久しぶりに瞑想会に参加~瞑想会参加者の質は大切

久しぶりに瞑想会に参加

少し前のことですが、久しぶりに、ある瞑想会に参加しましてね。

最近では、誰かの瞑想会に参加することはまずないんですね。

が、その瞑想会には参加したくなり、5~6年振りに、自分で主催する以外の瞑想会に参加したものでした。

その瞑想会がどういうものかは伏せておきます。知る人ぞ知る瞑想会であり、瞑想指導者です。

その指導者は優れた方で、神々しい光を感じさせるのがあるんですね。

参加しているだけで、パワーを感じるといいますか、清々しいヒーリング感覚になれる、素晴らしいところがあったりします。

参加者に難のある瞑想会だった

ところが、一つだけ問題といいますか、課題がありましてね。

それは、参加者に難のある瞑想会だったということなんですね。

なんだか批判めいた言い方になりますが、とても学びになったため、備忘記録としても、あえて書きしたためようと思います。

その瞑想会の指導者は優れているんですが、なんと参加している方々のすべてが、瞑想の基本も知らない方々ばかりだったんですね。

中には瞑想が目的でなく、「人よりも優れた能力を開発するのが目的」であるかのような方もいました。

あるいは、「なんかよくわからないけれども参加してみた」という方。

こういった方々が集まっていましてね。

瞑想指導家の真価は理解されない

で、ちょっともったいないといいますか、残念な気持ちになったものです。

その瞑想指導者の本当の価値がわかっていないといいますか、理解されていない様子なんですね。

そもそも、その瞑想指導者は、ほとんど知られていない方です。その上、まったくといっていいほど、その本当のところも理解されていません。

ある意味、孤高の方。

しかし、この界隈、本当にスゴイ人は、何故か理解もされず、人知れず地道に活動している方がわりといらっしゃします。

その瞑想指導家も、その一人。

価値が理解されれていない。
理解されがたい。

なぜなら、精妙な領域を感じることができる人が少ないため、理解されないんだと思います。

肩書き・格好があれば理解・評価されるが

人は、多くが精妙な領域を感じられませんので、表面的な言葉や見た目で判断してしまいます。

これは瞑想の世界でも同じです。瞑想の界隈では、

  • 肩書きや資格がある
  • 僧侶や出家者、ヨーギーといったわかりやすい格好をしている
  • 本を出している
  • 指導者っぽい出で立ちをしている
  • HPもキャッチーで、人を惹きつける言語化をしている
  • キラキラした流行&わかりやすい言葉を使っている

こうした演出がありますと、わりと多くの方が集まったりして賑わうようになります。要するに、わかりやすい「表面的な部分」で、人は判断し、支持もするってことなんですね。

ところが、その瞑想指導家は、こうしたことがありません。

言葉も上手とはいえません。
どっちかといえば不器用。

なので、ますます理解されがたくなる。その真価も理解さにくくなる。

結果的に、孤高となる。

しかし、この界隈におけるホンモノとは、こういうものかもしれません。

瞑想会参加者の質は大切

で、瞑想会に参加して感じたことは、やはり参加する方々の質は大事ということ。この瞑想会は、

  • 瞑想のことをまったくといっていいほど知らない
  • 興味関心もズレている
  • 変な欲望のある人
  • クセが強く、面倒な性格の人

こうした面々が参加されていました。

中でも、能力開発に興味が強くあったり、クセのある性格の人が参加していると、もう普通に話しもできなくなるんですね。

こういう人に絡まれるだけで、嫌な感じにもなりますし、警戒もしてしまいます。

そうなると、深い話しや質問はできなくなってしまいます。

テーラワーダ仏教瞑想会は参加者の質がよい傾向

思い返せば、テーラワーダ仏教の瞑想会には、おかしな人はほとんどいなかったんですね。

もっとも教えに凝り固まり、原理主義に陥っている方の割合は多かった印象です。

しかし、人間的に「おかしい」と感じさせる方は少なかったですね。

ところがスピリチュアル系やノンジャンル系の瞑想会になると、変わった性格の人が参加することがあるんだなあ、と。

特に、能力開発を目的としている方には、???な人が多い感じです。

瞑想会に参加する方々の人間性とコミュニケーション能力は大切

この瞑想会に参加して、つくづく思ったのが「参加する方のレベル(人間性)は大切だなあ」ということ。

人間性に疑問のある方が、一人でも参加すると、スムースでなくなります。

その反面、良質な瞑想会になり得る要素としては、

・瞑想ができなくてもいい
・瞑想がよくわからなくてもいい
・参加者同士で、自然なコミュニケーションが取れればOK

というのがあればOKであることが浮き上がってきます。で、テーラワーダ系の瞑想会が、暗黙のうちに、これらを実現していたことに気がつくわけです。

けれども、人間性に問題のある方や奇矯な振る舞いをする方が、一人いるだけでも台無しになってしまう。

それを痛感したのが、この瞑想会だったものです。

瞑想会は参加者のカラーが大切

それにしても、こくいうことは、実際に参加してわかること。

いえ、テーラワーダ仏教系の瞑想会では起き得なかったことですね。

よくよく考えてみると、テーラワーダ仏教系の瞑想会は、参加する方自身が、

・仏教を学んでいる
・戒律やモラルを意識している
・意識が高い

こういう方が大半以上で、参加者の質がよかったんですね。

そういう質のよい参加者が集まりやすいのが、テーラワーダ仏教系の瞑想会だったことがわかった次第。

で、参加者に難があると、他の方におすすめすることはできなくなってしまいます。

そんな、ちょっとヤバめの人が参加している瞑想会をおすすめすることはできなくなります。

で、参加する方の人間性が、一人でもイマイチだと、その瞑想会は台無しになってしまう。

瞑想指導者は、このことに気がつきにくいのですが、参加することで初めて明瞭に浮き上がる課題であることに気づいた次第。大変な学びになったものでした。

瞑想会を台無しにしない配慮は必要

参加者の質(人間性)は大切ですね。今回学んだことは、

  • 暗い雰囲気や印象の方は、なるべく避ける
  • 明るい雰囲気をモットーとする
  • 普通にコミュニケーションが取れる関係性
  • 指導者を崇拝したり、依存したり、グルイズムにならない(そういう傾向のある方は参加を控えていただく)
  • 瞑想ができなかったり、わからなくても、これらができる人であればOK

これらを一言でいえば、ふつーの感じの方々のみの参加にするってことなんですね。

言い換えると、ほっこりとした、のんびりした雰囲気が空気が大切ってことなんですね。

で、瞑想がわからない、できなくてもいいんです。

大事なことは空気感。
それと普通にコミュニケーションが取れること。

いくら瞑想に熱心であっても、これらと違えるようでは、問題になるということ。

それがわかった。
それを学ばせていただいた。気づかせていただいたと思います。

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