ネガティブな認識経路を改めない限り悩みや問題は尽きなくなる

それにしても、最近、なーんか変わってきているんですよね。
なーんか。
気温が上がってきていることに加えて、
今日は、ちょっと風邪が入っているせいなのかなあ、
なんて思いますが、なーんか最近、全般的に変わってきているよーな。

明らかに、10年前とは違ってきています。
日記を付けていますので、10年前のと比べると、
全般的にゆるくなってきています^^;

ますます、ゆるくなってきているといいますか^^;
「まー、いいじゃん」みたいな感じで。

年齢もあるかもしれませんね。
年齢。
で、これはあるぞ。
ある。
うむ。
ある。
本音は認めたくないが、ある。

年取ったんで、それで爺さんモードが入ってきたでやんすよ状態^^;
どうも、それもありそう^^;
ま、いろんな要素が重なっていますね。
 

しかし、こうして仏教などに触れて、随分と長いですね。
ながーい。
象さんの鼻のよーにながーい。

ま、そういう知識だけじゃないんですけどね。
てか、知識を体験と結びつけたり、体感と結びつけ、
そんな学習の仕方をしていましてね。

この学習方法は、ちょっと独特でやんすよ。
根源的なところから見つめていく、そんな学び方なんですね。
で、この学習の仕方は、抽象性の高い哲学とか、
そういう領域で本領発揮するわけなんですね。

で、抽象性の高い言葉って、エネルギーなんですね。
エネルギーやモヤモヤを、何とか言語化しようとしたものが、
抽象性の高い言葉や表現になってくるんですね。

で、そういうのを解き明かすのは、一種のパズルのようで、
結構、面白かったりするんですよね。

で、エネルギーベースで理解しますので、
実際に体験しているかのようなバーチャル性があったりします。

と、まあ、好き勝手なことを書いていますが^^;
ま、それもご愛敬ってもんですね。
ええ、ご愛敬。

ゆるし、ゆるし合う。
これがいいですね。
そうできないときもあったりしても、
最終的には、「ゆるし、ゆるし合う」でありたいですね。
 

で、人の生涯、人生というのは、それぞれですからね。
で、まず「完全」な人はいませんからね。
ええ、いません。
じぇったいいません^^;

お釈迦さまですら、腰痛持ち、頭痛持ち、背中が痛いなどの
肉体の持病があったといいますからね。
で、中傷を受けたり、批難されたり。
そんな様子は、仏典にもありますからね。

なので、人ってもんは、どっかに悩みのタネになりそうなものが
かならずあるってことなんですね。
ええ。
あるんです。

ただ、そういうのに対して、
・お気楽にスルーできる
・ポジティブに受け止めることができる
・笑って受け流すことができる
・神からの試練、魂の成長のための課題
・あるがまま、ありのままでいられる

など、いい塩梅で受け止めるのがいいんですよね。
大事なんですよね。

たとえ怒ってしまっても、泣いてしまっても、愚痴ってしまっても、
いつまでも、そういうモードにいない。
気持ちを切り替えて、スルーして、そういうものなんだとして、
また朗らかになっていく。
こーゆーのが大事ですね。

反対によくないのは、
・何でも否定する
・感謝の気持ちが乏しい
・粗探しばかりしてしまう
・疑い深すぎる
・精神的にいつも重たい
・昔のこととや、将来のことを気に病みすぎる
・とにかくネガティブ
・ひたすらネガティブ

こういうのは、よくないですからね。
ホント、まずい。

で、こうした状態にあると、仮に超裕福であっても、
超恵まれていても、超美人・美男であっても、
いっつも心の中が灰色で冴えなくなります。
で、嫉妬で燃えさかって嫌味ばっかり言う、
そんな可哀想な人になってしまいますからね。
 

結局、世の中の幸不幸というのは「認識」なんですね。
認識。
ええ。
どういう風に認識するのかってことなんです。

とかく暗く受け止めたり、否定的に解釈したり、ネガティブなのは、
その認識・判断の経路が、そういう経路なんです。
だから仮に、他人からみて超ハッピーであっても、
当の本人はいつもふてくされているわけです。

なので問題や悩みというのは、その問題や悩みを解決しても心はすっきりしないんです。
その認識経路そのものを改めない限り、
今度は別の問題や悩みを見つけて、それで煩悶し始めます。
なので「ポジティブさ」がものすごく大事なわけなんです。
あるいはゆるりとしたほほえみのある「いまここ」。

仮に「太っているから」といって、ダイエットに励んで痩せたとしても、
今度は、別の問題や悩みを見つけて煩悶し始めます。
で、これを延々と続けていきます。

何が本当の問題になっているのか。
ここを見抜く必要があるわけですね。

 

なので、小さなことでもハッピーに感じたり、喜ぶほうが
断然、いいんですね。

小さなことでも、ものすごく感謝する。
よろこぶ。
ありがたいと、しみじみと思う。

そうすると、「いまここ「ありのまま」というのも体感しやすくなるんです。
高次のよろこび、自分から離れた喜びから、真我とつながりやすくなっていて、
その切り口の一つが、感謝、よろこびといった高次のメンタリティなんですね。

ただし単なる「感謝」ではないんです。
慈悲に近いんです。
このニュアンスをつかむ必要はあります。
 

「いまここ」と連なった「ハッピーさ」や「喜び」というのがあります。
意外と、これが知られていないといいますか、スルーされていたりします。

「いまここ」がもたらす幸福感みたいなものですね。
で、これを別の言い方をしますとね、
・慈しみの心
・施しの心

だったりするんですね。

ええ、実は、「慈しみの心」とか「施しの心」って、
その裏側に「いまここ」があったり、連なることがあるんです。

逆にいいますとね、「慈しみの心」とか「施しの心」が大きくなってくると、
「いまここ」ができるようになってくるんです。

で、「いまここ」とは「徳の感性」でもあるんです。
「叡智」ともいえますね。

で、こうした徳の感性とか、叡智を、別名「霊性」とも言っているんですね。
高次元の感性です。
単に言葉や観念で理解していると、その味わい、本質はわかりません。
まずは、小さなことでもよろこぶ、感謝するという習い癖が身につくことからだと思います。
 

しかしこうしたことを言葉でいいますと、ちょっと仰々しく感じられるかもしれませんが、
本当は「当たり前」のことでしてね。
それはまるで「子ども」のような無邪気な感じに近いところがあるかもしれません。
子どもの無邪気さ、そのものとは違うのは、
そこに徳に基づく感性があるってことですね。

ま、私も発展途上ですのでね。
あんまりなことは言えませんが、ただ、発展途上だからといって、
いつまでも黙っているのもどうなのかなあ、
なんて思うところもあって、最近は動き始めていますが、
これも試行錯誤の一つですね。

もし「ちょっとマズいかなあ」なんて思ってときは、
いそいそと引いてしまうと思います。

こうした世界って、世間のように「達成しる!」とか、
「目指せ◎◎!」とか、そういうノリとは全然、性質が違いますからね。

そこを履き違えますと、ちょっとヤバいんじゃないかと思います。
そうそう、ヤバいというのは、良い言葉ですね。

なぜなら
・慚(ざん);恥を知る心・・・マズい
・愧(き):悪いことを怖いと思う心・・・ヤバい

だからですね^^;

慚愧とは、マズい、ヤバいってことなんです^^;
マズい、ヤバいという体感は、実は大切だったりするんですね。

で、こっちのほうがわかりやすいんですね^^
 

というわけで、タイピングがおもむくままの
スピな独り言でやんすよ。
あなかしこ。