キリスト教の魅力は愛・祈り・奉仕~しかし見直しが必要

キリスト教の魅力は「愛」と「祈り」と「奉仕」

私はキリスト教の信仰はまったくありません。

んが、キリスト教の魅力は「愛」「祈り」「奉仕」だなあと思っています。

中でも「愛」。
愛はキリスト教の軸にもなっています。

キリスト教が説く愛は、仏教の慈悲と本質は同じです。

昂揚するエネルギーのある高次な思いやりです。

キリスト教では、「愛」を軸にして、「祈り」「奉仕」を重視しています。

で、愛、祈り、奉仕の3つは、お互いに関連しています。

不即不離。

で、非常に大事です。

尊い。

キリスト教の「愛」

ところで「愛」というと、男女の恋愛を連想する人が意外に多いみたいですね。が、それはまったく違います。

キリスト教で言っている「愛」が、どういうものなのかがわからないため、男女の恋愛を連想してしまうんですね。

かくいう私も昔はサッパリわからなかったものです。

仏教の「慈悲」もそうです。サッパリわからなかった。

しかしキリスト教で説く「愛」や仏教で言う「慈悲」がわかると、ストンと腑に落ちます。

キリスト教の「愛」は仏教でいう「慈悲」と同じです。

定義とか、そういう説明もありますが、そういうのは観念的で本質的ではありません。

愛や慈悲の定義をいくら知っていても、その味わいを知らなければ、むしろ害毒になります。

で、この害毒レベルに陥ったままのケースが、結構あります。

言葉の定義における「愛」とか「慈悲」は、別段どうでもいいんですね。

大事なことは「愛」なり「慈悲」を体感することです。これがもっとも大事。重要なことですね。

祈りの本質はあたたかさ

で、「愛」を体感するには「祈り」です。

「祈り」は素晴らしいですね。

「祈り」は、実際に祈りをすると、あたたかく、広がりを感じ、全身は昂揚し、また神の救いとしかいいようがない歓喜と至福をともなったエネルギーを感じるようになります。

祈りをはじめると目を閉じていても視界が明るくなります。光を感じます。

光は愛のエネルギーです。

まさに神の光。
祝福。
恩寵です。

イエスの御心は普遍的

「祈り」は、キリスト教に限らず、神道でも仏教でも本質は同じじゃないかと思います。

祈りによって感じられる「大いなる存在」「光」は、キリスト教の文脈では、イエスの御心になるんでしょうが、普遍的なエネルギーだと思います。

祈りは素晴らしい。
何人かの人達と一緒に祈る集会などでは、そこに神々しい一体感が生じて、なんともいえない素晴らしい感覚になります。

で、こうしたことは実際に体験しないとわかりません。

で、こうした素晴らしい崇高な体験ができる、習得できるのが教会なんでしょうね。

教会は大切な場

この「祈り」を体感できる機会、味わう機会、習得できる機会が、教会での学びという見方もできると思います。祈りを知り、学ぶための施設、それが教会なんでしょうね。

やはり「祈る場」というのは大事です。定期的に祈りを行う「場」には、力が出てきます。愛のエネルギーが充満してくるといいますか。

私は毎日、仏間で祝詞をあげ、祈りをしています。お経を読んでいた時代もありますが、こういうのをもう40年近く続けています。で、こういうのを続けていると、仏間はもう「聖域」になるんですね。

誰かがウチに来て、仏間に入ると、すがすがしい感じを受けたり、神々しい感じを受けるようです。こうした感じは私も毎日感じています。

祈りができる「場」というのは、非常~~~に大事でして、その祈りの場には愛やハートのエネルギーが蓄積されてきます。

教会は、愛のエネルギーに触れていただく機関としても大切な存在だと思います。こんな場所は、そうそうほかにはありませんね。

奉仕の本質も祈りの体感と同じ

それと「奉仕」。
ボランティア。

奉仕もで「愛」を体感する行為になります。

「奉仕」も実践すると、祈りと同じで心が高揚し、広々として、あかるくなってまいります。

で、奉仕の習慣が身についてくると、何気なく人にやさしく接することができるようになります。

で、こういうのが習慣になると、シンプルに気持ちが良く、ハッピーにもなります。

しかも人間関係がよくなったりして、実生活上のメリットも非常~~~に大きいでんですね。

しかし、なかなか奉仕やボランティアができる機会はないんですね。私は自分で工夫をして機会を作って、海岸清掃ボランティアを時々行っています。

奉仕ができる施設はありがたい

祈りや奉仕のできる「施設」があれば、いいなあと思っています。

なので、奉仕ができる場所、社会的にも認められている教会は、その存在価値は大きなものがあると思います。

ボランティアができる機会を求めている人は少ないとは思います。が、一定人数はいると思います。

「奉仕」は、自分の罪をつぐなうための機会にもなります。いわゆる懺悔(ざんげ)とか滅罪(めつざい)とかいいますね。最近では「カルマ落とし」なんていいますが、ちょっと物騒な言い回しです^^;

で、教会は「奉仕」を学び実践できる機会と場所にもなります。奉仕という素晴らしい習慣を身につけることができるのも「教会」かなあと思います。

キリスト教の見直しが必要

私はキリスト教の信仰はありませんが、最初に書いた取りで、「愛-祈り-奉仕」は素晴らしいと感じています。

ただキリスト教も宗教です。率直にいえば「伝統の縛り」があります。教条的であり、言葉的であり、観念に縛られがちです。

なので「愛-祈り-奉仕」が、教え的、頭で解釈して満足するもの、血が通っていない作り事にもなりがちです。

で、作り事になってしまうと、そこには偽善感が出てきて、なんか嫌な感じや不自然さが出てきます。

そういう伝統的なとらえ方ではなく、「愛-祈り-奉仕」を体感で感得し、身につけていくことがもっとも大事になりますね。

これを可能にするのが、おすすめしている瞑想などの修行実践です。
https://www.yurusanga.com/meisouannnai/

実践実習では、教え中心のやり方では決して習得することはできないんですね。なのでキリスト教の信仰では、残念ながら「愛-祈り-奉仕」の体得は難しくなっています。

本質を押さえたアプローチが欠かせないんですね。

またこれらを教える教会のあり方も見直しが必要ですね。

教会の価値といいますか意義を、新しい視点から表現しなおして、現代人に訴えかける必要もあるでしょうね。

新しい提言

「祈り」や「奉仕」がもたらすメンタル効果は半端ありません。

「祈り」がもたらす神々しい昂揚と、ゆるし、救いが渾然一体となったエネルギーを感じることができるようになると、理屈抜きに「祈りって素晴らしいなあ」となります。

祈り、奉仕の素晴らしさ、またその効果、効能を、新しい表現でお伝えしていくことこそ、新しい教会の役割だとも思います。

キリスト教や教会の価値を、新しい角度から見つめ直して、表現を工夫すると、現代人にもヒットすると思います。

お寺と違って日本のキリスト教は迫害と試練の歴史を経てきています。実のところ日本の仏教よりも伸びしろがあるんじゃないかと思います。スピリチュアルとも親和性もありそうですしね。

まとめ

祈りと奉仕は、神の光、神の御心を感じます(このような表現はしっくりきます)。

イエスの御心は普遍的で、キリスト教でない人にとっても、神道でも仏教でも感じられます。表現が違うだけですね。

キリスト教は「祈り」と「奉仕」が素晴らしいですね。

祈りと奉仕を深く洞察していきますと、日本古来から伝えられている諸々とも一致してきます。

キリスト教もそうですが、長い歴史の中で伝えられてきた諸々は非常に強いものがあります。伝統には安定性があり、長年の風雪に耐えてきた強さがあります。

こうした強さは、ポっと出てきたスピリチュアルにはまったくありませんからね。

歴史で培われてきた強さを土台にして、祈りや奉仕の本質を伝えることができるのは、今の時代でも非常に有益であり大事な役目になってくると思います。

で、そのためにも、
・「愛-祈り-奉仕」の本質を体得する
・教条的・言葉的な学び方を見直す
・教会のあり方も見直す

ということが必要じゃないかと思います。

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