マインドフルネス瞑想のやり方~3つのステップ

マインドフルネス瞑想のやり方

さて今日は瞑想のやり方のお話しです。
マインドフルネス系ですね。

マインドフルネス瞑想は、優れたテキストも出版されています。そちらを参照しながら独習していくこともできます。しかしながら、そういった書籍には載っていない大事なポイントもありますね。

で、マインドフルネス系の瞑想、気づきの瞑想では、3ステップ(3つのポイント)が、大事になるんじゃないかと思います。

そんなことを、今日はしたためてみたいと思います。

まず自分にあった瞑想を選び行う

まず、どういった瞑想の仕方でもいいので、自分にあった瞑想を選びます。ここでは「マインドフルネス」系をおすすめして話しを進めていきます。もしもマインドフルネス系がピンと来なければ、他の瞑想の仕方でもいいでしょう。

イメージやヴィジョンを描くやり方、マントラ(真言)を使うやり方もあります。イメージ系には密教の月輪や阿字を使ったようなイメージ瞑想もあります。空海が実習したマントラ(真言)を繰り返して行う求問持法というのもありますね。これらで禅定に至ることができます。マインドフルネス以外でも、いたずらに否定する必要はありません。

結局、テーラワーダ系、マインドフルネス系、坐禅系、あるいは、エックハルト・トールのやり方、レナード・ジェイコブソンのやり方など、自分に合うやり方を選んで、瞑想(坐禅)をするようにします。

1.瞑想しているスタンスを知る

で、最初の課題は、瞑想をどの意識、どの位置から行うのか、誰が瞑想をしているのか、といったスタンスを知るのが大切です。

これが第一段階。

これがどういう意味なのか、ピンと来ない方もいるかもしれません。残念ながら、これは体感しませんと言ってる意味すらわからないかもしれません。

要するに「サンマー(正)」状態を体感することになります。瞑想をしている視点・スタンス・立ち位置のことです。

別の言い方をしますと、慈悲が生じるポイントともいえます。というのも、慈悲が生じると、そこがマインドから離れた視点・立ち位置になるからです。

慈悲と戒の感覚で善悪がわかるようになる

そうして、慈悲が生じれば、自動的に「善悪」がわかるようになります。慈悲の感覚と、善悪の違いが分かる感覚とは、コインの裏と表の関係です。

これらの感覚は「戒」とも関連しています。瞑想の視点・スタンス・立ち位置がわかることは、「戒」の基本を満たすともいえます。

ただし「戒」といっても、文言通りのレベルではありません。その本質を体感し身に付けようとしていくことになります。最初のステップになります。

「戒」の本質ができれば、善悪(邪)がわかり、慈悲がわかり、中庸もわかるようになります。すべて連動しています。

といいますか、同じ事を切り口を変えて言っていることだったりします。で、ここが出来ていませんと、瞑想が「ミッチャー(邪)」になってしまう懸念があります。

この意味がわかりませんと、「ミッチャー(邪)」がどういう状態なのかもわからないかもしれません。もしかすると、今、ここで説明していることが、サッパリわからないかもしれません。

最初は善悪がわかる感覚が必要

最初の段階は「善悪がわかる」という嗅覚を培うことが必要になってきます。
慈悲が生じる。
「戒」の基盤ができる。
中庸本当のバランスがわかる。
全部、同じことをいっています。
同じところから出ています。

とはいっても、これらは別の言い方をしますと「当たり前のこと」だったりします。ごく自然に生きている人は、みんな「なんとなく」感じていることだったりします。「ふつー」のことだったりします。

しかし、この「当たり前のこと」がわからなくなってしまているケースが多いように感じます。なので経典の文言に頼ったり、本を読んで知識だけを多くして、ロジカルに善悪、正誤を判断しようとしてしまうのでしょう。

もちろん、最初は、こうしたステップを経るのでしょうが、本能的に善悪がわかるようにしませんと、おそらく「ミッチャー(邪)」なのか「サンマー(正)」なのかの本能的分別は出てこないかもしれません。

ネガティブさ過緊張は善悪の感覚を鈍らせる

で、このとき、ネガティブ志向、過緊張の傾向がありますと、なかなかわかりにくくなります。

なので、「ふつー(普通ではなく「ふつー」)」になれるように、日々の生活を適度に行い、適度に楽しみ、適度に普通な生活を過ごすのがおすすめです。

スピや宗教に夢中になりやすい人なら、お洒落したり、ショッピングしたり、ごくごく普通な生活を、適度に行うことがいいかもしれません。

反対に、スピや宗教にあまり関心のない人は、温かい感じのする瞑想本やスピ本などを読んで、スピリチュアル性を深め、見識を高めていくようにします。

こうして心身のバランスの回復をまず図っていきます。
バランスが大事。
で、バランスのニュアンスをつかむことが大事。

案外、「普通」にお洒落したり、買い物に行ったり、友達とおしゃべりして生活を楽しんでいる方のほうが、このバランス感覚をつかみやすかったりします。

ヨーガ、ボディワークもおすすめ

あと、ヨガとかのボディワークもおすすめです。てか、できればやったほうがいいですね。ヨガをやっていると、身体意識も開きやすくなり、気づきも早く開いていくようになります。

ただし、オタッキーなスピリチュアルにならないこと。「スピやっているから特別だ」みたいなのは一番マズい。
ふつーに。
ふつーに。
当たり前に。

そういうバランスのある生活を続けていると、瞑想するスタンスがわかりやすくなります。それは当たり前のことなのですが、その当たり前のところに気がつくことが大事だったりします。

そうしていきますと、「ミッチャー(邪)」と「サンマー(正)」がわかるようになりますし、七覚支の択法覚支の意味が「サンマー(正)」であることにも気づくようになると思います。

2.日々の生活の中で気づきをキープしていく

次に、このスタンスのまま、日々、気づきをキープしていく。
深めていく。
これが第二段階。
もっとも「キープ」というのは、一つの表現ですね。

で、サマディ系(禅定)の瞑想もしていくようにします。
サンマー・サマディ(正定)です。

「サマディは危険だ」とか、「サマディの練習をすると執着が強くなる」とか言われる向きもありますが、それは「ミッチャー・サマディ(邪定)」になる場合です。

「サンマーサマディ(正定)」なら、問題は起きません。とはいっても、サマディー系は精妙ですので、独習は控えたほうがいいかもしれません。

またサンマー・サマディの途上で、不具合が起きる場合もあります。が、それは浄化のプロセスですね。で、こればっかりはやむを得ないと思います。浄化のプロセスは、大なり小なり起きます。

けれども、「ミッチャー・サマディ(邪定)」は危険です。これを繰り返していれば、自我は強くなりますし、おかしくなっていきます。サマディの練習をしておかしくなるのは、「ミッチャー・サマディ(邪定)」だからです。

ですので、最初のステップにあげた「善悪」をかぎわける嗅覚が大切なんですね。

サマディの力がサティを助ける

それで、やはりサマディは必要です。
「いまここ」に強く臨在するためには、サマディの吸収し引っ張る力が必要だからです。

これがありませんと、「気づき」は分散・拡大したままで、なんとなく「気づき」があっても、感情の処理がうまくできなくなります。

サマディや定力がありませんと、心理学的な手法を使って、思索や思考を巡らして、心を解決するといった方便的な手法でしか対応できなくなります。

心理学的な手法そのものは、有益なのですが、悟りには至る方法とは性質が異なります。心理学的なアプローチは、マインドの範疇になりますので、新たな迷いとか悩みを生み出すようになります。

思考を止めるアプローチが欠けているんですね。といいますか、思考が止まるプロセスとは正反対だったりします。

思考は、修行上においては、控えていったほうがいいでしょう。ある段階を超えると、思考に巻き込まれなくなり、思考を完全に道具として使えるようになれば別です。通常は、思考に巻き込まれ、それで煩悶を生み出す仕組みがありますので、思考はハマりまくることを避けるのが、修道上ではおすすめです。

でありませんと、ある種の観念や思考にとらわれたままのことが起きてしまいます。人によっては、自我が強くなってしまうかもしれません。「わたくしが絶対に正しい」といった傲慢になってしまうことも。こうしたものは、気づいて、乗り越えていく必要があります。

結局、感情を分解・溶解することが起きませんので、本当の解決には至っていないのすね。

もちろん、まったく無益ということではありません。益になるところもありますが、ヴィパサナ瞑想の本領発揮となる効果には、至ることができません。

やはりサマディ(禅定)は必要になってきます。
サマディの手前の近行定は必須です。
そうして、サマディ的な力が強くなってきますと、次の段階です。

3.カニカサマディ(瞬間定)

やがて対象物と一体化するといった感じが生じてきて、瞬間定(カニカ・サマディ)が現れます。これが第三段階。

この段階になると、感情(煩悩)の分解・溶解・消滅というのを体感しやすくなると思います。これは、清浄道論の壊滅智に相当するのかもしれません。観察対象が分解し溶けていくことがわかるようになるからです。

これがわかるためには、集中力(定力)が必要です。なので、ウ・ジョーティカ氏は、禅定の練習が必要なことを述べているのだと思います。こうしたことは、実際に体験してみればわかることだと思います。

瞬間定(カニカサマディ)はいわゆる集中とは異なる

瞬間定(カニカサマディ)といっても、いわゆる「集中」とは違う集中が起きます。集中力といっても、言葉で説明するのが難しいのですが、これが本来の近行定なのかもしれません。

ピタっと自然に対象物にはりつく感じであって、そのときは、ほとんど思考も生じないで、対象物と一体となります。

これを応用すると、宇宙性の「それ」と一体化しながら、嫌なこと、昔の記憶、エネルギー意識を体感していると、これらの感情が分解しはじめて消えていくようになるのではないかと思います。もしかすると、これが煩悩の断滅ということにつながっていくのであろうか、という感触が出てきます。

これを一度でも体験すると、瞑想の真髄に触れたかのような感じがわいてきて、これをそのまま深めていけばいいのではないかという感じが出てきます。

気づき(プレゼンス)・サマディ(ビーイング)・ハート(慈悲)

結局、瞑想は、気づき(プレゼンス)、サマディ(ビーイング)、慈悲(ハート)の3つに集約することができます。

この3つは、どういう瞑想のアプローチでも欠かせません。マインドフルネス系であっても、サマディー系であってもです。また3つのうち、どれかが欠けても、おそらく瞑想はきちんと進んでいかなくなるんじゃないかと思います。

中でも、ハート(慈悲)ハートが欠けますと、禅に多くみられるのですが、冷たく、独特の皮肉屋で、温かみがなく、知性ばっかりシャープな嫌味な人間になってしまうことが起きやすくなります。

で、最終的には「ただある」というのが開けてくるのかもしれませんが、その下地作りは、必要なんじゃないかと思いますね。機根といいますか素養といいますか。

これらのことはエックハルト・トール、レナード・ジェイコブソン、ウ・ジョーティカ氏の方法が参考になっています。こちらがバイブルです。

この3書はオススメです。
レナードのDVDは、質疑応答のところが白眉です。
「いまここ」のことがわかりやすくなっています。

で、極論しますと、これら以外は、不要といっていいくらいです。あと、これらを足がかりに、サマディを実習していきます。

こうしたお手本になる方のやり方をきちんと理解し、吸収していくのが大事じゃないかと思います。

いろんなやり方がある

以上は、私の見解です。
で、こうした説明の仕方は、伝統的な世界にはないと思います。真っ向から衝突する説明も中にはあるでしょう。

下手すりゃ批判やバッシングを受けるかもしれません。ですので一つの見解として受け止めていただきたいと思いますね。

で、いろんなやり方があると思うのですが、大概は「ワタクシのところが最高、正しい」としているところが多い印象ですね。ドグマと化している。

わたくしは、どこかの流派を絶対視していませんし、いろんな方法を試しながらやっている求道者(って、あんまり使いたくないですけど)ですからね。

 

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