あるがままは難しい~障害の原因と解決策

坐禅は、言葉で説明すれば「何もしない」とか「あるがまま」「そのまま」となります。が、これを「観念で理解して行動に移す落とし穴」があります。で、観念で理解して坐禅をすると虚無に陥る。これは典型的な「あるある」です^^

虚無のほかに、自我肥大も起きることがあります。「ヲレはエライ!」「悟った!」「天才!」とか^^;

で、こうした有り様は、古来「魔境」と言われてきました。坐禅の世界においては、お経もありますね。それが「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」です。

首楞厳経~魔境を説いたお経:大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経

しかし知らない間に、理解・解釈に基づいて坐禅をするというのは、往々にして起きがちだったりします。
 

ですのでテーラワーダ仏教では「気づき」を力説しているんじゃないかと思います。

なぜなら「気づき」がありませんと、自分が理解・解釈して行っていることに気づくことも難しくなるからですね。本当の「あるがまま」ができていない。

このことに気づけないのは問題だからです。で、坐禅においても「気づき」は大事かと思います。

ただ、ここでいう「気づき」は、「気づく(Do)」としての気づきではなく、「気がついてしまう」という天然自然な気づきですね。自覚ともいいます。そういう「気づき」のことですね。

で、テーラワーダで言っている「気づき」とは、本来、こういう「気づき」を言っているんでしょうね。
 

実際、タイのルアンポー・ティアン派では、最初はDoの気づきから始めて、やがてDoが薄れ、落ちて、天然自然な気づき(意識しない気づき)に進んでいくように指導しています。

この指導はスティサート師に顕著です。

で、これが目指すところは意識しない「何もしない」「あるがまま」という有り様じゃないかと思います。

ルアンポー・ティアン派は禅に近いですね。
なのでイチオシしています。

実際、ルアンポー・ティアン派をはじめとしたテーラワーダの「気づきの瞑想」を長年、行っている人は、坐禅へスーっと移行できています。
 

ところで坐禅では、いきなり「正しく座る」ように導きます。途中のプロセスは扱いません。そもそも、こうした観念化はタブーになっています。

言語化、観念化そもののがタブーですので、体でわかる・言語・観念を超越した理解が必要になります。

しかし、こうした「わかる」といった説明自体は、悟った人だけの特権でして、いえいえ悟った老師でも、本当は説明は適切ないといいます。だからパンと手を叩いたり、「あー」と言って、「これが事実です」と示すんでしょうね。

こうした導き方は王道であって、正しいですね。
が、「正しく坐れる」どころか、落とし穴に落ちてしまうことが結構起きているような。

その点、テーラワーダの清浄道論のように、方便として段階を設けたり、ステップアップしていく様は、知的な理解をともないながら、スパイラルかつ軌道修正をしながら、「行捨智」という「何もしない」「あるがまま」「事実にいる」に誘おうとしているんじゃないかと思います。
 

坐禅における「あるがまま」は精度が高いといいますか、本当に正しく坐れる様を言っています。しかしながらテーラワーダ的な文脈での「あるがまま」をあえていいますと、この様には自然(じねん)としたあたたかさ、よろこび、生命力があります。

「何もしない」「あるがまま」が気持ちいい、心地よいという感じです。

「あるがまま」というのは、頑張って行うものでもなく、坐っていること自体が当たり前といいますか、日常の一コマのような感じになり、特別なことでなもなくなり、天然自然なところがあります。

「気づきの瞑想」を行っても、こうした体感はでてくるようになります。

これが坐禅になるのかは別です。
 

しかし、こうした天然自然な心地よさ、よろこび、生命力を感じることを妨げる障害があります。それが

・思いの強さ(観念・理解・解釈に引っ張られる)
・無自覚のうちに観念・理解・解釈に基づいて瞑想や坐禅を行ってしまう
・無自覚となっている心の収縮・緊張・こだわり・結束(いわゆる心の不浄というもの)

こうしたことが瞑想や坐禅では障害となりやすいのではないかと思います。

 
ところが「天啓気療」を何度も受け続けていると、こうした障害が弱くなっていきます。「心の不浄(無自覚となっている心の収縮・緊張・こだわり・結束)」が解きほぐれ、ゆるまり、瞑想や坐禅をしやすくなります。

テーラワーダにおける「あるがまま」の有り様やコツ、妨げとなっているもの、これらの克服方法はあります。それが天啓気療です。

「天啓気療」を何故、強くおすすめしているかといいますと、坐禅にしろ、瞑想にしろ、虚無や、あらぬ方向へ行ってしまうことを回避できるからですね。

虚無などに陥るケースは結構あって、その原因に、無自覚となっている心の収縮・緊張・こだわり・結束が関わっていることが多かったりします。

ところが天啓気療を受け続けていきますと、こうした心の収縮・緊張・こだわり・結束は弱くなっていきます。で、結果的に瞑想なりができるようになります。進むようになります。
 

しかしこればっかりは実際に体験しないとわかりません。理屈で幾ら考えてもわからないことです。体験体感をしてはじめて、精妙な心の領域の仕組みがわかるようになるというのもあります。

とにもかくにも、まずは天啓気療を受けられることをおすすめします。おそらく、もっと楽に坐禅もできるようになるんじゃないかと思います。

とはいいましても、いろいろなことがあっても「それも事実」ですので、坐禅の文脈では問題無いとなってしまいますが(笑)

でも天啓気療を受け続けることはおすすめです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です