だらしないのは慚愧(ざんき)が欠如しているから

だらしないのは慚愧(ざんき)が欠如しているから

だらしない人。
いますよね。

だらしない人は、体全身から「だらしない」オーラが出ています。

覇気が無い。
ヤル気がない。
ダラダラしている。

体のキレが悪い。
緩慢で億劫で、重々しい。

ところで「だらしない」に似て非なる状態に「リラックス」があります。リラックスとは「くつろぐ」ことをいいますね。

で、リラックス(くつろぐ)ことと、「だらしない」ことは違います。

どう違ってくるのでしょうか?

それは
慚愧(ざんき)が無いと、だらしなくなります。
慚愧(ざんき)があると、リラックスになります。

だらしないのは慚愧が欠如しているからです。
リラックスするには慚愧(ざんき)があります。
この違いがあります。

慚愧とは?

慚愧(ざんき)とは、心の有様を示す仏教の言葉です。「慚愧の念に堪えない」といった慣用句もありますね。

慚愧(ざんき)とは、一言でいっていましますと、「恥を知る心」と「反省する心」になります。

「慚」は、恥る心です。自分がやったことに恥じらいを憶える心です。「愧」は、悪を悪と認識し、反省する心になります。
⇒慚愧

この慚愧が弱くなったり無くなると、罪作りなことが多くなります。

仏書には「慚愧が無ければ、悪を欲しいままに為してしまう」とさえあります。

もう、やりたい放題になります。
DQNといわれるタイプや、
最悪は無頼漢やヤクザです。

ですので仏教では、慚愧の心が無いことを「最悪」とまで言っているくらいです。

そうして、慚愧の心が無いことを、無慚(むざん)・無愧(むき)といって手厳しく戒めてもいます。

慚愧が欠如するとだらしなくなる

残念なことに、慚愧の心が弱くなると、自分自身が慚愧の心が乏しいこと自体に気づきません。

罪作りなことを、平気で、無意識で行っていきます。

で、慚愧の心が弱かったり、乏しい人には、特徴があります。

それは「だらしがない」。
これが特徴です。

もちろん身なりが「だらしない」というケースもあります。が、いろいろな面で、態度が「だらしない」。

身なりがきちんとしていたり、イケメンであったりしても、慚愧の乏しい人もいます。

要は「ゆるみ過ぎ」なんですね。
高揚感が無く、低い波動での「ゆるみ」です。

慚愧が無いと、どんどん罪作りなことをしていきます。

馴れ合いも凄まじくなります。
依存心も強くなっていきます。
その悪業は、自覚するまで止まらなくなります。

「ゆるく」なることは大切ですが、煩悩を喚起させての「ゆるみ」は、単なる「だらしない」です。

これが、「恥知らず」「反省心が無い」ことの本質です。

慚愧が欠如するとリラックスできなくる

ですので公の場で、ダラーっとし過ぎてしまったり、だらしない姿態を取ってしまう。

いい年した大人が、机の上でのびて、だらーっと話しをしたりする。

こういう人、社会人でもいますよね。
見ていて、だらしない。
様子が、だらしないわけです。

こうした人は、言葉使いもだらしなく、
相手の煩悩や、だらしさなさを喚起させるようなことを言います。

しかも、それを「リラックスしている」「くつろいでいる」と勘違いしていますので、もう手を焼きます。

こうした人達が集まると、さあ大変です。
電車の中でぎゃーぎゃー騒いでもお構いなし。
マナー違反も平気。

もう、だらしない。
しかし、当人には全く自覚がありません。

慚愧の本質は「だらしなさ」

ですので、「慚愧の心が無い」のは、「罪を欲しいままに作って」「最悪」といわれるわけなんですね。

そうして、慚愧の心が乏しい人は、おおむね「智慧」も足りません。こう言ってはなんですが。

しかし、IQが高い人にも、智慧が欠如した人もいます。いわゆる「頭の良さ」と、智慧は違いますね。

適度な引き締まりを保ちながらの「リラックス感」という感覚は必要でしょう。

慚愧(ざんき)といいますと、難しい言葉になりますが、要するに、「だらしなくしない」ということで、適度にピシっとした感じや、凛とした空気感になってまいります。

この反対に、慚愧が乏しい、無慚・無愧というのは、モラルを感じさせないダラーっとした様です。

無慚・無愧の人には、深く関わらないほうが、身のためでもあると思います。

DQNになりたくなければ、慚愧が必要です^^;

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