最近、思うのことは、原始仏教は確かに有益な情報も多いのですが、現代に合わないということですね。
長い間、検証し続けてきましたが、今の結論としては現代社会では無理。少なくとも日本では無理でしょう。
それと、仏典の誤読が学会をはじめ仏教界にも大変多い。
パーリ仏典は、2500年前の「インド」を前提にして説かれたことも考慮する必要があるわけですね。
2500年前のインド人。
日本では弥生時代ですよ。
土器を使っていた時代です。
インドも、そう変わりません。
在家といっても、ほとんど原始的な生活ですよ。
出家も在家も、そう変わりが無い。
そんな時代です。
まず、どういう時代だったかと、よーく想像してみることが大切なんですね。
しかし、何故か、ここへの考察がものすごく弱い印象なんです。どこか、現代と同じ感覚で仏典を読む人が少なくない。
これって、すごくおかしいですし、間違った解釈をしてしまいかねません。
思うに、2500年前のインド人は野獣みたいだったと思うわけです。現代のような教育は無いわけです。
生まれてからは、ほとんど本能のまま野獣のように育てられた人もいるはず。食って、寝て、セックスして、ほぼ本能のままに生きている時代。
だから「あれやっちゃいかん」といった戒律が制定されたと思うわけですね。シンプルに、そうじゃないかと思うわけですね。
あと、医療も無いわけです。
体の汚れを落とすための今のような石けんがあったかどうかも怪しい。仏典には、禅定の説明の箇所で石けんとスポンジの例えを使っているところもありますが、今のような石けんではなかったと思いますね。
で、歯磨きも出来たかどうか。
雨を除ける家すらも怪しい。
要するにモノが無い時代。
天然自然な生活環境。
こんな時代で、物質に執着するのは、そもそもおかしいのでは?なので、モノに執着するのは、ある意味、異常といいますか、度が過ぎている姿。なので、モノに執着するのを厳しく戒めたという解釈もあり得ます。
そもそも物質的なものが無くても、まーなんとか生きていける時代です。だから、物質的なことやお金には無関心になりがち。
てか、物質やお金は、ほとんどどーでもいい存在だったわけです。無ければ無いなりに、生きていくことができた時代です。それが2500年前。
あと、病気、ケガ、コブラ(毒蛇)に噛まれるといったリスキーな時代。明日、死ぬかもしれない時代。
それだったら、さっさと出家して、一刻を争うつもりで修行に励むでしょう。てか、そうしないと、いつ死ぬかわからない。こうした逼迫した思いがあったと思うわけですね。
で、こうした「当時の時代背景・事情」を踏まえないで、仏典の言葉をそのまんま引用して、現代に当てはめてしまうのは、ものすごく危険だと思うわけですね。
下手をすると「自分いじめ」みたいな苦行僧を量産してしまいかねません。てか、日本には、こういうノリの人が多いと思うわけです。
で、ネガティブになっていることへの自覚もないまま、それが正しいと思い込んでいる。
で、毎度毎度こういうのを見ると、疑問を抱いていまうわけですね。なんか、我慢大会の参加者の集まりが仏教の人のような感じ。
そうじゃないんですよ。今の時代は、むしろ2500年前と正反対なわけです。
今は、教育や教えや規律でがんじがらめになっている。ストレスマックスになっている人もいる。なので、現代はまず「解放」が必要でしょう。解放。心の傷、トラウマなどなどを、まずは解放しにゃあならんわけです。
だからOSHOは、ダイナミック・メディテーションを創案もされたわけですね。で、これに限っていえば、OSHOの言う通りです。正しい。
で、心の傷とかがありながら戒律をやったって、傷に塩を塗るようなものなんです。
が!これを喜んでやっている人が少なくありませんので、仏教は、自虐的な人の嗜好品になっているのでは?
なんて思うことがあるわけです。不健康で危険ですよ^^;
それと、これだけモノがあふれた時代です。物質と共存していく必要もあるわけです。
これはもう、2500年前とまったく異なる環境なわけですね。2500年前は、物質的な充実さはまったくといっていいほど無い時代です。物資的なものに依存しなくても生きている時代です。
しかし、現代は違います。
物質やお金が無ければ生きていけない。
だから、2500年前の教えがそぐわないところもあると思うわけですね。今の時代は、物質やお金をも含めた有り様が必要です。
ところが2500年前のノリでやれば、そりゃ時代錯誤にもなりますわな^^;原理主義となって、ちぐはぐとした人になってしまう。
てか、社会に受け入れられません^^;社会と融和してきたブッダのコンセプトと真逆でしょう。
2500年前の教えを金科玉条にすれば、原理主義になってしまって、傍目にはカルト宗教みたくなりますよ。
今、ここで書いていることはものすごく大事なことだと思うんですね。2500年前の教えを金科玉条に押し頂いていては、悟りはかなり困難でしょう。
そもそも、教えにしても、それは言葉や観念ですので、本質ではないですからね。言葉や観念を手がかりに、本質に迫っていくのが仏教ですからね。見た目の形とかを、いたずらに重視するのは本末転倒です。ナンセンス。
もっとも、古典愛好家で、そういうのが「好き」という嗜好の人は、骨董品収集の感覚でおやりになってもよいかと思います。
が、仏教は、現代には合わないところが多々あることは理解されたほうがいいと思いますね。
ここを修正しないで、そのまんか行うのは、むしろ危険ですらあります。特に戒律。戒律の前に「解放」が必要。
それと「物質やお金」も大切にしていく教えに改変していくこと。
この2点。
特にこの2点を改めなければ、仏教は、むしろ精神を歪め、貧困に至らせる宗教になりかねません。
しかし、皮肉なことに、この2点を改めれば仏教ではなくなるわけですね。新宗教のようになります^^;
で、こうした観点から見れば、新宗教って現代風の仏教でもあるかのような、驚くような結論にもなったりします。
が、新宗教は、ほとんどが開祖や教祖をマンセーしていますので、これが問題なんですね。
信者を思考停止に誘い、お金と時間と労働を搾取するシステムになっています。北朝鮮システムを採用している新宗教がほとんどですので、やっぱりイクないんですね。新宗教はマズい。
しかし、新宗教が、2500年前のドグマ化された仏教を改めたところがあることは、皮肉な事実だったりします。
新宗教のような危険なスタイルは、新たな問題と巻き起こしますので、やはりよくありません。が、2500年前の原始仏教をいたずらに守ろうとする原理主義も問題です。
もっと柔軟かつ健全に、現代に合うような大胆な改変もまた必要じゃないかと思いますね。その点、OSHOは、優れた点が多かったと思います。
と、まあ、ダラダラと書きつづってみたり(・`ω´・ )
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