自分探しが終わらないのは何かになろう・得ようとするから

自分探しが終わらないのは「何かになろう」「得よう」とするから

自分探し。
よく聞きますね。

けれども「自分探し」が終わらない人もいます。
でも、それは終止符を打ったほうがいいかもしれません。

答えを先に書きますが、自分探しが終わらない・答えがみつからないのは、「何かになろう」「何かを得よう」とするからです。

これがあるから迷い続けるんですね。

幼少から青年期にかけて一生の方向を決める衝動・天啓がある

人は、その幼少期から青年期にかけて、自分の方向性を決定づける「衝撃」のようなものを体験することがあります。

「これだ!」という衝撃です。
一種の「天啓」のようなものです。

この体験は、時に電撃を受けたような「ひらめき」があったり、現世における方向性を自覚させ、確信させる体験になることがあります。

たとえば、
「将来、◎◎になる!」
というのがそうですね。

小学生の頃から「ボクは将来、絶対に弁護士になる!」と周囲に言って、本当に弁護士になった方もいます。

こういう、一生を決定づける「自覚」が、意外と幼少期から青年期にかけて観られます。

幼少から子供時代にかけて特徴が見いだされる

ただ、このシグナルには、衝撃性が無く、ゆるやかで継続的に意識されるものもあります。

そのため、見過ごされたりすることも出てきます。

ですが、幼少から子供時代にかけて、誰でも必ず特徴が見いだされます。

将来、ビジネスに夢中になる人は、
小学生時代から商売ごっこをやっていたりとか、
その片鱗があったりします。
アーティストや職人もそうです。

衝動や天啓が無いケースもある

中には、
「なんとなく生きていくんだ」
「面白おかしくやっていきたい」
というのもあります。

こういう傾向の場合は、天啓のような「ひらめき」はないかもしれませんが、継続的に漫然と、子供の頃から「なんとなく生きていくんだ」というのを意識しています。

この結果、大人になっても「なんとなく」といったスタイルで生きていくことにもなっています。

ちなみに、こういう生き方が「悪い」ということはありません。これを「悪い」とするのは、あまりにも短絡的であったりします。

幼少期から子供期にかけて異熟は見いだされる

どういうかたちにせよ「異熟(いじゅく)」は、幼少期から子供期にかけて、必ず見出されます。

その人の核(コア)となる部分ですので、よく観察していると、必ず見られます。

そうして、その傾向を活かしていくことが、幸福感につながりやすいということですね。

自分の核(コア)を知り、それを活かすことが、幸せの第一歩にもなるということです。

自分に無いものを求めるのはよくない

一番よくないのは、自分に無いものを求めたり、作り上げた自分を、自分と思い込んでしまうことです。

特別に問題が無いにも関わらず、本来の自分(異熟)と違うものを求めることが「高望み」となります。

で、「自分探し」とは、そのまんまの自分に価値を感じることができず、何か他に価値があるんだろうという思い込みが無意識の中にあって、その無意識の思い込みに従って「自分の価値を探す」ということをしている行為だったりします。

つまり「自分探し」の本質は、自分に無いものを求めようとしたり、自然な自分への価値が感じられないといった「感性」の問題だったりします。

要するに、自分探し自体が間違いなわけですね。
迷いだったわけです。

何かになろうとするのではなく、ただある

肩の力を抜いて、自然体になる。
何かになろうとするのではなく、ただある。

そこから自ずと、自分の存在そのものが愛おし感じられ、今の連続の中から「自分らしさ」が実感できるようになる。

ここが実感されてくると、「自分探し」が迷いであり、無意味であり、脳内の妄想だったことに気づきます。

何かになる・目標を達成する・成果を出すは苦しみとなる

人は、幼少の頃から「何かになる」「目標を達成する」「成果を出す」ということが徹底的に教え込まれています。

そのために「自分とは何か?」という問いに対しても、同じように、「何かになるこtだ」「目標を達成することだ」「成果を出すことだ」と、無意識のうちに感じて、その答えを、その理想像を追い求めるようになります。

しかし、この行為は苦しみです。
苦しみの行為になります。

ビジネスに多い「願望成就」というのは、そもそも「高望み」になりやすいスタンスだったりします。

このようなことをやってしまって、疲れてしまったり、ストレスが大きくなることが、意外と多いんですね。

だから、こうしたベクトルをは正反対の「いまここ」。「あるがまま」なんです。

「自分探し」は地獄になる

特に問題が無い人の場合、「自分探し」は地獄になります。迷いのドツボにはまっていくようになります。

なぜなら、本来の自分とは異なるモノを求めること自体が、歪んだ「見解」だからです。

「自分らしい」というのは、「自然体」ということになります。その自然体とは、心が穏やかであることのみならず、自分の「異熟」に沿った生き方でもあったりします。

「何かになろう」「何かを得よう」とするのではなく素直に

「何かになろう」「何かを得よう」とするのではなく、自分の異熟に素直になることですね。

そして、これこそ「自分探し」の終着駅です。
本当の意味での幸せのはじまりです。

自分探しは迷いであり、無意味であり、妄想だったということに気づけば、しめたものです。

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