悟りを開く方法【まとめ】

悟りを開く方法のまとめ

悟りを開く方法にはある特徴があります。

それは何かといえば、実のところ、悟りがもたらすエッセンスの真似をしているということです。

なぜこういうことが言えるかといいますと、実際に悟りを開くとされている方法が、悟りのエッセンスだからですね。

悟りを開く方法を挙げてみますと、

  • 気づき(明晰性):プレゼンス
  • ある(ただ在る、いまここ):ビーイング
  • 禅定(サマディ):ビーイング
  • 愛(四無量心、慈悲喜捨):ハート
  • 本当の自分(大いなる存在、純粋意識、真我、宇宙意識)
  • 無分別(あるがまま)
  • 創造主・神(人格神ではない神)
  • エネルギー(生命力)

などがあります。これらは「真我」のエッセンスでもあります。で、これらは「悟り」がもたらすエッセンスでもあります。

悟りを開くためには、真我のエッセンス、つまり悟りがもたらすエッセンスを真似て、切り口にして、悟りに達するという解釈もできます。もっとも「達する」というのは表現上のアヤです。

各流派における悟りを開く方法のまとめ

ちなみに各流派でのやり方をまとめると、

◎テーラワーダ
 ・気づき(明晰性)
 ・随念(念じ続けること)
 ・禅定(サマディ)
 ・慈悲(四無量心、慈悲喜捨)

◎禅
 ・ある(ただ在る、いまここ、只管打坐)
 ・無分別(あるがまま)
 ・空

◎大乗仏教(中観派、唯識派)
 ・慈悲(四無量心、慈悲喜捨)
 ・空
 ・仏(創造主)

◎アドヴァイタ、非二元
 ・本当の自分(大いなる存在、純粋意識、真我、宇宙意識)/自己探索
 ・ある(ただ在る、いまここ)
 ・自己観察
 ・気づき(明晰性)・・・大いなる存在(真我)からの気づき
 ・愛・ハート(四無量心、慈悲喜捨)
 ・無分別(あるがまま)

◎キリスト教/神秘主義
 ・創造主・父
 ・愛・ハート(神の愛、隣人愛)

◎ヨーガ
 ・サマディ・禅定(ラージャ・ヨーガ)
 ・自己観察・智慧(ギャナ・ヨーガ)
 ・愛・ハート(カルマヨーガ)
 ・善行(カルマヨーガ)
 ・神への献身・信仰(バクティヨーガ)
 ・エネルギー・生命力(ハタ・ヨガ、クリア・ヨーガ)

となります。

悟りを開く方法の定番「気づき」について

ちなみに「気づき」といわれているのは「大いなる存在(真我)」が本来有している知性(智慧)をいい、宇宙性の「認識」としての「意識」のことを言っています。

この「気づき」は、意識したり意図的に行う「気づき」とは異なります。意図的に行う「気づき」をやり続けるのは、メンタルの悩みや状態を改善することはできます。

けれどもこれを行い続けているだけでは悟りには至れません。原理的にいっても難しくなります。

もし「気づき」を行うなら、
 ・「真我」に気づく
・真我(禅定)から気づく

となる必要がありますね。

「気づき」としての「念(サティ)」

一般的に知られている「気づき」としての「念(サティ)」は、「真我、大いなる存在、宇宙意識、純粋意識」と呼ばれる状態から行うと著しい効果があります。

で、テーラワーダの実習者の中には、ここに気がついている形跡があります。ただそれを言語化していません。

なぜならテーラワーダの文脈では「真我」はタブーだからですね。ここをあえて言語化することなく、曖昧なままにするしかないからだと思います。ちなみに真我を踏まえるやり方はアドヴァイタやヨーガのやり方です。

ところで「気づき」としての「念(サティ)」には、

  1. 覚知(感覚器官を守る)としての「気づき」
  2. 悟りの状態としての「気づき」
の2つがあります。1から2へと以降していくのがテーラワーダの「サティ」の実習になるのでしょうね。

「マインドフルネス」における「気づき」

ちなみに「マインドフルネス」でお馴染みの「気づき」も「大いなる存在(真我)」に立脚する必要があります。

で、これを踏まえたやり方こそアドヴァイタや禅の只管打坐のやり方です。「気づき」というのは、真我(大いなる存在)がわかってから初めて本当の「気づき」になります。で、この方法では気づきは「一境性(カニカ・サマディ)」になります。

原始仏教における真我の扱い

なお原始仏教では真我を否定しています。しかし真我の是々非々については、話しが複雑になりますので割愛しますが、仏教は真我をも超越して涅槃に至りますので、途中経過の真我には言及しなくなったのではないかと思います。

また2500年前の当時は、真我を観念で理解したがるバラモン教徒が多く、それでお釈迦さまは真我への言及を避けたのではないかと思います。

こうした理由があったためお釈迦さまは真我を否定するかのような言葉を残したんじゃないかと思います。

ですので文言通りに「ブッダは真我を否定した」と受け止めることは、ややもすると表層的な解釈になると思います。

けれども実習上においては真我の感覚は欠かせなくなります。

まとめ

「気づき」に関しては、そういった微妙な問題もありますが、悟りに至るためには、

  • 気づき(明晰性)、ある(ただ在る、いまここ)、禅定(サマディ)
  • 愛(四無量心、慈悲喜捨)
  • 本当の自分(大いなる存在、純粋意識、真我、宇宙意識)
  • 無分別(あるがまま)、空、創造主・神(人格神ではない神)
  • エネルギー(生命力)
といったエッセンスを手がかりにして達するものだと思います。

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