潔癖と清浄は似て非なるメンタリティ

潔癖症が多い日本人」からの続きになります。

長年、仏教に触れています。
仏教には「戒律」というのがあります。

「あれやっちゃいかんよ」という「べからず集」として受け止められていますが。

ですが、戒律は、決して「べからず集」ではなく、肯定的で落ち着いたプラス思考をしていくと、だんだんとその姿に近づいていったりします。完璧にはできなくても、だんだんと近づいていきます。

けれども、戒律を文言通りにギチギチに守ろうとすると、「こだわり」が強くなって心に緊張がみなぎり、視野狭窄や教条主義に陥って、逆に問題が起きてきます。

「良いことをやり始めたのに、おかしくなる」という逆転現象です。

とはいいましても、こうしたことは、仏道修行を始めた人なら、誰でも経験していくことだったりします。

ですが、途中で「こうしたやり方はよくない」と気付いて乗り越えていくものだったりします。

いわば、生きた「公案」といいますか、本当の「公案」といいましょうか。ここを乗り越えることが、第一関門だったりします。
 

けれども、いつまでたってもここに気付かず、延々と教条主義に陥り続け、「それでいいんだ」と確信してしまっているケースも、少なからずあります。

宗教やイデオロギーを信奉している人に、トラブルメーカーや嫌味な人が見られるのは、実はこういうのが大きな理由になっています。こだわり・執着がものすごく強くなっているんですね。

ちなみに「公案」とは、絶対に答えが出ない「問いかけ」を与えて、頭で考えること自体を放棄させる試験だったりします。

たとえば有名な公案に「隻手の声(せきしゅのこえ)」というのがあります。「両手を叩くと、ホレ、音がするじゃろ。じゃあ、片手で手を叩いたらどんな音がするかな」

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公案とは、頭であれこれと考え過ぎることを捨てさせて、思慮分別の世界を超えさせ、頭脳偏重の害悪に気付かせる体験主義的な試験だったりします。
 

仏教では、「潔癖」ではなく、「清浄」を重視します。「潔癖」も「清浄」も、どちらも「清潔感」がありますが、似て非なるものだったりします。

「潔癖」は、緊張した状態だったり、心に余裕がなく、カリカリしている状態だったりします。本質的なことをいいますと「執着・こだわり」の強い状態です。

また「言葉」や「上辺の感情」に動かされやすい所があります。交感神経がたかぶっている状態ともいえます。「騙されやすい状態」ともいえます。

「清浄」は、ゆるやかで、リラックスし、微笑んだ状態で寛容性のある状態だったりします。

本質的には「執着・こだわり」が弱い状態ですね。言葉の奥にある情感や感性で動く所があります。副交感神経が主になっている状態ともいえます。

実は、「潔癖」と「清浄」とは、全く異なる似て非なるメンタリティだったりします。
 

何事もそうですが、潔癖症になったり、神経質になると、視野狭窄や教条主義に陥り、言葉にとらわれたり、イデオロギー先行型の「頭デッカチ」人間になってしまいます。

で、こうした「頭デッカチ」は、とかく問題を引き起こすようになります。理屈に長けるようになりますので、やたらと理屈を振りかざします。

まあ、何事も理詰めで考えて、論理的になってしまうわけです。で、愛や情(なさけ)を横に置いてしまって、観念の世界でウンウンとやってしまいます。

生理学的に見れば、交感神経がガシガシ働いて、頭の中でグルグルと理屈や観念が渦巻いているんですね。こういう「頭デッカチ」な理屈偏重型になると、とかく問題が起きます。

ですが反対に、理屈や論理をほとんど無視して、ムードや情感を重視してしまうと、これはこれで問題を引き起こしますね。

わりとスピリチュアルの人に多いですね。空想や妄想、あるいは根拠が脆弱なことを「真実」として受け止めてしまいます。これはこれでヤバい^^;
 

せっかく良いことを始めたのに、逆の現象が起きてしまう。執念や、こだわりが強くなってしまい、心がよどみ、歪んでいくからなんですね。「ミイラ取りがミイラになる」みたいな。

あと補足していえば、「職人のこだわり」は、また違ったりします。

こうしたことはあらゆることに該当します。たとえ良いことであっても、執着が強くなり偏狭になると、心が悪くなっていきます。

この落とし穴にハマってしまっても、気付かなくなることがあります。「良いこと」と言われている世界では、気付きくかったりします。

こうしたことは、世の中の不正を追及したり、社会問題を扱う場合にも、同じように見られたりしますね。

ということで長くなってしまいましたので、続きは、また次回ということでして。

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