかるようになります。これは下丹田の作用です。

ハート次元では、慈悲が流れている。これは中丹田の作用。

知性次元では、「観る」といった意識が広がってます。上丹田の作用。

こうした感覚や意識の本質は「無常」です。「無我」でもあります。

無常であり無我であるが故に、愛おしくも感じられます。物質次元も大事だなあと。

お金は物質次元の核にあります。大事なツールであり、エネルギー。

お金を大事にすることは何らおかしなことではありません。無碍に扱うのは、むしろよろしくありません。

足の裏にある「湧泉」は大地とくっつく箇所

足の裏には「湧泉(ゆうせん)」というツボがあって、この湧泉から大地の気が出入りしています。

で、この湧泉もまた、いわゆるチャクラみたいなものです。湧泉が活性し始めると、大地にピタっとくっつく感じが出てきます。

で、この現象世界、物質が愛おしく感じられるようになるんですね^^;

脚・足って、実は大事な部位だったりします。大地とは「現象世界」であり「物質世界」だったりします。脚・足は大地に根付くことで、現象世界である「物質世界」を上手に生きていけるようになります。

大地に足がくっついていないと物質次元を否定してしまう

体験的に言えば、足が大地にしっかりとくっついていないと、物質次元を軽んじたり、否定したり、ないがしろにする傾向がでてくると感じています。

困ったことに、こうした傾向と仏教の否定的な説明が、共鳴してしまう場合があります。

たとえば、
・現世は虚しい。つまらないものだ。価値がないものだ。
・お金もモノも要らない。
・清貧でいいんだ。
といった感覚です。

これらはどこか崇高で気高くも映ります。しかしですね、こうした考えの背景に、足が大地にくっついていない場合があったりします。足が大地から切り離されているんですね。

で、こうなると物質次元をいたずらに否定したり、軽んじたりするようになります。

で、こうした状態にあるときに、仏教の教えに触れると共鳴しまくって、仏教を刹那的で現世否定的な宗教と思い込んで、ますます現実を否定し、無視をして、悪い意味での世捨ての様相を呈していくようになります。

実は、このことは案外、知られていません。

地に足が付いていない人は仏教の教えに注意

で、実のところ、2500年前の価値観に丸ごと共鳴したり、そのまんな実行しようとするのは、足が大地から切り離されているからだったりします。

こらが答えです。
これが真実です。

もっといえば、仏教的な清貧さに共鳴するのは、そのほとんどが足が大地から切り離されているからです。ほとんどといっていいほど断言してもいいくらいです。で、こうした落とし穴亥に陥っている仏教者は、日本に仏教が伝来してから1500年の間、結構いたりします。

この陥穽に気づくことは大変重要なことです。重大なことです。

貨幣経済が浸透した物質文明に適応できる有り様が大切

そもそもこれだけ貨幣経済が浸透している現代において、物質を否定したり、お金を軽んじる考えを持ったり、陥ることは大変危険です。

2500年前ならわかります。お金が無くても生きていける時代です。その辺に生えているモノを食べても生きていけます。自給自足も可能。

けれども現代では、自給自足すらできない時代です。現代ではお金がないと生きていけません。一人では生きていけません。

2500年前の感覚は通用しません。というか、もしこうした様を現代の文明社会で貫ことするならもはや危険ですらあります。

現代に適した様がわかるためには「地に足を付ける」こと

現代には現代に適した有り様があります。いたずらに2500年前の価値観や有り様を取り入れるのは、ミャンマーの森林ならまだしも、文明社会においては、時代錯誤もはなはだしくなります。

しかし時代錯誤なことをやってしまう、現代にフレキシブルに対応できないのは、実に、足が大地から切り離されているからです。

で、現代には現代に適した有り様があることを理解できるようになるためには「地に足を付ける」ことが必要だったりします。

この話しは、かなり深いものがあります。

貨幣経済が浸透した物質文明においては、この時代に適応できる有り様や考えが大切です。この視点がありませんと、大変、危ういことになります。

頭は天につながる(天空系)、足は大地につながる(大地系)

頭部は天とつながります。頭頂から天空のエネルギーが流れ込みます。天界の神々や高次元の精神性とつながるチャンネルです。天からのエネルギーの流れを感じやすい人は「天空系」です。

足は大地とつながります。足から大地のエネルギーが流れ込みます。地球のエネルギーや現実世界のエネルギーとつながるチャンネルです。大地からエネルギーを感じやすい人は「大地系」。

天空系と大地系のエネルギー流入路があります。

これが体感的にリアルにわかるまでに、実は長い時間がかかっています。

足・脚の大切さを思います。神々とつながる天空のエネルギーもさることながら、大地の神とつながり、地球とつながり、物質世界を大事にする大地系のエネルギーもまた大事なんですね。

天空系と大地系のエネルギーは共に大事だったりします。と、そんなことを思ったりもします。

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