法句経(ダンマパダ):第十四章ブッダ~仏教の重要なエッセンスが盛り込まれた短いお経

法句経(ダンマパダ)第十四章ブッダは重要なお経

法句経(ダンマパダ):第十四ブッダ

「法句経(ダンマパダ)」は「最古の経典」の一つになります。
「スッタニパータ(経集)」と同じ、古層に属する経典ですね。
で、どちらもパーリ仏典という原始仏典になります。
また「小部経典」というカテゴライズに入っています。

そんな「法句経(ダンマパダ)」なのですが、
「第十四章ブッダ」は、短いお経でありながら、
仏教では大切な教えが凝縮されています。

涅槃は神々でさえもうらやむ状態

179
ブッダの勝利は敗れることがない。
この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。
ブッダの境地はひろくて涯しがない。
足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180
誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。
ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。
足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

181
正しいさとりを開き、念いに耽り、
瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。
神々でさえもかれを羨む。

これは注目に値する言葉ですね。
「さとり(解脱)」は神々もうらやむほどの幸せということなんでしょうね。

悟り・解脱は、超然とした存在になるというのはある種のイメージであって、
天界の神々が享受する幸福感よりももっとすごい「しあわせ」な状態なのでしょうね。
だからこそ「神々でさえもうらやむ」のでしょう。
これは重要なお経ですね。

人身受け難し

182
人間の身を受けることは難しい。
死すべき人々に寿命があるのも難しい。
正しい教えを聞くのも難しい。
もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい

有名な「人身受け難し」ですね。
大内青巒が作った「三帰依文」にも採用されているブッダの言葉です。

三帰依文(大内青巒作)~「人身受け難し」は法句経(ダンマパダ)182よりの言葉

「人身受け難し」は本当か?~2600年前のインドは過疎っていた:当時の大都市ブッダガヤでも3万人で人間が少なかった

七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)

183
すべて悪しきことをなさず、
善いことを行い、
自己の心を浄めること。
これが諸の仏の教えである

これは有名な「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」です。
・諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・もろもろの悪をなさない
・衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)・・・もろもろの善を行う
・自浄其意(じじょうごい)・・・自らその意(こころ)を浄める
・是諸仏教(ぜしょぶつきょう)・・・これも多くのブッダが説いた教え
⇒wiki

正しい道を歩む者は他人を攻撃しない悩ますことはしない

184
忍耐・堪忍は最上の苦行である。
ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。
他人を害する人は出家者ではない。
他人を悩ます人は「道の人」ではない。

「涅槃は最上」ということですね。
また他人を攻撃したり、悩ますような人は正しく道を歩んでいないということです。
時々「ワシは悟ったのだ!覚者になったのだ!」と言いながらも、
傲慢になり、敵がい心をあらわにして人を批判しまくって攻撃する人も出てきます。

が、それはブッダの教えからみれば間違いということですね。
本物ではありません。
そういう人は「外道」といいます。
現代風にいえば「悟りサイコパス」ですね。

涅槃は最上

186
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

これは涅槃を体現していないと、高い確率で誤読する文言ですね。
お経は文字だけで解釈すると誤読することが多くなります。
この文言も、その境地にいないと誤読するでしょう。

187
天上の快楽にさえもこころ楽しまない。
正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

天界の幸福感や心地よさは絶大ですが、
それをも凌駕するのが「涅槃(ねはん)」なのでしょうね。

人は何かに依存する

188
人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。

人は何かに依存するということですね。
しかしこれはある程度、やむを得ないものもあると思います。
社会生活をしていれば、お金が必要ですしね。
お金に依存しています。
でも本当にお金を断てば死亡してしまいます。

この文言もそうですが、涅槃を体現したブッダの感想になります。
実際に生活している私たちは、現実の生活を大事にして生きながらも、
真理(涅槃)とは、そういうものなんだなあと憶えとどめておくのが現実的だと思います。

189
しかしこれは安らかなよりどころではない。
これは最上のよりどころではない。
それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。

四聖諦(ししょうたい)

190 、191
さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、
正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。
すなわち
(1)苦しみと
(2)苦しみの成り立ちと
(3)苦しみの超克と
(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八聖道)
とを(見る)。

これは有名な「四聖諦(ししょうたい)」ですね。
苦聖諦・・・三相(この世は無常、苦、無我)
集聖諦・・・縁起(心は縁(よ)りて起(お)きている)
滅聖諦・・・涅槃(苦と縁起を超えた涅槃という絶対安心の状態がある)
道聖諦・・・八正道(涅槃を体現する道「八正道」がある)

192
これは安らかなよりどころである。
これは最上のよりどころである。
このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。

涅槃を体現した人の生家は幸福になって栄える

193
尊い人(ブッダ)は得がたい。
かれはどこにでも生れるのではない。
思慮深い人(ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。

これは味わい深い文言です。
もしも親戚家族の中から、真理に目覚めた人が出てきたならば
その家は幸福に栄えるという言葉ですね。
これは逆にいいますと、ブッダの教える「涅槃」は、
一般的な意味合いにおける「しあわせ」とも結びつく性質があるということですね。

「積善の家には必ず余慶あり」といった儒教的な教えにも通じます。

時々ノンデュアリティのように「この世界は幻なので、何やってもいいんです、
好きにやっていいんです、ドラッグをしても何をやってもいいんです」と言う、
O.N.さんのような自称日本人覚者も出てきますが、
ブッダの教えの観点からみれば、これが間違いであることがわかります。

この現象世界は虚妄なので、他人に迷惑をかけても、
ぶっ壊しても、何やってもいいんだとというのは完全な間違いということです。
で、ブッダは、このような「道徳や因果関係を否定する」悟りや
そういう覚者を「外道(げどう)」と言って手厳しく諫(いさ)めています。

ブッダが説く「解脱」「涅槃」は、娑婆世界(この現象世界)の幸福や安定をも包括し得る、
そういう平和的な性質なのでしょう。
一部の禅やノンデュアリティが間違いであることは、
ブッダのお話しを聞きますとわかってまいりますね。
これも重要な教えが説かれたお経です。

三宝(仏・法・僧)

194
もろもろの仏の現われたまうのは楽しい。
正しい教えを説くのは楽しい。
つどいが和合しているのは楽しい。
和合している人々がいそしむのは楽しい。

これは「三宝」のことを指しています。
三宝とは「仏・法・僧」ですね。
この文言の上から、それぞれ
 仏(覚者)がいることは楽しい
 法が説かれているのは楽しい
 僧があって和合しているのは楽しい
仏法僧の元で精進しているのは、これまた楽しい
といった意味になります。

聖者への供養は果報が絶大

195 、196
すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、
何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、
もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、
この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

これも興味深い文言です。
ブッダやその道を実践している心ある人達を尊敬し、礼節をもって対応し、
物心両面にわたって援助をするならば(これが「供養」の原義)、
その果報は絶大であるということですね。

この供養の功徳の教えがあるため、ミャンマーやタイでは、
在家が出家を徹底的に支えお布施をする社会システムが作られたくらいです。

ちなみに真理に目覚めた人を支援したりお布施することが幸せの超特急であることは、
パーリ仏典・中部経典142「施分別経」に詳細に伝承されています。

仏教における重要なエッセンスが盛り込まれたお経

「法句経(ダンマパダ):第十四ブッダ」は大変短いお経でありながら、
仏教における重要なエッセンスが盛り込まれています。

・四聖諦(ししょうたい)・・・三相(無常・苦・無我)、縁起、涅槃、八正道
・七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)・・・諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
・三宝・・・仏・法・僧
・涅槃・・・神々もうらやみ神々の幸せをも超える最上のしあわせ)
・供養・・・供養(お布施)の果報は絶大
・外道・・・他人を攻撃しない悩ます悟道、道徳・因果関係を否定する悟り
・人身受け難し・・・六道輪廻と人間の時代に修行することの奨め
・人は何かに依存する
・涅槃を体現した人の家は幸福になって栄える・・・積善の家には必ず余慶あり

これだけ重要なエッセンスが詰まった短いお経も珍しいかもしれませんね。
「法句経(ダンマパダ):第十四章ブッダ」は重要なお経です。