瞑想に必要な3つのステップ

どうも最近の読者さんの傾向は、「いまここ」系、「マインドフルネス」系、「神さま」系の3つが混在している方のような感じも^^; 「神さま」好きで「いまここ」系の瞑想にも興味がある方が多そう。

そこで今日は、思い切って公開しましょう。
ぜひ今後のお役に立ててみてください。
瞑想のお話しです。

サマディ(禅定)は不要なのか?

10年くらい前から、「禅定(サマディ)が危険である」とか、「集中系の瞑想はよくない」といったことが言われていますが、これは間違いですね。

発信者の多くはサティ主義の方が多いように思います。

そもそもサマディは必要です。
お釈迦さまが言われていますからね。

が、「サマディだなんて、それは原理主義じゃろ?」なんていう方がいます。

あるいは、禅で言われるように「『ただある』であればいい。サマディとかは不要」とか言われる向きもあります。

はてまた「乾観者」のアプローチから、サマディが否定されたり。

カーラマ経の我田引水で否定する風潮

禅定(サマディ)が否定される向きもありますが、原理主義云々でサマディを否定する場合に、カーラマ経を引用して否定しているケースもあります。

「伝統だから、正しいと言われているからといって鵜呑みにしなさんな、自分で確かめなさい」ということですね。

けれども我田引水し過ぎです。

やはり伝統で伝承されているには理由があります。自らの派や主義主張のために、伝統をねじ曲げることはお止めになったほうがいいと思いますね。それはある種の罪作りにもなります。

禅でいう「ただある」は、本当にそれを最初から貫くことができればいいですけどね。しかし往々にしてミッチャー(邪)に陥って、虚無になってしまっているケースが多いかもしれません。

乾観者に関しては、アドヴァイタの智慧の道と仏教のアプローチとを混同してしまっているか、乾観者の道にも禅定があることを忘れていらっしゃるかでしょうかね。

やはり禅定は必要

で、やっぱり、サマディ、禅定は必要です。

理屈の上では「サマディはなくてもいい道もある」ということなんですね。で、才能資質が優れた人が、智慧の道だけでもOKということだったりします。これが「乾観者」です。

智慧が生まれながらに優れた一部人は、禅定が無くても悟る可能性があることを、乾観者といっていますが、これはある意味、特別です。特別な道をスタンダードにするのは、果たして妥当なのかどうか。ここは履き違えてはなりませんね。

王道は「禅定」作るアプローチなんです。
サマディはできたほうがいいですね。
禅定でなくても「近行定」は不可欠です。

サティでも集中力は必要になる

結局、いわゆる「気づきの瞑想」であっても、集中力は必要です。
これがありませんと、ヴィパッサナ瞑想の本領発揮にならないからですね。
定力がありませんと、ゆるい気づきのまま止まってしまいます。

で、マインドフルネス系の瞑想、気づきの瞑想では、
3ステップが、まず基本になるんじゃないかと思います。

まず自分にあった瞑想を選び行う

まず、どういった瞑想の仕方でもいいので、自分にあった瞑想をします。
マインドフルネス系ですね。
もしもマインドフルネス系がピンと来なければ、他の瞑想の仕方でもいいでしょう。

イメージやヴィジョンを描くやり方、マントラを使うやり方も大丈夫です。日本の密教系の月輪や阿字を使ったようなイメージ瞑想もいいでしょう。これらは禅定に至ることができます。いたずらに否定する必要はありません。

で、結局、たとえば、テーラワーダ系、マインドフルネス系、坐禅系、あるいは、エックハルト・トールのやり方、レナード・ジェイコブソンのやり方など、自分に合うやり方を選んで、瞑想(坐禅)をするようにします。

1.瞑想しているスタンスを知る

で、最初の課題は、瞑想をどの意識、どの位置から行うのか、誰が瞑想をしているのか、といったスタンスを知るのが大切。

これが第一段階。

これがどういう意味なのか、ピンと来ない方もいるかもしれません。
残念ながら、これは体感しませんと言ってる意味すらわからないかもしれません。

要するに「サンマー(正)」状態を体感することになります。
瞑想をしている視点・スタンス・立ち位置のことです。

別の言い方をしますと、慈悲が生じるようになるともいえます。
というのも、慈悲が生じると、そこがマインドから離れた視点・立ち位置になるからです。

慈悲と戒の感覚で善悪がわかるようになる

そうして、慈悲が生じれば、自動的に「善悪」がわかるようになります。
慈悲の感覚と、善悪の違いが分かる感覚とは、コインの裏と表の関係です。

これらの感覚は、「戒」とも関連しています。
瞑想の視点・スタンス・立ち位置がわかることは、「戒」の基本を満たす段階ともいえます。

ただし「戒」といっても、文言通りのレベルではありません。
その本質を体感し身に付けようとしていくことになります。
最初のステップになります。

「戒」の本質ができれば、善悪(邪)がわかり、慈悲がわかり、中庸もわかるようになります。すべて連動しています。

といいますか、同じ事を切り口を変えて言っていることだったりします。

で、ここが出来ていませんと、瞑想が「ミッチャー(邪)」になってしまう懸念があります。

ですが、この意味がわかりませんと、「ミッチャー(邪)」がどういう状態なのかもわからないかもしれません。もしかすると、今、ここで説明していることが、サッパリわからないかもしれません。

最初は善悪がわかる感覚が必要

なので、最初の段階は、「善悪がわかる」という嗅覚を培うことが必要になってきます。
慈悲が生じる。
「戒」の基盤ができる。
中庸、本当のバランスがわかる。
全部、同じことをいっています。
同じところから出ています。

とはいっても、これらは、また別の言い方をしますと「当たり前のこと」だったりします。ごく自然に生きている人は、みんな「なんとなく」感じていることだったりします。
「ふつー」のことだったりします。

しかし、この「当たり前のこと」がわからなくなってしまているケースが多いように感じます。

なので、経典の文言に頼ったり、本を読んで知識だけを多くして、ロジカルに善悪、正誤を判断しようとしてしまうのでしょう。

もちろん、最初は、こうしたステップを経るのでしょうが、本能的に善悪がわかるようにしませんと、おそらく「ミッチャー(邪)」なのか「サンマー(正)」なのかの本能的分別は出てこないかもしれません。

ネガティブさ過緊張は善悪の感覚を鈍らせる

で、このとき、ネガティブ志向、過緊張の傾向がありますと、なかなかわかりにくくなります。

なので、「ふつー(普通ではなく「ふつー」)」になれるように、日々の生活を適度に行い、適度に楽しみ、適度に普通な生活を過ごすのがおすすめです。

スピや宗教に夢中になりやすい人なら、お洒落したり、ショッピングしたり、ごくごく普通な生活を、適度に行うことがいいかもしれません。

反対に、スピや宗教にあまり関心のない人は、温かい感じのする瞑想本やスピ本などを読んで、スピリチュアル性を深め、見識を高めていくようにします。

こうして心身のバランスの回復をまず図っていきます。
バランスが大事。
で、バランスのニュアンスをつかむことが大事。

案外、「普通」にお洒落したり、買い物に行ったり、友達とおしゃべりして生活を楽しんでいる方のほうが、このバランス感覚をつかみやすかったりします。

ヨーガ、ボディワークもおすすめ

あと、ヨガとかのボディワークもおすすめです。
てか、できればやったほうがいい。
ヨガをやっていると、身体意識も開きやすくなり、気づきも早く開いていくようになります。

ただし、オタッキーなスピリチュアルにはならないこと。
スピやっているから特別だ、みたいなのは一番マズい。
ふつーに。
ふつーに。
当たり前に。

そういうバランスのある生活を続けていると、瞑想するスタンスがわかりやすくなります。それは当たり前のことなのですが、その当たり前のところに気がつくことが大事だったりします。

そうしていきますと、「ミッチャー(邪)」と「サンマー(正)」がわかるようになりますし、七覚支の択法覚支の意味が「サンマー(正)」であることにも気づくようになると思います。

2.日々の生活の中で気づきをキープしていく

次に、このスタンスのまま、日々、気づきをキープしていく。
深めていく。
これが第二段階。

で、サマディの瞑想もしていくようにします。
サンマー・サマディ(正定)です。

「サマディは危険だ」とか、「サマディの練習をすると執着が強くなる」とか言われる向きもありますが、それは「ミッチャー・サマディ(邪定)」になっているからです。

「サンマーサマディ(正定)」なら、問題は起きません。

とはいっても、サンマー・サマディの途上で、不具合が起きる場合もあります。が、それは浄化のプロセスですね。で、こればっかりはやむを得ないと思います。浄化のプロセスは、大なり小なり起きます。

けれども、「ミッチャー・サマディ(邪定)」は危険ですね。これを繰り返していれば、自我は強くなりますし、おかしくなっていきます。
サマディの練習をしておかしくなるのは、「ミッチャー・サマディ(邪定)」だからです。

ですので、最初のステップにあげた「善悪」をかぎわける嗅覚が大切なんですね。

サマディの力がサティを助ける

で、やはり、サマディは必要です。
「いまここ」に強く臨在するためには、サマディの吸収し引っ張る力が必要だからです。

これがありませんと、「気づき」は分散・拡大したままで、なんとなく「気づき」があっても、感情の処理がうまくできなくなります。

サマディや定力がありませんと、心理学的な手法を使って、思索や思考を巡らして、心を解決するといった方便的な手法でしか対応できなくなります。

心理学的な手法そのものは、有益なのですが、悟りには至る方法とは性質が異なります。心理学的なアプローチは、マインドの範疇になりますので、新たな迷いとか悩みを生み出すようになります。
思考を止めるアプローチが欠けているんですね。
といいますか、思考が止まるプロセスとは正反対だったりします。

思考は、修行上においては、控えていったほうがいいでしょう。
ある段階を超えると、思考に巻き込まれなくなり、思考を完全に道具として使えるようになれば別です。
通常は、思考に巻き込まれ、それで煩悶を生み出す仕組みがありますので、思考はハマりまくることを避けるのが、修道上ではおすすめです。

でありませんと、ある種の観念や思考にとらわれたままのことが起きてしまいます。
人によっては、自我が強くなってしまうかもしれません。
「わたくしが絶対に正しい」といった傲慢になってしまうことも。
こうしたものは、気づいて、乗り越えていく必要があります。

結局、感情を分解・溶解することが起きませんので、本当の解決には至っていないのすね。

もちろん、まったく無益ということではありません。益になるところもありますが、ヴィパサナ瞑想の本領発揮となる効果には、至ることができません。

やはりサマディ(禅定)は必要になってきます。
サマディの手前の近行定は必須です。
そうして、サマディ的な力が強くなってきますと、次の段階です。

3.カニカサマディ(瞬間定)

やがて対象物と一体化するといった感じが生じてきて、瞬間定(カニカ・サマディ)が現れます。
これが第三段階。

この段階になると、感情(煩悩)の分解・溶解・消滅というのを体感しやすくなると思います。
これは、清浄道論の壊滅智に相当するのかもしれません。
観察対象が分解し溶けていくことがわかるようになるからです。

これがわかるためには、集中力(定力)が必要です。
なので、ウ・ジョーティカ氏は、禅定の練習が必要なことを述べているのだと思います。
こうしたことは、実際に体験してみればわかることだと思います。

瞬間定(カニカサマディ)はいわゆる集中とは異なる

瞬間定(カニカサマディ)といっても、いわゆる「集中」とは違う集中が起きます。
集中力といっても、言葉で説明するのが難しいのですが、近行定といっていいかもしれません。

自然に、ピタっと対象物にはりつく感じがあって、そのときは、ほとんど思考も生じないで、対象物と一体となります。

これを応用すると、宇宙性の「それ」と一体化しながら、嫌なこと、昔の記憶、エネルギー意識を体感していると、これらの感情が分解しはじめて消えていくようになるのではないかと思います。

もしかすると、これが煩悩の断滅ということにつながっていくのであろうか、という感触が出てきます。

これを一度でも体験すると、瞑想の真髄に触れたかのような感じがわいてきて、これをそのまま深めていけばいいのではないかという感じが出てきます。

気づき(プレゼンス)・サマディ(ビーイング)・ハート(慈悲)

結局、気づき(プレゼンス)と、サマディ(ビーイング)、そして慈悲(ハート)の3つを、試行錯誤していく中で、気づき、見つけ出していったものになりますし、本当は、もっと細かいこともありますが、

この3つは、どういうアプローチであっても欠かせません。どれかが欠けますと、おそらく、進んでいかなくなるんじゃないかと思います。

中でも、ハート(慈悲)が欠けていますと、禅のように冷たく、独特の皮肉屋になってしまいます。また温かみがなく、知性ばっかりシャープな嫌味な人間になってしまいます。

で、最終的には、「ただある」というのが開けてくるのかもしれませんが、その下地作りは、必要なんじゃないかと思いますね。機根といいますか、素養といいますか。
 

そして、これらはエックハルト・トール、レナード・ジェイコブソン、ウ・ジョーティカ氏の方法が参考になっています。
こちらがバイブルです。

この3つが、オススメです。
レナードのDVDは、質疑応答のところが白眉です。
「いまここ」のことがわかりやすくなっています。

で、極論しますと、これら以外は、不要といっていいくらいです。
あと、これらを足がかりに、サマディを実習していきます。

こうしたお手本になる方のやり方をきちんと理解し、吸収していくのが大事じゃないかと思います。

いろんなやり方がある

以上は、私の見解です。
戯れ言かもしれません^^;

で、こうした説明の仕方は、伝統的な世界にはないと思います。中には、真っ向から衝突する説明もあるでしょう。

下手すりゃ批判やバッシングを受けるかもしれません。

ですので一つの見解として受け止めていただきたいと思いますね。

で、いろんなやり方があると思うのですが、大概は「ワタクシのところが最高、正しい」としているところが多い印象ですね。ドグマと化している。

わたくしは、どこかの流派を絶対視していませんし、いろんな方法を試しながらやっている求道者(って、あんまり使いたくないですけど)ですからね。

感情の溶解が浄化

けれども、「いまここ」にいることで、感情(煩悩)の分解、溶解が起きるということは、すごく大事なことだと思います。

で、これは言葉を変えれば「浄化」になります。

ところが、この「浄化」ですら、テーラワーダでは、明確に言っているところは少なかったりします。
ゴエンカ氏のところくらいですかね。

レナード、エックハルト・トールなどのアドヴァイタでは当たり前になっていますけどね。

しかし、「心を浄めるのが仏教」という言い方もされています。この「心を浄める」は言葉通りではなく、複層的に意味も深くなっています。おそらく「心を浄める」ということと、「浄化」はは関係していると思います。

「心を浄める」というのは、単に、意志を使って、道徳的に、品行方正にというのではなく、瞑想的なアプローチで、煩悩(感情)そのものが溶かされていくことと関係があるんじゃないかと思います。

感情や思考に巻き込まれぱなっしでは進めない

ところで、こうしたことを知らない方々は、感情に完全に巻き込まれて生活をしています。
また、思考にも完全に巻き込まれています。

けれども、その「巻き込まれている」「とらわれている」という実感、自覚が無かったりします。

なので、ここにまず気づいて、自覚することが大切です。
が、人によっては、その感情なりが塊になっていて、一種の業(ごう)のようになっています。普段から、この状態になっている方もいます。

こうなりますと、常の状態がマズイということに気がつきません。ですので、なかなか盲点を打ち破ることができなかったりします。

驚くことに、その人にとっては「自然体」と思っている状態そのものが、強いミッチャー(邪)だったりします。

ですので、まず、ここに気づきませんと、なかなか瞑想も進まなくなってしまいます。

自分が「牢獄」にいることに、まず気づくこと。
思考と感情に巻き込まれ、振り回されていることに気づくこと。
自分と思っているものが、この肉体に閉じ込められた小さな存在であることを実感できること。

これらに気づけませんと、最初の「ミッチャー」と「サンマー」の違いがわかるためのステップすら進めなくなるかもしれません。

また、進まなくなりますと焦ってしまって、マインド主体のインスタント式な方法とか、安易な方法でOKであるかのような甘い言葉に惑わされてしまうことも起きるかもしれません。

「それ」がわかることが大切

以上の話しは、理屈の上では、頭では、「なるほど」と理解できると思いますが、本当にわかるまでには時間がかかったり、それ相応の修行も必要になるのではないかと思います。

最近は、「何もしない」といったやり方が推奨されています。「あなたは、そのままでいいんです」といった言い方ですね。

しかし、これは、いわゆる「それ」がわかった人向けのやり方だったりします。「それ」が「それ」であることがわかならい段階では、修行を重ねて求める必要があると思います。

これを継続していく中で、何かをつかむことが往々にして起きているようにも思います。

もっとも「押してだめなら引いてみる」のたとえの通り、熱心に修行しても、何もわからないようであるならば、「何もしない」「あるがまま」一本に路線変更するのもアリかもしれません。
 

思いますに、第一弾階の「それ」に気づくことが、一番、大きなハードルとなっていたりします。
瞑想の主体に気づき、それを深めていく段階です。
名色分離智というものです。
ここをどうやって突破するのか。
ここが最大の関門なのではないかと思います。

ちなみに名色分離智、縁摂受智、思惟智、生滅智といった「智慧」は、知的な知性ではありません。
現象をとらえたり認識していく知性が智慧です。
ここを勘違いしますと、思考を正当化しかねなくなりますね。

信(サッダー):浄らかさがもっとも大切

と、まあ、いろいろと書いてしまいましたが、あんまり、こういうことを言うのは、はばかりますね^^;
まだまだ途上だからです。

また、これが絶対に正しい、なんていう気は、さらさらありませんね。
いろんなアプローチがあると思います。

それに、いい気になって、あんまり言いますとね、大概、ボロが出たりして、恥をかくことがあります。
静かにしているほうがいいんです。

ですけど、ここで書いたことは、もしかすると初めて知ることばかりかもしれません。
通常のマインドフルネスとか、瞑想では、聞かないことかもしれません。
読者の多くが、この方面に興味がありそうですので、思い切って書いてみました。

で、くどいようですが、一番最初の段階がもっとも大切だと思います。
第一段階を一言でいえば「素直」といえるかもしれません。
いろんな意味で、素直になれること。

仏教用語でいえば「信(サッダー)」というものですね。
これは「信じる」の意味ではなく、「浄らか」の意味だったりします。
子どものように、素直で澄んだ心になること。
これがもっとも大切な基盤となるんじゃないかと思います。

約8000文字。
おしまい。