苦しみを味わうことが美しい・正しいと感じる無意識に注意

苦しみを味わうことが美しい・正しいと錯覚する無意識に注意

何らかの物事を成し遂げようとする際、苦労をして乗り越えることはドラマティックな物語になることもあってか、「苦しみを味わうことは美しい・正しい・恰好いい」と思ってしまう無意識(メンタリティ)があります。

いえいえ成果や実績を出すために、苦労を重ねることは、別段、問題ありません。創造する課程における「生みの苦しみ」であって、そういう苦労は当たり前かもしれません。

ここで問題にしていることは、成果や実績とは関係なく、いたずらに苦労をして、苦しみを味わい、苦しむことが美しいとか正しいとか恰好いいと思い込んでしまう「苦行好き」「苦労性」のマインドをいっています。

で、こうしたマインドに陥ると、理不尽な状況、困難な状況に耐え、苦労や試練を乗り越えることで人間的にも成長できるといった思い込み(信念)も出てきたりもします。こうした信念に「運鈍根」というのもあります。⇒運鈍根は成功要因だが旧い上にデメリットもある

しかし成果や実績につながることがはっきりせず、いたずらに苦労を重ねて、苦しみを味わうことに酔いしれる心は「錯覚」です。現代のような利便性の高い文明以前の、昭和・大正・明治・江戸時代が生み出した錯覚だったりします。

この手の錯覚に陥るのは、頑張り屋さんや努力家に、意外と多かったりします^^;昭和時代の「スポ根」精神なんか典型です。根性!努力!友情!といった少年ジャンプのノリもそうです^^;

無闇に頑張ってしまう。で、壮絶な苦労を経ることが美しいと感じる。無意識のうちに酔いしれる。

大変な困難や苦労を乗り越えることは感動をもたらしますので、無意識のうちに「苦労することはいいことだ」「美しい」「正しい」といった暗示が刷り込まれてしまう場合があります。

「ザ☆昭和」の遺物でもありましょう。

苦労を美徳とすると不幸・貧困に陥る

が、ここ数日、こうした「苦しみを味わうことが美しい・正しい」というのは錯覚であり、貧しさをもたらし、不幸をもたらすマインドであることを指摘している記事、動画、ツィッターを見ましてね。

「まったくその通り」と思いました^^たとえば、こちらの「マナブ」さんの動画はそうです。

【事実】お金を稼げない人の共通点【5つのチェックポイント/要確認】

6分35秒辺りからですね。

お金を稼ぐことを批判する人は、その言葉に自分が縛られて、お金を稼ぐことができなくなる。お金を稼ぐことができなくなるだけでなく、「努力すること自体が立派である」「お金は汗水たらして稼ぐべきだ」といった古い精神論に陥ってしまう。

これらはお金が無くても、一生懸命に頑張っていること自体が素晴らしいと自分を正当化してしまう、もっともらしいマインド(信念)です。

で、動画では「これはマズい」と指摘しています。ごもっともです。

起業家にも多い苦労に酔いしれる不幸・貧困マインド

こうした不幸・貧困マインドは、起業家にも多かったりします。実際、これを指摘している記事もあります。⇒自滅系起業家を指す新ワード「苦業家」とは? – BRIDGE(ブリッジ)

「自滅系起業家」「苦業家」と言っています。「苦労に酔いしれる起業家」であると。手厳しいですね^^;

で、こうしたタイプは結構多かったりします。具体的にいいますと、

  • ストレスで苦しんでいる自分を好む。
  • 一生懸命やっている姿を評価して生きる。
  • 苦悩しているなら「自分は正しいことをしている」と感じる。
  • 何か新しい挑戦をして苦悩することは美しい。
  • 終わりの無い徒労に陥りながら物事に取り組む(それが楽しい)。
  • 苦労しているからこそ「成し遂げているんだ」と感じる。
  • 苦労しているわりには目標を達成できない。
  • 快適さは起業家にとって「死」と感じる。
  • 平凡な状態は「悪」と感じる。
こうした傾向ですね。
で、「うーん、これはあるある」という感じですね^^;これらは「古い精神論」ということなんですね。「武士は食わねど高楊枝」と同じ属性の精神論です。要注意です。

で、「苦しみながら行うこと」を「美しい」と感じたり、「恰好いい」と思ったり、「オレって頑張っているじゃん」と妙に酔いしれるのではなく、成果をきちんと出すことに関心を持つことなんですね。

評価されるのは成長指標・成果。これを忘れて苦労を重ねるのはナンセンスということです。その実体は「苦労に酔いしれる不幸・貧困マインド」に過ぎないと。

仏教などの修行系の苦行好きも貧困・不幸マインド

で、これらの動画や記事を見て思うことは、仏教などの修行者にも、似たようなマインドが多いなあということです。実は頑張り系や修行系には、時々見られるマインドだったりします。

「頑張ることはまさに修行だ」「恰好いい」みたいな根性系精神論。「苦しむことが修行」みたいな^^;

これらなんかまさに「苦しんで頑張ることに酔いしれる」マインドです。厳しい禅道場で警策でブっ叩かれることに快感を憶えるマインドもそうです。修行好きな人に多いマインドです。自虐性に酔いしれる屈折した「ネガティブ自己陶酔」マインド。

が、ちなみにブッダは「苦行は無益だ」と断言しています。ええ。

ブッダはご自身の6年間に及ぶ苦行を、後年「まったく無益で役に立たない」として、ばっさり切り捨てています。

いたずらに自分を苦しめることや自虐性は「全く無益」ということなんですね。愚か者の行動。

で、苦行を否定して、中道を推奨しています。中道とは、第五図的な有り様です。苦楽の二辺のどちらにも寄りません。かといって苦楽の中間でもありません。苦楽という第四図的な有り様に属さない第三の道をいいます。

仏教の専門家も指摘する苦しみに浸ることのマズさ

ちなみに仏教の専門家には、いたずらに苦労したり苦悩することへ警鐘を鳴らしている方もいます。

ご覧の通りですね。「苦しみ抜いた末に良いことがある」と思い込んで、理不尽な状況に闇雲に耐えていることが愚かであることを指摘したツィートです。

こうした性質は「苦労性」ともいえます。なんでもかんでも苦労の素にしてしまう。

結局、無意識のうちに「苦労」が大好きなんです。なのであえて「苦労」や「困難」を選んでしまう。で、無意識のうちに、それを喜び楽しんでしまう。苦労が好きだから「苦労性」にもなる。

しかし瞑想や気功は、春の日のように朗らかでハッピーな感じでやるのがいいんですね。これはきちんとした瞑想や気功の世界では言われていることです。⇒柔和でやさしくも朗らかな「慧観(けいかん)」の雰囲気が大切

が、これがわかっていない瞑想や気功の世界もあります。が、それはあまりお勧めできません。

不幸と貧困を招く否定的なマインド

令和の今では、無闇にど根性で頑張るという精神論を振りかざす人は減ってきていると思いますが、昭和の時代には多かったものです。

で、苦労をすることに
「酔いしれる」
「美徳を感じる」
「正しい」
「美しい」
「格好いい」
とするのは、全て屈折した自虐性であり、「昭和時代のスポ根」そのものなんですね。

で、その実体は「苦労に酔いしれる不幸・貧困マインド」です。不幸にし、貧しくさせてしまう、悲しくも否定的なマインドなんですね。

だから仏教などの修行系の人には貧しい人が多いのかもしれません。いや貧困を美徳と感じる自己破壊・自虐性の精神が無意識にある。

そもそも仏教は、現世を否定しているかのような書き方もあります。こうした否定的な表現にも共鳴してしまい、ますます貧困路線に。

しかし、その本質は自己破壊です。自己破壊の傾向が、仏教の否定的な表現に共鳴共感している。これが本心・本音です。

けれども、仏教の専門家の中に、「こうした有り様はいけません」と指摘する人も出てきているということですね。健全な兆しも出てきていると思います。

苦労を美徳とする不幸・貧困マインドが蔓延した理由

こうした不幸・貧困マインドである「苦労礼賛」は、結局、昭和以前の江戸・明治・大正などの過去の時代は、物質文明が未発達だったため、貧しくも厳しい環境に、適応せざるを得なかったことに起因するところがあるわけですね。

昔は「辛抱する」ことが多かった。で、こうした厳し時代では「苦労=美徳」としないと、現実に耐えられなかったのでしょう。

だからこそ「苦労=美徳」という信念が広く浸透したんだと思います。

しかし現代では物質文明の恩恵があります。いたずらに苦労する必要はありません。

メンタル管理においても、何らかの信念や信念体系を信じることなく、「あるがまま」「マインドフルネス」といった方法もあります。「苦労=美徳」と信じる必要はありません。

春の日のように朗らかでハッピーなのが大切

文明が隆盛していく流れなのに、この正反対な思想を掲げるのは、いたずらに生きずらくさせるだけだと思います。

無理をして、自分に負荷を掛けすぎたり、苦しめるのはナンセンスです。春の日のように朗らかで、ハッピーな感じで行うほうが、実はよかったりします。

さらにいえば、一瞥体験をするなどをして、「それ」「本当の自分」がわかることがいいですね。いったんこれがわかりますと、それにくつろぐ有り様が大事になこともわかってまいります。
そう、いたずらに苦労をしたり、無闇に困難に遭遇することは、意味がない、無益だ、やるものではない。そういうことがわかってきます。

いたずらに苦労を重ねる、苦労を美徳に感じる、努力している自分に酔いしれるといったのはナンセンスということです。もっと本質に気づいて、ハッピーな感じで行っていくほうがいいんじゃないかと思います。

ただし例外がある

ただし例外があります。その例外とは滅罪・贖罪の場合ですね。罪滅ぼしです。

こうした場合は、苦労することで、無報酬のボランティアをすることで、その罪を減らす、滅ぼすことができます。これは「例外」です。

この話しはまた別の機会にでも。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です