スピリチュアルが怪しいのはコミュニケーションの仕方にも問題があるから

今日はメチャ寒い日です。
ホント、しばれる。

しかし、ここのところずっと「あっち」の世界の話しばっかりですね^^;ええ、「アストラル世界」。

怪しいスピリチュアルみたいですね。でもたぶん、まともに読んでいる人はいないんじゃないかと思います(笑)

ま、仕方ありませんね。第三者から見れば「妄想」としか映らないはずだからです。

この世界(アストラル世界)は、いわば「主観」の世界です。「こう感じる」というのを、言葉で説明しています。

で、第三者とは、通常は共有できる性質ではありません。もし、これが共有できるならば、霊能者ですね。あるはい、ごビョーキであるとか、妄想でしょう。
 

が、この世界(アストラル世界)は、通常「主観」の世界になります。本人の想念(妄想、想像)なのか、リアルにアストラル界の出来事なのか、本人ですらわからなくなるときもあるでしょう。

まして第三者が、本当なのか妄想なのかの判別は、実質不可能です。

なので、「妄想」として片づけられ、敬遠もされるわけですね。

ごもっともです(笑)
てか、それが普通の反応です(笑)
 

そもそも、こういうのって危ない面がありますからね。ええ。ビョーキのケースです。

で、ビョーキと正常の区別って、結局、心のきよらかさ・不浄の違いじゃないかとも思うわけですね。あと、とらわれる・とらわれないの違い。

心が濁った状態だと、危険度が一気にハネ上がると思います。てか、ヤバいですね。

なので、とらわれないといいますか、フラットな状態でありませんと、ヤバい世界になると思います。
 

そういう心配もありますので、あんまり深入りしたり、真正面から取りかかるのもどうなんだろうか、というのもあります。

ほどほどいいますか、「ま、そういうのもあんだよね」といったくらいがいいと思うわけですね。
 

で、第三者的には、ちんぷんかんぷんになりやすい世界ですので、私も昔は、「なーに言ってんだ?」みたいに思っていたものです。

ヘミシンクなんかも、「妄想なんじゃないの?」って、ずっと思っていましたからね。

ところが、そうとは限らない、そうは言えないものも確かにあるな、というのがわかってきたわけですね。

でも、やっぱり第三者とは共有しにくい世界です。
 

しかし、これが「予言」「遠隔」ができるようになって当たると、一気に真実味を帯びますね。

結局、誰もが確かめる「もの」が出てくることで、主観で感じているアストラル界のことが、初めて客観性を帯びてくるわけですね。

てか、第三者が「信用できる(できそう)」な情報として、扱われ始めます。
 

しかし、こうしうた主観の世界にいますと、「言葉」「観念」というものの大切さを、改めて思います。

言葉や観念を使って、第三者と共有できる配慮や工夫をすることが、コミュニケーションにもなるんだなあ、と。

改めて思います。てか、意外と、このことが忘れ去れていると思います。

コミュニケーションは、お互い共通した言葉と観念を使うことで成立している。当たり前ですが、この当たり前が大事だなあ、と。

でありませんと、お互い、孤立した状態になります。お互い、全然、別の意味に理解している言葉を使うと、意思疎通が成立しなくなります。

もっともボディランゲージで意思疎通もできますが、やっぱり、言葉、文字、観念を使うと、より多くのことを共有できます。

言葉ってありがたい!
人間、ばんざーい。
 

で、一般的とは違う「言葉」の使い方をしたり、一般的とは異なる「観念」「概念」の理解をしていると、それだけ「ミス・コミュニケーション」が起きます。

アスペルガーの人は、独自の言葉の使い方をして、独自の観念・概念の解釈をしている、といった指摘があります。

確かに、これはあると思います。

一般的とは異なる言葉の使い方や、観念・概念の理解をしている人がまれにいます。

で、こういう状況に遭遇すると、普通の会話が成立しにくくなるんですね^^;いや、ホント。

「あれ?これってどういう意味?」と思うことがしばしば起きるため、スムースなコミュニケーションができなくなるわけですね。

なので、「アスペルガー」が問題なのではなく、言葉なり、観念、概念の解釈・理解・使い方に問題があるんだと思います。

お年寄りになると、意味不明になることも出てきますが^^;これが若い人に起きていると、生きずらくなるだろうなあ、と思います。

なので、言葉は大事にしたほうがいいですね。おかしな本や、難解な哲学書とかを読んで、そこで使われている間違った日本語を真似てしまったり、身につけてしまうと、大変だと思います。
 

で、言葉や文章は、意外と、学校で教わっていないんですね。意外と、本人任せになっています。

学校の国語なんかは、学校の授業によって違いがあるかもしれませんが、体系的に言葉を教えてはいませんからね。

本当は、「辞書を読む」のをゲーム感覚でやるといいんですね。ええ。

「辞書を読む」んですね。で、辞書に書いてある説明文で、わからない言葉や知りたい言葉の意味を辞書で引いて、これをずっと続けていくわけです。

これって結構、おもしろいんですね^^;友達とゲーム感覚で遊ぶのもいいんです。
 

そもそも学校の勉強って、遊びでやったほうがいいですからね。ええ。

友達の何人かで、ゲームとして暗記を競うのは面白いんですね。豊臣秀吉だったら、豊臣秀吉の情報を調べて暗記して、みんなの前でそらんじるんです。

「おおっ」てどよめきが起きますからね。

で、何でもいいので、暗記大会をやって遊ぶわけですね^^;これって、結構、エキサイトして面白いんですね。
 

で、何の話しだっけ?^^;
そうそう、「言葉」「観念」。

「言葉」「観念」って大事だなあ、と思います。共通の意味を持った「言葉」「観念」がありませんと、人は、意思疎通ができず、お互いのことがわからなくなります。

これと正反対にあるのが、「想像」「妄想」の世界ですね。アストラル界もそうです。第三者に理解していただくのが難しい。共有はほとんど不可能。

しかし、「言葉」「観念」を使うことで、なんとか第三者にもわかる説明の仕方もあるんじゃないかと思うわけです。共感、共鳴しやすい言葉と観念の使い方ですね。

これは、悟りとか、真理の世界もそうです。禅では、不立文字が徹底していますので、言語化すると、ひんしゅくを買います。

しかし、言語によってあるところまで導いたり、ある種の伝達も可能だったりします。これと同じことは、アジャシャンティも言われています。

アジャシャンティは、ご自分の経験から、優れた覚者本を読むことを推奨しています。

これは私も、まったく同感です。文字、言葉によって伝わってくる「何か」があるからです。

ただし、言葉や観念で理解しようとしてはダメです。そういう読み方ではなく、文字、言葉の向こうにあるものを感じながら読むやり方ですね。
 

文字、言葉、観念。
これらは使いようです。

できるだけ正しく使いこなせるようにしたいですね。言葉、文字、観念、概念などは、一生、学んでいくものです。そして、思考もそうです。深く考え、きちんとロジックを組み立てて考える。こういうのも学びです。

「思考」は、悟りの文脈では、否定される向きもありますが、それは修行におけるプロセスにおいてですね。

「思考」もそうですが、文字、言葉、観念、概念に振り回されなくなって、これらは初めて使いこなせる「コミュニケーション・ツール」というのが本当のところでしょう。

それでも、文字、言葉、観念、概念は大事ですね。重宝する道具です。

ま、私も、ブログでは間違った使い方をしてしまったり、「てにをは」の使い方がヘンになったりするときもありますが。ご愛敬ということで^^;

言葉を組み合わせて文章を作ることは、やったほうがいいと思いますね。これはホント、いろんな意味で勉強・学びになります。
 

って、何の話しをしていたんだっけ?と思うくらい、あっちこっちと話しが飛ぶ、久しぶりの普通?の日記の巻きでやんす^^

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