新渡戸稲造とは何をした人か?|17歳に見神体験をした宇宙意識&スピリチュアリストとしての顔

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新渡戸稲造とは何をした人か|農学者・教育者・国際人の素顔

新渡戸稲造(にとべ いなぞう、1862〜1933)。

かつて五千円札の肖像として知られたこの人物は、農学者・教育者・国際人として明治・大正・昭和の激動の時代を生きた方ですね。国士といえるほどの明治期に活躍した偉人でしょう。

神秘体験者としての新渡戸稲造

しかし彼の本質を語る上で欠かせないのが、宗教的・霊的な体験の側面なんですね。後述しますが、新渡戸稲造は神秘体験をしています。

見神体験(けんしんたいけん)または一瞥体験(いちべつたいけん)といわれる宇宙意識体験をしています。

このことは、新渡戸稲造の日記に記されています。

スピリチュアリストとしての新渡戸稲造

新渡戸稲造は、宇宙意識・内なる神を感じながら国益のために社会活動をしたスピリチュアリストでもあったんですね。

実際、心霊現象(オカルト)にも興味を持っていたことが、本人執筆の著者や近親者の証言で残っているほどです。

たとえば「我輩は幼い時から迷信的に一種の霊力を信じていたので、学生時代には、ときどき友人の物笑となった。しかし決してみだりに口寄せやイタコ、その他八卦、卜占などを、そのまま受け入れる程の迷信者でもない」と述べています。

また「大天使ミカエル」の声を聴いていたジャンヌ・ダルクを、キリストの次に敬愛。アメリカやイギリス留学のときには降霊会に参加。さらには晩年には山形県の霊能者でもあった松本法亮尼僧に全幅の信頼を寄せるなど、新渡戸稲造にはスピリチュアリスト、神秘家の側面があります。

新渡戸稲造の弟子となる上代たのによると「新渡戸は神秘的な世界、幽霊の話、幻の世界について、強い興味を持っていた」といいます。

新渡戸は単なる社会活動家ではありませんでした。一瞥体験をして「宇宙意識」を感じていた宗教的な人物、神秘体験をしていた人物です。このことは、今もほとんど知られていません。

この記事では、知られざる新渡戸稲造の宇宙意識(見神体験)とスピリチュアルな面にフォーカスして書いてまいりたいと思います。

新渡戸稲造の生い立ちと札幌農学校|内村鑑三との出会い

新渡戸稲造は1862年、盛岡(現・岩手県)に生まれています。9歳で上京。13歳で東京英語学校に入学。

この頃から生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と深い親交を結びます。

1877年、15歳の新渡戸は内村・宮部とともに札幌農学校(現・北海道大学)の二期生として入学します。

札幌農学校といえば、「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士ですね。

博士は札幌農学校の創立に尽力した人物です。が、新渡戸たちが入学した時点ではすでに米国へ帰国。直接の指導を受けることはなかったようです。

それでも、クラークが育てた一期生たちの信仰の影響は学校全体に受け継がれていたようですね。二期生の新渡戸・内村・宮部もキリスト教に入信していきます。

新渡戸は、札幌農学校に入学した翌年には洗礼を受けて(洗礼名・パウロ)、キリスト教徒になっています。

内村鑑三との友情と共鳴

新渡戸稲造にとって、内村鑑三は東京英語学校の頃からの親友であり、札幌農学校でも机を並べた生涯の同志でした。

二人はともにキリスト教の信仰を深め、その友情は晩年まで続きました。

二人がそれぞれ、人生における困難に直面したときも、励まし合っていたことが、二人の書簡(手紙)に残っています。

最も注目すべきは、内村鑑三もまた新渡戸と同様に、宇宙意識体験——キリスト教の文脈でいう「聖霊体験」——をしている点です!

内村は神の愛を如実に体験し、「これさえあれば余はなんにもいらない」と言い切り、神の愛を味わえない人生は意味がないということも言っていたほどです。
※内村鑑三信仰著作全集(9) 神 聖霊 三位一体「聖霊を受けし時の感覚」より

時代の第一線で活躍した二人が、ともに神に見え、神の愛に触れる高次意識体験を持ち、生涯の友であり続けた——これは単なる偶然ではなく、深いところでの魂の共鳴があったのか、あるいは霊界からの導きがあったのかもしれません。

新渡戸稲造17歳の見神体験「父ノ光ヲ見タリ」

で、新渡戸稲造が、見神体験(一瞥体験)をしたことは、明治12年(1879年)8月31日に記した日記の中にあります。日記の全文は、次の通りです。

卅一日晴八会ニテ説ク

夜伝道精神大二起る

 

まわり見ば迷ふ罪人ある中を得ではたらかでいかで報くひん

 

此月ハ神ノ御恵ヲ感スル事甚シ、函館巡迴帰校の節ヨリ他人ト平和ニ交リ未ダ怒ル事ナク聖書ヲ按スルヲ楽トナス父ノ光ヲ見タル事、吾ガ怒心ヲ消セシ事、他ヲ恐レザル事、過日ノ罪ヲ悔ュシ事、伝道ノ心ヲ得シ事、神ノ吾レニ若干ノ才ヲ与ヘ玉ヒシヲ知ランガ為メ日々課書ヲ勉強セシ事、志ヲ神、農学二帰セシ事等、皆々々上帝ノ為シ玉フ処謝ス可シ

 

アーメン

現代風に書けば、

三十一日 晴れ。八会で話をした。

夜、伝道したいという気持ちが強く湧いてきた。

 

周りを見れば、迷いの中にいる人たちがいる。その中で、自分が何もしないままでいて、どうして神の恵みに報いることができるだろうか。

 

今月は、神の恵みを強く感じることがとても多かった。
函館巡回から学校に戻って以来、人とも穏やかに付き合えるようになり、怒ることもなく、聖書を読むこと、考えることが楽しくなった。父の光を見たこと、怒りの心が消えたこと、人を恐れなくなったこと、これまでの罪を悔い改めたこと、伝道しようという思いが与えられたこと、神が自分にいくらかの才を与えてくださっていることを知ろうとして毎日勉強したこと、そして自分の志を神と農学に向けるようになったこと。これらはすべて、神がしてくださったことであり、感謝すべきことである。

 

アーメン。

ということですが、この日記の一節に注目すべき記述があります。

神を直接体験し変容した新渡戸稲造

父ノ光ヲ見タル事

これは「私は父(=神・創造主)を見た」という意味です。「神に直接触れた・遭った」といってもいいですね。見神体験(けんしんたいけん)または一瞥体験(いちべつたいけん)といいます。

新渡戸稲造が17歳のとき——現在でいえば高校2年生にあたる年齢——に、見神体験(一瞥体験)または聖霊体験といった高次意識体験をしたことがわかります。しかも、性格も変容しています。

「神の声」を聴いたことを友人に告げる

ちなみに、このときの体験が「見神体験」であったことを裏付けるのが、札幌農学校時代の友人、宮部金吾に宛てた手紙に見出すことができます。

僕は人間の解くべき最も重大な問題を解くことができた--すなわち’神の存在‘だ!

 

僕は自分自身の内にまた外に、ひとつの’神’を感じたのだ。僕は僕の内に小さなかすかな声を聞き、その声に威厳にみちた、壮重な’声’が外から応えたと感じた。

 

その声は’言葉’なのかもしれないが、僕には声だけが聞こえて’言葉’の発音ははっきり聞き取れなかった。

 

僕はもしその’言葉’が神の声なら、その’言葉’を聞かせてくださるようにお願い、神にたえず祈っている。

この手紙は、新渡戸が21才の年(1882年2月30日)に送ったものです。おそらく17才のときの「父ノ光ヲ見タル事」が下地にあると思います。

この手紙では、

  • 神が存在することを実感した
  • 神の声を、内なる声として聴くものの、それは外から響き渡る荘厳な声にも聞こえた
  • その声の言葉は聞こえたが、よく聞き取れなかった

友人だからこそ、自分の胸の内を告白したのでしょうが、この手紙から新渡戸が「神を実感した、それも声を聴いた体験だった」ということが浮かび上がってきます。

新渡戸稲造の「父ノ光ヲ見タル事」の中身は、神の実在を感じる「見神体験」と、「神の声」だったのかもしれません。

ちなみに見性体験(一瞥体験、覚醒体験)をして、神の実感する体験をするときに、「世界を救え」といった声を聴いている人もいます。

見神体験で性格が変わる

吾ガ怒心ヲ消セシ事、他ヲ恐レザル事、過日ノ罪ヲ悔ュシ事、(略)皆々々上帝ノ為シ玉フ処

この見神体験をしてから、怒る心が消えた、他人を怖れることがなくなった、過去の罪を悔い改めた(これは単なる懺悔ではなく、もっと深い意識で生じた自己否定感がなくなったという意味)とあり、これらの変化を「神からの賜物」としています。

つまり、自分で性格や考えを変えたのではなく、神の恩寵のよって変わってしまったということです。

見神体験や一瞥体験によって、性格や認知に変化が起きることはままあります。新渡戸の場合は、これらの善い変化は「神からの恩寵」としています。

浄土真宗でいうところの「他力」とは、まさにこのような「恩寵」による救済であって、新渡戸はこれを実感していたものと思われます。

そうして自分の持つ才能を世のため人の為に活かし、日々のやるべきことに勤しむことを誓い、感謝する日々を過ごす気持ちになったとあります。

新渡戸稲造が体験したことは「深い見神体験」だったことがわかります。

新渡戸稲造の宗教体験は本物

新渡戸稲造は、この体験が起きる前から、キリスト教への信仰が深まり、聖書を読み、祈りに基づく生活をしていました。

体験が起きたときは、ちょうど「祈り」をしている最中祈りの中で「父ノ光ヲ見タリ」を体験。つまり「見神体験」をしたことを日記に記しています。

たった一行の記述ですが、新渡戸稲造が、本当に神に見(まみ)えたことを示しています。

の手の体験をすると、その崇高性のあまりに文字化がしにくく、また文字にすることへの抵抗感もあって、長々とした説明をしない人が多くなる傾向もあります。

また長々とした詳しい説明をしないところに、新渡戸稲造の謙虚で奥ゆかしい人間性も垣間見られます。その後の新渡戸は、いたずらに自分の見神体験を語らず、自分の行為や生き様で示していたあたりからも、深い体験だったこともうかがえます。

新渡戸の日記にしたためられたのはたったの一言ですが、むしろ一言であるが故に、どういう体験だったのかが伝わってきます。

新渡戸稲造の平和精神の源泉

「父を見たり」というのは「見神体験(一瞥体験)」ですが、クエーカーの「内なる光」や、インドの梵我一如体験・真我体験と本質は同じです。高次意識体験です。

神秘家にみられる神との邂逅(かいこう)」。直接体験。

こうした体験をすると無条件の愛、自己を離れた大いなる愛、境広大無辺な慈悲、界線の無いハートを感じ、体現することがあります。

新渡戸稲造の日記には、こうしたことは書いてありませんが、その後の新渡戸稲造の活動を見ると、新渡戸も無条件の愛を感じ、身につけていったことがわかります。

新渡戸の生涯にわたってみられる「国際協調」「世界平和」の精神は、17才の見神体験が始まりであり発露であり、彼を生涯にわたって突き動かした源泉こそが「神に直接見(まみ)えた体験だったと思います。

新渡戸稲造の性格——怒りっぽい青年がなぜ温かな国際人になったのか

新渡戸稲造というと、温厚で包容力があり、誰からも愛された国際人というイメージがあります。しかし若い頃の新渡戸は、必ずしもそういう人物ではありませんでした。

札幌農学校時代の新渡戸は、山登りや野球を楽しむ活発な青年で、「アクティーブ」とあだ名されるほど外向的でした。しかし同時に怒りっぽく、頭に血が上りやすい一面もあり、自己反省を繰り返す記述が日記に残っています。

その性格が根本から変わる転機となったのが、17歳のときの見神体験です。

体験の後、新渡戸の日記にはこう記されています。「吾ガ怒心ヲ消セシ事、他ヲ恐レザル事」——怒りの心が消えた、他人を恐れなくなった、と。

注目すべきは、新渡戸がこれらの変化を「自分で努力して変えた」ではなく、「神からの恩寵によってそうなってしまった」と記している点です。

自分の意志で性格を改めたのではなく、体験によって自然に変わってしまった——それが新渡戸自身の実感でした。浄土真宗でいう「他力」そのものです。

しかしこの変容は、すぐに安定したわけではありませんでした。体験の後、新渡戸にはさまざまな内面・身体・信仰上の変化が訪れ、一時的に不安定な時期を経ることになります。

その変化の詳細を、以下で見ていきましょう。

見神体験以降における新渡戸の変化

新渡戸稲造は、見神体験(一瞥体験)をした後、内面、身体、信仰、現実生活の各面でさまざまな変化が起きています。

実のところ、見神体験(一瞥体験)や覚醒体験をすると、その体験の深浅によっては、よい変化が起きたり、不安定に陥るなどの変化が起きることがあります。

宗教体験が素晴らしいとするのは一面的な見方であって、人によっては知られざるリスクや注意点も出てきます。

その後の新渡戸稲造の日記には、「心身のバランスが一時的に不安定になる」に似たことがつづられています。

なお新渡戸稲造の場合は、見神体験が起きる1年位前から眼病、頭痛の健康的な悩みがあり、しかも17才という多感な時期です。以下に述べることは、見神体験によって生じた変化だけではない部分もあるかもしれません。

日記を読むと、体験者にはありがちな現象が見受けられますので、気になる箇所を、彼の日記から拾い上げてみます。

性格・内面の変化

怒り・怖れ・自己否定感がなくなった

  • 怒ることがなくなった(怒りが消えた)
  • 他人を怖れなくなった(おびえが消えた)
  • 自分は許され・救われたという深い安堵感(いたずらに自分を責め後悔することがなくなった)

これは良い変化です。見神体験(一瞥体験)によって性格が変わる(善化する)人もいます。

新渡戸は生来、怒りっぽく、頭に血が上ることも多く、その様子は札幌農学校時代の生活や書簡にも出ていました。自己反省をすることも多々あったようです。

けれども、新渡戸は体験直後に「怒りが消えた(無くなった)」といっています。

また他人を怖れなくなったとあるので、それまでは他人の目を気にしていたこともわかります。しかしそれが消えてしまった。弱くなった。

さらに「過去の罪を悔い改めた」とありますが、これは表面的な懺悔や反省ではなく、見神体験によって「自分が許された・救われた」という深い安堵感と自覚であり、自己否定感が弱くなって自己肯定感が高まったことを示す記述であろうと思います。

このことは、いたずらに自分を無闇に責めて後悔する姿勢が無くなったか、弱くなったことも示していると思います。

性格が改善する場合は、その見神体験が深かった場合や、エネルギーシステムが活性し始めたケースに多い傾向です。新渡戸の体験は、深い宗教体験だった可能性があります。

それ故に、性格が善化(聖化)したと考えられます。

ちなみにドイツへ留学をした29才のときには、現地のドイツ人が、新渡戸の真面目でやさしく温かな心に感化されたことを言っていたほどです。

晩年には周囲から「先生のかもし出される快い雰囲気に、ただ茫然として浸ってしまう」と言われていたほど、新渡戸稲造の安定した性格とハートフルさは、その後、板に付いていったようです。

内省的・無口になる

  • 快活で外向的な性格は、内省的、無口となる

それまで山登りや野球を楽しみ「アクティーブ」とあだ名を付けられるほど活発であった性格が、体験が起きた後から口数が少なくなり、内省的になっています。

その急な変化は、周囲から「モンク(修道僧)」とあだ名されるほどの変貌ぶりで、親友の内村鑑三は大変心配したほどでした。

体験によって性格に良い変化が起きる一方、微細なことを感じることが多くなり、活発な人であっても内省的になることはわりとあります。

良い変化が急に生じた場合、その定着のための調整期間は、不安定になることがままあります。

ノイローゼ・神経衰弱になる

  • ノイローゼ、神経衰弱になる(今でいう「うつ病」)

多感な10代という時期も重なっていると思いますが、体験にエネルギーシステムの活性が絡んだ場合は、認知的な変化に加えて、生理的な変化が重なるため、一時的に性格が不安定になり、鬱々とした状態が続くことがあります。

まさに新渡戸稲造がこのケースだった可能性もあります。

新渡戸の場合は、性格・内面の変化にとどまらず、信仰・霊性・身体の変化、現実に対する考え方(認知)などのほぼ全てが、一気に変化変容しています。

これに加えて、17才という心身のバランスを崩しやすい多感な時期とも重なっていたため、非常に不安定になったのではないかと推察します。

身体の変化

  • 眼病と前頭部の激しい頭痛(神経痛)

日記や医師の診断では「読書が昂じて近視」「眼の神経痛」とあります。

けれども宗教体験(見神体験・一瞥体験)によって体内のエネルギーシステムが作動し、脳内の視床や松果体が急激に活性し、それによって眼の奥の痛み、額(印堂)の痛みが出ることもあります。

新渡戸の日記を読むと、これらの部位に痛みや違和感があることがつづられているため、エネルギーシステムの急激な活性の可能性も考えられます。

もっとも、見神体験が起きる1年位前から眼病、頭痛の悩みがあり、医師にもかかりついていたため、果たして見神体験がきっかけで悪化したかどうかはわかりにくいところもあります。

信仰・霊性の変化

聖なる気持ちの高まり

  • 神の近くにいたいと思うようになる
  • キリストの精神のまま生きていけるかどうかを模索
  • 父の光を見たり(見神体験)に感じた「神の力」を求める
  • 再び「神に直接触れたかった」

これも体験者「あるある」です。宇宙の根源意識を体験したときのインパクトや、神聖かつ力強いエネルギーを「もう一度」と思うと同時に、高次意識へ溶け込みたいという欲求が高まります。

しかし満たされないため、悶々とした気持ちや葛藤をおぼえることも多くなります。またこうした気持ちが、人をときに出家や聖職者への道へと向かわせます。

新渡戸が、その分岐点にいたことをうかがわせます。

既存の宗教への物足りなさ

  • 聖書を読み学ぶだけでは物足りなく感じる。行が必要と感じる
  • 教会へ行かなくなる(しかし信仰は深くなっていた)
  • 満たされない不安定な状態が続く

これも体験によるリアリティ(神に直接会った)という意識とインパクトによって、もはや聖なる書物といえども、また机上の空論や観念・概念的な知的考察では満足ができなくなり、自分の魂を満たす・響かす「何か」を求めるようになります。

事実、約半世紀後の64才にジュネーブで講演したときは、「正直いってそれらは(少年の頃に学んだキリスト教は)、いずれも私を納得させるようなものでは全くなかった」と言っているほどです。

新渡戸の場合は既存のキリスト教にはもう満足ができず、聖書も教会にも魅力を感じなくなり、霊性そのものを高めるための実践に興味が高まりながらも、暗中模索し続ける姿がうかがえます。

現実生活への影響

  • 学校の成績が下がる

体験による急激な認知的な変化によって、現世への興味を失う場合もあります。

けれども新渡戸の場合は現実的なことを捨てるには至っていません。おそらくキリスト教の教義が「世界は神が創造したもの」という世界観があったからだと推察しています。

むしろいかにして世界に奉仕ができるのか、キリストの精神で社会に役立てるのかといった悩みが深まり、現実的なことと高次的なこととの折り合いをうまくつけることができず、ここでも葛藤が起きていたことがうかがえます。

人には言えない性質の悩みであるため、この手の葛藤はしばしば長期に及ぶことがあります。

人生上の試練

  • 翌年の明治13年に母が亡くなる

一瞥体験とは関係ありませんが、人生上の試練が続いて、まるでその人を試すかのような厳しいことが起きる場合もあります。

新渡戸が懊悩する中、最愛の母を亡くしたことは相当なショックであり、「泣き伏して卒倒し泣き沈む」と日記にあったほどでした。

苦悩の上にさらなる苦悩が重なり、この時期における新渡戸の悲嘆と、神の試練ともいうべき人生修行には厳しいものがあったことがわかります。

深い見神体験をすると心身のアンバランスも起き得る

以上、新渡戸稲造の日記から、気になる箇所を拾い上げ、所感をしたためてみました。

当時の新渡戸の状態に関しては、心理学では「解離性」と分析するかもしれません。ホルモンの分泌も不安定になりやすい10代特有の生理的現象も絡んでいたと思います。

けれども「性格や考え」の良い変化が起きていて、解離性とか変性意識、多感な時期では説明がつきにくいことも起きています。これらは体験者特有の生命エネルギーが関係した現象が絡んでいたように思われます。

一瞥体験や覚醒体験といった高次の宗教体験をした者は、その直後からさまざまな変容が起きることもあって、当時の新渡戸にも該当しそうなところがあります。

一瞥体験(見神体験)をした者の全員が、新渡戸のような変化をするわけではありませんが(人によっては何も残らない)、体験が深かった場合は、生命エネルギーの活性が始まり、新渡戸のような心身の良い変化や不調が起きることがあります。

不調となって現れる場合は、短期間、長期間続くのかは人によって異なります。しかしいずれどこかで折り合うが付くことが多くなりますが、不適切な歩みになった場合、社会を毒する言動に向かってしまうこともあります。

また「試練」ともいうべき不遇不幸に遭遇することもあります。

人生の洗濯といいますか、好転反応、瞑眩(めんげん)のようなことだと理解しています。

ちなみに新渡戸稲造の心身の不調は、その約3年後に収まっています。「東京で治療した」と日記にありますが、本人もよくわからないうちに収まったのではないかと思います。

おそらく生命システムとエネルギーが、問題にならない程度に落ち着いたんだと思います。

見神体験を経て深まった新渡戸稲造の人格

心身の不調が約3年後に落ち着いた後、新渡戸稲造の性格はゆっくりと、しかし確実に深みを増していきました。

その変化は周囲の目にも明らかでした。29歳でドイツに留学したとき、現地のドイツ人が「新渡戸の真面目でやさしく温かな心に感化された」と語っていたほどです。

かつて「アクティーブ」とあだ名された活発で怒りっぽい青年の面影は、すでにそこにはありませんでした。

晩年には周囲から「先生のかもし出される快い雰囲気に、ただ茫然として浸ってしまう」とまで言われるようになります。

意識して作り出した穏やかさではなく、その人の内側から自然にあふれ出るような温かさ——それが新渡戸稲造という人物の、後の姿でした。

怒りっぽかった青年が、誰もがそのそばにいたいと感じる存在になっていった。その変容の出発点は、17歳の夜に日記にたった一行記された「父ノ光ヲ見タリ」という体験。

私は、新渡戸稲造は宗教体験によって変貌を遂げたとみています。これは体験には時々ある変容です。

自分の努力で変わったのではなく、神の恩寵によって変えられてしまった——新渡戸自身がそう記したこの体験が、その後の半世紀にわたる人格の深化の根っこにあったのだと思います。

サーター・リサータス(衣装哲学)と新渡戸稲造

一般的には「神秘体験」「変性意識体験」とされてしまいがちですが、新渡戸稲造は、内面そのものが変容する見神体験(一瞥体験)という宗教体験をした後は、調整期間ともいうべき懊悩し混乱する試練の時期を過ごします。

しかし体験が起きた一年後の明治19年(1880年)に、『サーター・リサータス(衣装哲学)』という書を入手しています。新渡戸に洗礼を授けたハリス師の蔵書に『サーター・リサータス』があり、それを譲り受けたといいます。

新渡戸は、この書に夢中になって読みふけり、やがて新渡戸の心身不調は回復基調へと向かっていきます。

『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)とは、19世紀のイギリスの思想家トマス・カーライルによる著書です。邦題は『衣装哲学(衣服哲学)』として知られます。

架空のドイツ教授が解説するという設定で、宗教・歴史・社会思想を述べた小説です。とはいっても、小説風に見立てたカーライルの体験手記も含まれています。

カーライルは宗教体験をしていた

新渡戸稲造との関係で重要な章は「第七章 永遠の否定」「第八章 無関心の中心」「第九章 永遠の肯定」の三章になります。この三章には、カーライルの宗教体験を描いています。

カーライルは、ロンドンの町を歩いている時に宗教体験をします。要点をまとめると、

  • ①永遠の否定・・・暗夜(真理・霊性が得られず深く懊悩すること)
  • ②無関心の中心・・・神・自己解放・個我の消滅
  • ③永遠の肯定・・・覚醒・愛・肯定的な認知への変容

といったキリスト教神秘主義でも言われる三段階の宗教体験をしています。

カーライルは、小説仕立ててにして、自分の身の上に起きた覚醒体験ーークンダリーニ体験--を描写していたと推察できます。

サーター・リサータスとの出会いと30回以上の読書

新渡戸稲造が『サーター・リサータス』と出会ったのは、19才のときでした。新渡戸稲造に洗礼を授けたハリス師の蔵書に『サーター・リサータス』があり、それを譲り受けたといいます。

新渡戸稲造はこの一冊を生涯にわたって繰り返し読み、その回数は31~32回だったといわれています。

30回以上という数字は、単なる「好きな本」というレベルをはるかに超えています。

一般的な研究や分析では、『サーター・リサータス』の主人公トイフェルスドレックは幼くして父を失い、また若くして母を失っている。そこに母を失ったばかりの新渡戸稲造は、自分自身を重ねていたため、彼はこの書に深く耽り、生涯の愛読者にしていたんだと言われています。

しかし、このとらえ方は、もしかすると違うかもしれません。

というのも彼は、「(この書を)読めば、読む程、我輩の心に反響する点が多く、何回となく繰返し読んだ。人に教える為に読んだのではない、自分の煩悶を解くために読んだのだ。又文章として読んだのでなく、自分が得んとして読む時は、本の読み方がちがうと、意味深なことも語っているからです。

新渡戸稲造の『サーター・リサータス』の読み方

新渡戸は、『サーター・リサータス』からどう影響を受け、またどう読んだのでしょうか?

おそらく以下の箇所に、共感、感銘を受けたんだと思います。『サーター・リサータス』には、

  • 私の全心に火(炎の嵐)が燃えたった
  • 霊火の洗礼があった
  • 私は霊的に再生した
  • 私の霊(魂)が一種の響きを聞くようになった(神・根源意識を感じるようになった)
  • 新天地の中にいるようだ
  • 恐怖(Fear)が根絶した
  • 自我そのものが消え去った
  • 何ごとにもとらわれない境地に至った
  • 神の力によって自己否定が起こり、深い安らぎを得た
  • 慈悲深い神の恩寵でこうなってしまった
  • なぜこうなったのか自分でもよくわからないが、ある種のヒーリング(癒やし)が起きた
  • これこそが本当の人生の出発点だ
  • ほんとうの自由を得た

とあり、これらの描写に、新渡戸は自分自身を見出した・重ねたのではないかと思います。

新渡戸稲造も、17才の見神体験において、「永遠の否定」から「永遠の肯定(自己変容)」を一瞬の間に体験しています。

自分(新渡戸)と同じような体験をした人がいて、自分(新渡戸)よりも深い考察洞察をしている。このことに驚嘆しつつも共感、感銘。

それ故に『サーター・リサータス』が彼の座右の書になったんじゃないかと思います。

そうして、カーライルが述べる

「己を殺してしまうこと(自分を殺すこと)、自分の生命を大いなる存在(宇宙の根源神)にささげることで、自分というものが無くなることが起ったのである」

という箇所。これは「隣人愛」の実践の核となる「キリスト精神」でもあって、新渡戸は、愛に生きる本質的な姿勢にも感銘を受けたと思います。

ちなみに『サーター・リサータス』には、覚醒体験をした人にみられる共通の体験がつづられています。

ギャーナ・ヨーガ実践としての読書

新渡戸が「自分が得んとして読む時は、本の読み方がちがう」と語っているのは、著者のカーライルの意識の源にある「神の意識」を感じながら読むことを言っていたのだと推察しています。

新渡戸の読み方、、、それは文字の向こう側にある著者カーライルの意識——覚醒体験した意識——を感じ取り、その意識を新渡戸は味わおう、共鳴しようという読み方だったのでしょう。

おそらくこの読み方の背後には、「自分(新渡戸)の見神体験を深めるのに役に立つ」という直感と確信があったからだと推察できます。

一冊の本をそれほどの回数読み返すのは、そこに読むたびに新しい発見がある場合か、あるいは自分の体験と深く照合し続けている場合です。

新渡戸の場合は、おそらく後者だったと思われます。17歳で経験した神秘体験の意味を、カーライルの言葉を通して繰り返し確かめ、深め、自分の体験を深めようとした。おそらくそうじゃないかと思います。

ちなみに、こうした書の読み方をして真理に達する道を、インドでは「ギャーナ・ヨーガ(智慧の道)」といっています。

新渡戸は、本能的に「ギャーナ・ヨーガ」を実践していたことも浮き上がってきます。

新渡戸稲造とキリスト教——洗礼からクエーカーへの宗教遍歴

新渡戸稲造の信仰の歩みは、一言でいえば「制度的なキリスト教から、直接的な内面体験へ」という深化のプロセスでした。

洗礼とキリスト教との出会い

新渡戸がキリスト教と出会ったのは、札幌農学校に入学した15歳の頃です。「少年よ大志を抱け」で知られるウィリアム・クラーク博士が育てた一期生たちの信仰の影響を受け、親友の内村鑑三・宮部金吾とともにキリスト教に入信。翌年には洗礼を受け(洗礼名・パウロ)、正式なキリスト教徒となりました。

この頃の新渡戸にとってキリスト教は、聖書を読み、祈り、仲間と信仰を分かち合うという、生き生きとした実践の場でした。

17歳の見神体験——信仰が内側へと深まる

しかし入信から間もない17歳のとき、新渡戸は祈りの中で「父ノ光ヲ見タリ」という直接体験を経験します。神を、儀式や教義を通じて「信じる」のではなく、直接「見た」「遭った」という宗教体験です。

この体験以降、新渡戸の信仰は大きく変容し始めます。聖書を読むだけでは物足りなくなり、教会にも足が向かなくなっていきました。

しかし信仰そのものが薄れたわけではなく、むしろより深い直接体験を求めるようになったのです。

のちに64歳でジュネーブ大学で行なった講演でも、「私が少年の頃、キリスト教の説教を聞き、聖書を含むキリスト教関係の本を読み始めたとき、正直いってそれらはいずれも私を納得させるようなものでは全くなかった」と率直に語っています。

アメリカ留学とクエーカー派との出会い

1884年、22歳の新渡戸は「太平洋の橋となりたい」という志を胸に、私費でアメリカへ留学します。ジョンズ・ホプキンス大学で経済・農政・歴史・英文学を学ぶ中で、彼は伝統的なキリスト教のあり方に懐疑的になっていきます。

そのような時期に出会ったのがクエーカー派(フレンド派)でした。新渡戸はクエーカーの集まりに参加するようになります。

「内なる光」を説くジョージ・フォックス

クエーカー派は17世紀にジョージ・フォックスがイギリスで起こしたキリスト教プロテスタントの一派で、「内なる光(Inner Light)」——すべての人の内に神の光が宿るという思想——を核心に置いています。

ジョージ・フォックス自身も、22歳から24歳にかけて「神の炎」を体験し「自分の中の全てが浄化された」と語った覚醒体験者でした。カーライルの『サーター・リサータス』に描かれた体験と、本質的に同じものといえます。

神とつながるクエーカー派に惹かれる

クエーカーの礼拝では、全員が沈黙の中で瞑想し、聖霊を感じた者が自由に語るというスタイルをとります。聖職者も礼拝の形式もなく、各自が神と直接つながることを重んじる姿勢が特徴です。

牧師も演台もなく、しかも儀式や表面的な繕いや華美を一切排して「神との直接体験」を重視しているため、キリスト教の中では風変わりな一派に見られます。

けれどもクエーカーはいかなるときでも戦争反対を表明し、平和主義と人道的活動でも知られています。

この飾り気のない誠実なあり方が、新渡戸の17歳の見神体験と深く共鳴しました。制度や形式を超えて神を直接体験しようとするクエーカーの姿勢は、新渡戸がずっと求めていたものと同じだったのです。

新渡戸稲造がクエーカー派に惹かれたのも、底流にはカーライルの『サーター・リサータス』に通じるものがあったからなのかもしれません。

1886年、新渡戸はボルティモアの「友会(フレンド会)」の正式会員となります。

妻メアリー・エルキントンとの出会い

クエーカーの集会を通じて出会ったのが、後に妻となるメアリー・エルキントンです。

フィラデルフィアの名家であり、クエーカーを信仰する家庭に育った彼女は、新渡戸が日本について講演した集会のティー・パーティーで稲造と出会い、互いに深く引かれ合います。

両家の強い反対を乗り越え、1891年1月1日、二人はフィラデルフィアのフレンド集会所で結婚式を挙げました。

国際結婚、しかも日本人との結婚は当時まだ珍しく、二人の結婚は全米の新聞で報じられ、センセーショナルな話題となったほどでした。

クエーカー信仰は生涯変わらなかった

その後の新渡戸のクエーカー信仰は、生涯を通じて揺らぐことがありませんでした。

国際連盟での活動も、一高校長としての教育活動も、そして『武士道』の執筆も——すべてがこのクエーカーの「内なる光」の信仰を土台にしていました。

さらに晩年の講演で新渡戸が繰り返し語った「宇宙意識」——仏教僧であれ、神道信者であれ、クエーカー教徒であれ、本質的な宗教体験は同じであるという確信——は、クエーカーの「内なる光」の普遍性とまったく同じことを語っています。

そしてこれらの連綿は、17才の見神体験が根底にありました。

新渡戸稲造にとってのキリスト教は、制度や教義への従属ではなく、神との直接体験への探求でした。その探求の旅が、洗礼から見神体験、そして「クエーカー」から「宇宙意識」の確信へとつながっていったのです。

なぜ新渡戸稲造は『武士道』を書いたのか

新渡戸稲造の名を世界に知らしめた著書『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』は、1900年にアメリカで英語で出版されました。日本語ではなく英語で書かれたこと、そしてその執筆のきっかけが、多くの人が想像するものとは少し異なっています。

『武士道』執筆のきっかけはドイツ留学時代にあった

執筆の直接のきっかけは、ベルギーの法学者エミール・ド・ラヴレーとの対話でした。

新渡戸がドイツ・ベルリン留学中に交わしたこの対話の中で、ド・ラヴレーは「宗教教育のない日本で、どのように道徳教育が行われているのか」と問いかけました。

この問いに、新渡戸はとっさに答えることができませんでした。

日本人として生まれ、日本の道徳観の中で育ちながら、その根拠を西洋人に説明できない——この問いが、新渡戸の中に深く刺さりました。

「日本人の道徳観や倫理観はどこから来るのか。それを言葉にして世界に伝えなければならない」という使命感が、『武士道』執筆の原動力となったといいます。

欧米各国で大反響となった『武士道』

1898年、新渡戸は体調を崩してカリフォルニアで療養中に、床の中でこの本を書き上げます。英語で書かれたのは、最初から西洋の読者に向けて発信することを意図していたからです。

出版後、『武士道』はアメリカ・ヨーロッパで大きな反響を呼びました。各国でも翻訳されます。

中でもアメリカ大統領ルーズベルトも非常に感銘を受け愛読し、知人に配るのみならず、アメリカの兵学校・士官学校にも推奨するほどの絶賛っぷりだったといいます。

不立文字で培われる日本人の徳育を明らかにする

ここで注目したいのは、この本の底流に流れるものです。

新渡戸は『武士道』の中で、日本人の道徳観の根底に「仁・義・礼・智・信・忠・名誉」という武士の精神があると論じています。

しかしそれを単なる文化論として書いたのではなく、人間の普遍的な精神性——東洋と西洋をつなぐ「内なる光」——として描こうとしていました。

事実、本書では、仏教、神道、儒教(孔孟の教え)、陽明学、キリスト教といった世界の宗教や道徳の底流に流れる普遍的な『徳性』を見事に言語化し、宗教と人間修養の要諦をもつまびらかにしています。

しかも、不立文字や非言語の「空気」によって習得される日本人の善意識や日本の徳育文化を世界に知らしめることによって、争いや対立を超えた「普遍的な宗教」への架け橋となるヒントも提示しています。

『武士道』は新渡戸稲造の宗教体験に基づく

これがなし得たのも、新渡戸の深い宗教体験があったからこそでしょう。新渡戸は、単に日本を海外に紹介した功労者であり国士ではありませんでした。

17歳の見神体験を持ち、クエーカーの「内なる光」の信仰を生きた新渡戸にとって、『武士道』は日本の文化を紹介する本であると同時に、「どの文化にも普遍的な霊的真実が宿っている」というメッセージを世界に伝えようとした試みでもあったのでしょう。

新渡戸稲造と国際連盟|事務局次長として世界平和に貢献した7年間

第一次世界大戦が終結した1920年、国際平和の実現を目指して国際連盟が設立されます。

新渡戸稲造は、『武士道』の著者として国際的に知られ、語学力と人格において他の追随を許さないとして日本代表の事務局次長に選ばれました。「語学が堪能で、見識を備えていて、人格も素晴らしく、欧米人の中で仕事をしても遜色のない人物」という条件に最もふさわしい人物として推挙されたのです。

1920年から1926年の7年間、新渡戸はスイス・ジュネーブに滞在し、国際連盟事務局次長として精力的に活動しました。

その功績のひとつが、スウェーデンとフィンランドが長年争っていたバルト海のオーランド諸島帰属問題の平和的解決です。この「新渡戸裁定」は国際紛争解決の成功例として今も語り継がれています。

また、アインシュタインやキュリー夫人らを委員に招いて「国際知的協力委員会」を創設しました。この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、その精神は今も受け継がれています。

ジュネーブでの人気投票では「このジュネーブで最も人気のある人物」に選ばれるほど、欧米の人々に愛された存在でもありました。

宇宙意識——新渡戸稲造が講演で語ったこと

新渡戸がジュネーブをはじめとする各地での講演で繰り返し語ったテーマのひとつが、「宇宙意識」という言葉でした。

宇宙意識とは何か。新渡戸の言葉を踏まえると、それは内側から生命力が溢れてくるような感覚を伴い、万人を愛する意識であり、高い倫理観と深いつながりを持つものとして語られています。

そしてこの宇宙意識こそが、世界人類が平和友好に歩んでいくための根本にある意識だ、と新渡戸は主張していました。

新渡戸が64才の年、1926年12月にジュネーブ大学で行なった講演は、以下の通りです。

アジア人であり、日本人である私自身はクエーカー主義と極東において長年続いている教えとのあいだに、多くの共通点を発見している次第である。私の期待することは、何故にクエーカー主義が東洋の精神にこれほど訴えるものがあるのかを、私の説明で皆さんにご理解していただくことである。

 

(中略)私が少年の頃、キリスト教の説教を聞き、聖書を含むキリスト教関係の本を読み始めたとき、正直いってそれらはいずれも私を納得させるようなものでは全くなかった。私はクエーカー主義において初めて、キリスト教と東洋思想とを調和せることができたのだった。(中略)

 

この宇宙意識(肉体的・精神的エネルギーの巨大な増加、心の平安、歓喜の心、この世を去る覚悟、そして全人類に対する愛)は、どこの場所で体験してもまさしく同一の体験なのである。たとえ、それが仏教僧であれ、神道信者であれ、回教の聖者であれ、アメリカの農夫 であれ、あるいはユダヤ人の哲学者であれ、同一である。

これは今日のスピリチュアルな文脈でいえば、真我意識・ハイヤーセルフと呼ばれるものに対応します。17歳の時に「父を見ゆ」と記した体験と、この「宇宙意識」の主張はひとつの線でつながっています。

「宇宙意識」はリチャード・モーリス・バックの言葉

ちなみに、「宇宙意識」という言葉は、カナダの精神科医だったリチャード・モーリス・バックが、1901年に出版した『宇宙意識(Cosmic Consciousness)』が初出になります。

おそらく新渡戸稲造は、リチャード・モーリス・バックの『宇宙意識』を知っていたとのでしょう。だからこそ、当時でもマイナーな「宇宙意識」という言葉をあえて使用した。

モーリス・バックの『宇宙意識』と、若い頃からの愛読書であるカーライルの『サーター・リサータス』の両書には、新渡戸が語った『肉体的・精神的エネルギーの巨大な増加、心の平安、歓喜の心、この世を去る覚悟、そして全人類に対する愛』の精神が描かれています。

そう、だからこそ新渡戸稲造は、カーライルを愛読し、秘かにモーリス・バッグに共感を憶え、約25年前の『武士道』では充分に言い表せなかった新渡戸の宗教体験を、ジュネーブの大舞台において「宇宙意識」という言葉を使って全世界に発信したのでしょう。

覚醒体験者の心象風景を語った新渡戸稲造

新渡戸は、17才のときに起きた「見神体験」の中身を、覚醒体験した者の心象風景を、約半世紀経った64才の年のジュネーブ講演で堂々と表明したんだと思います。

覚醒体験した者の多くは、人類生命を慈しみ、世界を愛し、宇宙が恒久的に平和であって欲しいと願う燃えるようなエネルギーに、生涯にわたって突き動かされます。

新渡戸稲造もそうだったんだと思います。

ただし、これらの講演でこの「宇宙意識」という言葉が使われていたことは、今日の新渡戸研究の中でもあまり注目されていません。

五千円札の顔・農学者・教育者・国際人としての側面が強調される一方で、新渡戸のこの霊的・宗教的な側面はほとんど語られないままです。

体験から生まれた活動という視点

新渡戸稲造の生涯を見るとき、彼の国際平和への情熱や人道的活動は、単なる理念や信念から生じたものではありません(ないでしょう)。

17歳の時の深い体験——「父を見た」というあの一瞥——が、その後の生涯を貫く根拠となっていた。

体験から生まれる活動と、理念から生まれる活動では、その深さと持続力がまったく異なります。

勝海舟もまた禅における「見性体験」という高い宗教体験を持っていたという記録がありますが、明治・大正の日本には、こうした内なる体験を核に持ちながら世の中の第一線で活躍した人物が確かに存在していました。

このこともほとんど言及がありませんが、明治大正の日本は、高次の宗教体験をした人達が、日本や世界を牽引する第一線で活躍した特異な時代だったと思います。

折しも19世紀半ば、欧米ではスピリチュアリズムが勃興し、社会を担う人達の間で広まります。日本でも同時期に、まさに新生・神代の時代の幕開けであるかのような動きがあったことは注目に値します。

新渡戸稲造の晩年と死因|太平洋を望む地での客死

新渡戸稲造は、1926年、7年間務めた国際連盟事務局次長を退任。その後も太平洋問題調査会の理事長として環太平洋諸国の平和的協力を推進しようとしました。

が、満州事変(1931年)以降の日本の孤立化と軍国主義の台頭の中で、国際協調を訴える新渡戸の立場は、「欧米追随」「平和ボケ」と非難され、苦しくなっていきます。

1932年、軍部の動きを批判した発言が新聞に掲載され、反日・国賊といった激しい非難を浴びて多くの友人や弟子が去っていきました。

病身を押してアメリカに渡り日本の立場を訴えようとしましたが、理解は得られません。

1933年秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会に日本代表団の団長として出席。会議終了後、カナダ西岸のビクトリアで倒れ、入院しました。病名は出血性膵臓炎。

10月15日、開腹手術後に容態が急変し、ビクトリアにて逝去。享年71歳でした。

太平洋の橋となることを願い続けた人物が、太平洋を臨む地で息を引き取った——その事実には、深い何かを感じさせるものがあります。

新渡戸稲造の言葉——名言・格言

新渡戸稲造は、講演・著作・書簡を通じて多くの言葉を残しています。以下に、代表的な言葉をご紹介します。

われ太平洋の橋とならん

「われ太平洋の橋とならん」

新渡戸が若い頃から抱き続けた生涯の志を表した言葉です。東洋と西洋、日本とアメリカの間に立ち、相互理解の橋を架けることを使命として生きた新渡戸の本質が、この一言に凝縮されています。

なお、この言葉は新渡戸の志として広く知られていますが、実際には彼の著作や日記の中に、この一文が明示的に記されているかどうかについては諸説あります。

東京大学に入学する際、文学部の教授外山正一博士と面談したときに、新渡戸は「日本の思想を海外に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです」と言ったことが、その後、「われ太平洋の橋とならん」という言葉になったのではないかと思います。※『帰雁の蘆(きがんのあし)』

この言葉の出所はさておいて、新渡戸の生涯全体が、この言葉通りの歩みであったことは確かですね。

人は死に際して、その人の真の姿が現れる

「人は死に際して、その人の真の姿が現れる」出典:『武士道』

武士の死生観を論じた文脈で語られた言葉です。死を恐れず、いかに生きたかを問うという、武士道の核心を示しています。

花は桜木、人は武士

「花は桜木、人は武士」出典:『武士道』

日本人がなぜ桜を愛するかを論じた箇所で引用された言葉です。潔く散る桜の美しさと、潔く生きる武士の姿を重ね合わせています。

すべての宗教の目的は同じである。ただ道が違うだけだ

「すべての宗教の目的は同じである。ただ道が違うだけだ」

新渡戸が晩年の講演で繰り返し語ったテーマを凝縮した言葉です。クエーカーの「内なる光」、仏教の仏性、神道の神——その本質は一つであるという、新渡戸の宗教観を示しています。

宇宙意識は、どこで体験しても同じである

「宇宙意識は、どこで体験しても同じである」出典:1926年ジュネーブ大学講演

仏教僧であれ、神道信者であれ、クエーカー教徒であれ、真の宗教体験の本質は同じだという新渡戸の確信を示した言葉です。17歳の見神体験を持つ新渡戸だからこそ、単なる理念ではなく、体験に基づく言葉として語れた一節です。

教育の目的は、知識を与えることではなく、人格を形成することである

「教育の目的は、知識を与えることではなく、人格を形成することである」

新渡戸が教育者として一高(第一高等学校)の校長を務めた時期に繰り返し語ったテーマです。知識の蓄積よりも、人間としての内側の成長を重んじた新渡戸の教育観が表れています。

新渡戸稲造が今に伝えるもの

五千円札の顔として知られ、『武士道』の著者として知られる新渡戸稲造。しかしその内側には、17歳の時の霊的体験があり、クエーカーの「内なる光」の信仰があり、晩年まで「宇宙意識」を語り続けた精神の持ち主がいました。

彼が世界平和を訴え続けたのは、机上の理念からではなく、17才のときに体験した見神体験(一瞥体験)——宇宙意識・内なる光・大いなるものとのつながり——がしっかりと根付いていたからでしょう。

彼の歩みをたどれば、彼の内面性がわかります。

それは——17才の見神体験で神・根源意識に触れて真理真実を知る——カーライルの『サーター・リサータス』で体験への洞察と確信を深める——クエーカー派(ジョージ・フォックス)と出会いと『内なる光』の実践でさらにキリスト意識を深め——その半世紀にわたる新渡戸の内的&外的活動の熟成として『宇宙意識』を語る——

こうした新渡戸稲造の霊的な側面は、今日の歴史教育の中でほとんど触れられることがありません。

しかしそれこそが——宗教体験こそが——新渡戸という人物を読み解く本質であると感じています。

最近では一瞥体験やクンダリーニ体験をする方も増えてきていますが、しかし、それは始まりです。ここから本格的に霊性の道、愛の道を歩んでいく必要があります。

その道は、理解されがたく、険しいときもあるでしょう。

けれども新渡戸稲造のように、地に足を付けての「愛に生き」「社会に貢献」する生き様の中で、宇宙的な愛が身に備わり、あたたかくもやさしい雰囲気を醸し出すようになっていくのでしょう。

特異な体験に歓喜するハネムーンの時期を超えて、また良きお手本となる先人達の生き方を知り、霊性と愛、そして智慧に根ざしていくことが大切だと思います。

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新渡戸稲造についてよくある質問

新渡戸稲造は何をした人ですか?

新渡戸稲造は農学者・教育者・国際人として明治・大正・昭和初期を生きた人物です。

英語で書いた著書『武士道』が世界的なベストセラーとなり、日本の精神文化を西洋に紹介しました。

また国際連盟事務局次長として国際平和に貢献し、現在のユネスコの前身となる「国際知的協力委員会」の設立にも携わるなど、幅広い分野で活躍しました。

しかしそれだけではありません。17歳のときに「父ノ光ヲ見タリ」という見神体験(一瞥体験)をし、宇宙意識を感じながら生涯にわたって社会活動を続けたスピリチュアリストでもありました。

この霊的な側面こそが、新渡戸という人物を深く読み解く鍵です。

新渡戸稲造はなぜ5000円札になったのですか?

新渡戸稲造が5000円札の肖像に選ばれたのは1984年(昭和59年)のことです。日本と世界をつなぐ国際人として、また『武士道』の著者として国際的な知名度を持ち、幅広く尊敬された人物であることが理由とされています。

2004年(平成16年)に樋口一葉の5000円札に切り替わるまで、約20年間使用されました。

なお現在も旧5000円札は法定通貨として使用可能です。ATMでは使えない場合がほとんどですが、銀行窓口で新札に交換することができます。

新渡戸稲造の死因は何ですか?

新渡戸稲造は1933年(昭和8年)10月15日、カナダのビクトリアにて71歳で亡くなりました。死因は出血性膵臓炎です。

カナダのバンフで開催された太平洋問題調査会に日本代表団の団長として出席した後、体調が急変して入院し、開腹手術後に容態が悪化して逝去しました。

「太平洋の橋とならん」と願い続けた人物が、太平洋を望む地で息を引き取った——その事実には、深い何かを感じさせるものがあります。

新渡戸稲造の子孫・末裔は現在どこにいますか?

新渡戸稲造と妻メアリーの間には実子がなく、甥の新渡戸七郎を養子に迎えています。現在もその子孫が岩手県や青森県十和田市などに在住しています。

十和田市には新渡戸家が開拓した農場の歴史があり、新渡戸記念館(十和田市)がその縁で設立されています。

なお、東京女子大学にも新渡戸稲造記念館があります。

新渡戸稲造記念館はどこにありますか?

新渡戸稲造に関連する記念館は主に二つあります。

一つは青森県十和田市にある「新渡戸記念館」で、新渡戸家ゆかりの資料や農場の歴史を展示しています。

もう一つは東京女子大学(東京都杉並区)内にある「新渡戸稲造記念館」で、新渡戸が初代学長を務めた縁から設立されました。

いずれも事前に開館情報を確認してからご訪問されることをおすすめします。

新渡戸稲造の名言「われ太平洋の橋とならん」は本当に言った言葉ですか?

この言葉は新渡戸の志を表すものとして広く知られていますが、この一文が著作や日記にそのまま明示的に記されているかどうかは諸説あります。

東京大学入学の際に「日本の思想を海外に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたい」と語ったことが、のちにこの言葉として伝えられたのではないかと考えられています。

いずれにせよ、新渡戸の生涯全体がまさにこの言葉通りの歩みであったことは確かです。

新渡戸稲造の性格はどのような人でしたか?

若い頃の新渡戸は怒りっぽく活発な青年でしたが、17歳の見神体験を境に性格が大きく変容していきます。

晩年には周囲から「先生のかもし出される快い雰囲気に、ただ茫然として浸ってしまう」と言われるほどの温かな人格を持つようになりました。

この変容は自分の努力によるものではなく、神の恩寵によって内側から変えられてしまったものだと新渡戸自身が記しています。

詳しくはこの記事の「新渡戸稲造の性格」セクションをご覧ください。

新渡戸稲造とクエーカーの関係は?

新渡戸稲造は22歳でのアメリカ留学中にクエーカー派(フレンド派)と出会い、1886年に正式会員となりました。

クエーカーの「内なる光(Inner Light)」——すべての人の内に神の光が宿るという思想——が、17歳の見神体験を持つ新渡戸の内側と深く共鳴したようです。

このクエーカー信仰は生涯変わることなく続き、国際連盟での平和活動も教育活動も、すべてその土台の上に成り立っていました。

【参考・引用文献】
新渡戸稲造著『新渡戸稲造全集第19巻』(教文館1985年刊)
新渡戸稲造著『帰雁の蘆(きがんのあし)』(弘道館1909年刊)
松隈俊子著『新渡戸稲造』(みすず書房1969年刊)
キリスト友回日本年会『クエーカーハンダブック 闇をおおう光の大海』(2024年刊)
内村鑑三著『内村鑑三信仰著作全集(9) 神 聖霊 三位一体』(教文館1964年行)
新渡戸稲造著、近藤晴郷訳『武士道:附・北条時宗』(経営科学出版2025年復刊)
トーマス・カーライル著『衣装哲学』

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