観念で善や慈悲は理解できない~観念化が瞑想を遠ざける理由

実践実習が大切~四つの実践

瞑想の実践実習において、もう何といっても大事なのはこれなんですね。実践実習そのもの。これが中心になります。

ゆるっと瞑想会では「四つの実践」という形でまとめてお伝えしているんですね。これは原始仏教・テーラワーダ仏教を軸にしながら、世界中の宗教や実践(陽明学なども含めて)に共通するエッセンスを換骨奪胎したものになっています。

その中でも特徴的なのが、天啓気療やSさんのセッション、いわゆる真我系ヒーリングを実践に導入しているところなんですね。ある意味、期間限定の、現代ならではの実践実習といえるかもしれません。

人は観念・思いの世界を現実と勘違いしやすい

なぜこれほどまでに「実践実習が大切ですよ」とお伝えするかといいますと、人間というのは、思いの世界・考えの世界・想像の世界・観念の世界に耽溺して、それを事実であると思い違えることが非常に多いんですね。

その最もわかりやすい例が「善」というものなんですね。

「善いこと」というと、多くの方がまず思い浮かべるのは、道徳的に文字化された、マニュアル化された、どこかカチカチとした教条的な「善」なんですよね。でも、それは本当の意味での善ではないと、少なくとも私はそう感じています。

本当の意味での善というのは、もっと体感的なところから生じているものなんですね。温かさ、やわらかさ、やさしさ、のびのびとした感じ、こうしたものが渾然一体となった、あの感覚です。

観念や思いで宗教・スピリチュアルを追求すると役に立たない

瞑想や宗教やスピリチュアルの世界には、観念や思い・考えで受け止めたことをそのままリアリティと勘違いしてしまう方が、やはり少なくないんですね。

これは率直に言って、役に立たないどころか、マイナスの方向へ進んでいくことになります。

どういうことかといいますと、すべてを自分の実体験ではなく「理解」で先に受け止めてしまうようになるんですね。それが観念・概念の肥大化につながっていきます。

観念的になると争い・不和が生まれる

観念や概念・考えで物事を把握するようになると、必ずといっていいほど争いが起きるんですね。「あなたの考えは違う」「その解釈は間違っている」という衝突・攻撃心が出てきます。

キリスト教の歴史が、まさにその典型なんですね。聖書をどう解釈するかをめぐって無数の分派が生まれ、互いに争ってきた。

「キリスト教は愛を説きながら、身内での争いが最も多い宗教だ」という指摘があるくらいなんですね。

急所を突いた言葉です。

理解・観念で捉えると、必ず衝突・不和が起きる。これは歴史が証明していることなんですね。

観念的になると愛・やわらかさ・ユーモラスさが育ちにくくなる

さらに問題なのは、観念的になっていくと、愛とか、ユーモラスさとか、ほっこりとか、ゆったりとか、にっこりとか??そういった感覚から離れていくんですね。

だからこそ、まずは実践ありきなんです。

実践の中で体感していく。「善ってこういうことなんだ」「やさしさってこういうことなんだ」「愛・慈悲ってこういうことなんだ」と、自分で直接体験していく、これが本当に大切なんですね。

そうした体験を重ねて「慈悲とはこういうことです」と説明できるようになれば、それは本物なんですね。ぜひそこを目指していただきたいと思っています。

まずは実践に取り組む方針を理解する

ただ大事なことがあって、実践実習に取り組む際の「方針」をある程度理解しておくことが必要なんですね。

理解や考えで宗教的な体験を取り違えてしまうと、今お話しした間違いが起きやすくなります。間違いだけじゃなく、争い・不和にもつながっていく。宗教の歴史を見ると、本当にそれが浮かび上がってきますからね。

だからこそ、スピリチュアルや思想・哲学に偏りすぎることには注意が必要なんですね。観念の世界に耽溺せず、実践・実習を中心に据える。これが大切なんですね。

ぜひぜひ、実践実習を中心に、ゆるっと続けていきましょう。

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