禅の悟りは動物化?天狗界

禅は天狗界の道?動物化への道?

禅というのは、霊的な世界から見ても問題があると思いますね。
天狗界にとどまって、思考を遮断した状態です。
しかも慈愛が欠落し、虚無に陥っています。
そういう言葉が大変多い。
いわば「動物化」しているといっていいでしょう。

なので禅で「悟った」とか言う人達の言葉が、
とても虚しく響き、冷たさを感じさせるわけなんです。

禅に対して、このように感じる人も多いと思います。

で、禅に違和感をおぼえる理由は、端的にいって
天狗界という魔人の状態で悟っていることと、動物化していることに対して、
本能的に感じる違和感、嫌悪感でしょう。

煩悩の根(深層意識に渇愛)が残っています。
なので、また再生(生まれ変わり)をします。

わかりやすくいえば、超鈍感になったKY状態ですね。
本当は心の奥にビシバシ反応する煩悩は残ったまま。
でありながら思考と感情を遮断している。
超鈍感なKY状態になっているだけなんです。

ちなみにブッダの方法は、命そのものに溶け込んで、
一体化し(ワンネス)、煩悩が根絶します。
だから再生(生まれ変わり)しません。

しかし禅は一境性(一体化)という心を強めることで、
思考と感情を遮断(麻痺)させ、KY状態を生みだし、
表面的には澄み切るものの、煩悩が残っている状態です。
だから再生(生まれ変わり)をするわけですね。

で、生まれ変わったらさあ大変。
苦しみだらけの人生になります。
で、これが大変厄介。
手の施しようがなくなります。
で、魔人の道を再び歩むようになります。
悲惨です。

だから禅はよくない。
ハートを欠いた、あのやり方、有り様はダメ。
よろしくない。
魔人の道。
天狗界の道。

天狗界の道、天狗道は、苦しみの道であると、
仙道寅吉、宮地水位は言っています。
その通りだと思います。
霊的ステージからみると、禅は天狗の道。
苦しみの境涯にとどまって、思考と感情を遮断する有り様です。

動物は恐怖し怯えている存在

禅は思考停止させるます。
が、煩悩はそのまんまです。
怒っても、何しても、「あるがまま」というスタンスです。
煩悩の根絶は問題にしていません。

しかし、これっておかしいんじゃないかと思うわけですね。
なぜなら結局、「動物」になることと同じだからです。

動物は思考しません。
動物は常に「おびえて」います。

ええ、動物って常におびえているんですね。
怯えていますよ。
 

ウチでは、庭にお米をまいてズズメにエサを与えています。
厳寒のさなか、スズメはエサ探しに必死なわけですね。

スズメは冬に死亡するケースが最も多かったりします。
なのでスズメにとって、冬はサバイバルな時期。
死と直面している季節です。
それで冬は、庭にお米をまいて、スズメのエサにしているんです。

で、庭にスズメが来て、エサをついばんでいくのですが、
ちょっと庭の光景が変わると、寄りつかなくなるんですね。
ええ。

この寒空の中、エサがないにも関わらず。
光景が変わると、スズメの警戒心は高まります。
怯えます。
で、エサを食べに来なくなります。

これは、スズメ(動物)は、食欲、生存欲よりも、
「怯え」「恐怖」のほうが強いことを端的に示していることんですね。

生存の欲求と同じくらいか、それ以上に「怯え」「不安」が強いんです。

結局、動物って「怯え」「恐怖」している存在なんですね。
 

ちなみに人間は、知性の働きで「迷う」存在です。

天人は「喜び」「ポジティブ」で、「楽しむ」存在です。
ガキは「悩み」「ネガティブ」で、「憂うる」存在です。

修羅は「争いを楽しむ」「戦うのが喜び」な存在です。
ちょっとイっちゃていますね^^;
で、サイヤ人は戦闘民族ですので修羅ですね^^;
一応、豆知識。

禅は知性を遮断する動物化と虚無への道

で、禅は知性による判断回路を遮断して、
知性による迷い、分別を断ち切り、澄み切った状態にします。

しかし煩悩の根っこは残ったままです。
残ったまま。
なので、たまに激昂したり、異常な行動を取る禅者もいるわけなんですね。
一休宗純など、この典型でしょう。

で、禅では、悟った後も知性を低く扱います。
知性をどこか無碍に取り扱います。
 

が、これって動物化しているんじゃないの?
禅って動物になることを目指しているんじゃないの?

素朴にそう思います。

人間は知性の働きで「迷える」存在です。
その知性の回路を遮断するのが禅。

しかも天狗界にとどまっています。
慈愛も遮断。
これは「虚無」です。
動物化しています。

ブッダは知性とハートを重視していた

ちなみにブッダは、知性を重視していました。
自分が悟ったことを言語化したり、整理することを推奨していたんですね。
これを「アビダルマ」と言っています。
アビダルマはブッダが勧めていたことなんですね。

で、当時は智慧第一と言われたサーリープッタが中心となって、
悟ったことの言語化、分析、種類分けも行ったんです。

禅のように、知性を否定したり低く扱うことは、
ブッダは推奨していなかったわけです。

もっとも、ブッダが推奨した知性の働きは、
通常の知性のそれと違うことは言うまでもありません。

それとブッダは慈悲を大事にしています。
てか、慈悲を推奨し、慈悲の中から悟るアプローチです。

この点も禅とは異なります。

ブッダの方法は、人としてのベース(境地)が天人・梵天です。
禅とは真逆。

ブッダが説く道と禅との違い

ここで整理してみましょう。

ブッダの道
・境涯(ベース)は、天界、梵天界
・命に溶け込み、煩悩が根絶する。
・思考に巻き込まれないものの、知性を尊重
・慈悲を重視


・境涯(ベース)は、天狗界、動物界
・一境性(一体化)の心で思考と感情を麻痺させるものの、煩悩が残っている。
・思考を遮断し、知性を卑下する
・慈悲も遮断し、慈悲も卑下する

ご覧の通りです。
禅は最悪な覚醒の道であって、実は「魔道」だったりします。
言い換えると、天狗界の人、魔界にいる人向けの掟破りな道だったりします。

動物化して悟る道はインドにもあった

で、禅のような「動物化」する歩みは、
ブッダが在世していたインド当時にもあります。

それは、牛や馬、ブタの真似をする修行です。
これは、動物の真似をして悟るやり方と言われています。

が、考えるまでもなく、おかしな修行なわけですね。
え?と思うやり方なわけです。

が、これがもし、動物のように思考・判断をしない存在を
目指していたならば腑に落ちます。
つまり禅と同じアプローチですね。
知性の遮断を目指す。

てか、おそらく、これを目指していたんだと思います。
動物のように思考や判断をしないようにする。
そのために、徹底して動物を真似る修行をした。
そんなところでしょう。

ちなみにブッダは、動物の真似をする修行をしている者は、
死後、地獄、ガキ、畜生の境涯に転生するといっています。

日本霊界でいえば、妖魔、天狗、動物といった境涯ですね。
苦しみの世界です。

ブッダが示した悟りの道は天人・梵天経由

で、ブッダが示した道は天人経由です。
善を成して、エネルギーを高め、陽気になって、天晴れになって、そうして悟る。
天人のようなメンタリティになりながら悟る歩みです。

だからベースが天人なわけです。
朗らかなわけですね。
慈悲、慈愛があるわけですね。
モラルもあります。
知性もあります。

私はブッダが示された天人経由の歩みのほうが
いいと思っています。

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