智慧と知恵は違う

今日は智慧と知恵について。

智慧と知恵。
これは違います。

智慧とは何か?~悟りと真我がもたらす知性・叡智

智慧は大切です。
智慧と愛は一致します。
人間にとって、智慧を伸ばすことは、そのまま幸福にもつながります。

ところで智慧。
智慧とは一体、何なのか。

智慧とは、仏教の言葉ですが、
人を悟りに向かわせ、悟りから生じる知性を智慧といっています。
これが本来の「智慧」。
次元を異にした宇宙的な知性ですね。
悟りそのものがもたらす知性です。

しかし、こうした智慧のほかに、高次元な知性のはたらきをも指します。
本能や無意識レベルから生じる善を感受する能力や判断をもいいます。
善に対する認識力や判別力で、善に基づいて適切に分別し行動できる能力
でもあります。
これも智慧です。
これは「真我」といった宇宙意識がもたらす知性といってもいいでしょう。
叡智(えいち)ともいいますね。

宇宙意識

悟りの智慧にしても、真我の智慧にしても、
いずれにしても智慧があると人間として賢くなります。
人間として「賢いな」と思わせるのが「智慧」です。
学校の勉強ができなくても、智慧に長けると、人間的な賢さがでてきます。
感じさせます。

空気を読んだり、行間を読んだり、言語化できない世界での判断力。
察する力。
惻隠の心。
こうしたものも智慧といえます。
智慧は、静かな性質もあります。

知恵とは何か?~知識がもたらす知性

一方、「知恵」。
知恵は、知識レベルの判断力なりの脳力です。
本を読んだり聞いたりして、知識をたくわえて習得できるものです。
お勉強を一生懸命にすれば身につきます。

しかし「コンピューター」にもできます。
AIがまさに知恵の塊になるでしょう。
左脳的です。
言語で認識できるものです。
情報処理です。

物事を白黒で判断したがったり、
モデルや概念、唯物的に物事を見ていきます。

知恵は表層的で、ごちゃごちゃしています。
分析的でもあったりもします。

知恵はあっても智慧がない人

「智慧」と「知恵」とは違います。
「知恵」に長けても、「智慧」が無い人はいます。
学校の勉強がよくできても人間的に愚かな人です。

こういう人いますよね。
知識人に結構いたりします。
官僚なんかにもいます。
理屈だけでジャッッジして、ドライに割り切ってしまう。
こうした人は、物知りであったり、理屈に長けていても人間として愚かになってしまいます。
視野狭窄になってしまっているんですね。

あるいは相手の意向も踏まえず、ズカズカと親切の押し売りをする人もそうです。
ご自身の「真の動機」に気がついていないんですね。

相手がへりくだっているのを見ると、
それを謙譲と思わず、高圧的な態度に出たりして、
支配的に振る舞おうとするのもそうです。
これは西洋人に多いケースです。
サイコパスはこれが極端になったケースです。

知恵が無くても智慧がある人

反対に「知恵」が無くても、「智慧」に長けた人がいます。
学校の勉強は苦手でも、本当の意味での善を知り、
深いところから生じる判断力なり認識力を持った方です。

このタイプは、学問とかをやっていない、ふつーの日本人に多くいらっしゃいます。
田舎の人にも多かったりします。

天然で素朴、純朴なんだけれども、言うことが的を射ていて響く。
「ああ、そうだなあ」と思わせます。
人として賢いんですね。

知恵も無く智慧も無い人

しかし中には、知恵も智慧も乏しい方もいます。
これは困った。
お勉強も苦手。
人としても愚か。
うーん、こういう方は、刺青とかして、コンビニを襲ったりもしますね。
愚かの極みです。

理想的なのは、知恵も智慧も両方兼ね備えているケースです。
仏教では、このタイプを「三因の生まれ」といっています。

大切なのは知恵よりも智慧

大事なのは「智慧」のほうです。
世の中、この現象世界を巧みに生きていくのは、知恵があったほうがうまくゆきます。
お金の知恵、仕事の知恵、人間関係における知恵に長けていると、
世渡り上手にもなって、現象世界における「しあわせ」を享受もしやすくなります。

けれども知恵があっても智慧が無いと、人間は愚かになります。
愚かになります。
智慧が無いと、本当に愚かなことをやってしまいます。
本当の意味での善悪が分からないからです。

智慧は、本当の意味での「善」をかぎ分けます。
ですから智慧が高まっていくと、必然的に「善行」的になり、
善をかぎ分ける嗅覚も鋭くなっていきます。

善とは何か?~心が澄み浄まっていること

ちなみに「善」とは、法律的に正しいという意味ではありません。
そういう教条的なものとは違います。
法律の中にも、善と重なるところもありますが、必ずしも「善」と一致しません。
法律の中には悪法もあり、利権の温床にもなっているものがあります。

「善」とは「正しい」ことですが、それは「心が澄んでいること」をいいます。
仏教的にいえば「煩悩が無い」とか「煩悩が少ない」ことですね。
肩の力が抜けて、余計な力みもなく、スっと澄んでいる状態。
自然体ですね。

心身がともに自然体になりますと、智慧が発動しやすくなって、
宇宙の理に基づいた善が体感的に感覚的にわかるようになります。
この辺りの嗅覚がありますと、善と悪の違いもわかるようになります。

自己観察によって智慧に開かれ高めていくことができる

人間にとって大事なことは、智慧を磨いていくことになります。
そうして智慧を磨くためには、「自己観察」が必要になります。

自分の心(中でも動機)を観察をして、自分の心の動きを、逐一追っていくことですね。
観続けていく。
何故、そう思ったのか。
何故、そう感じたのか。
そう思い、そう感じているのは誰か。
真の動機は何なのか。

こうして自己観察を続けることによって、その原因なり認識の主体に気づまいりますと、
その人なりに、智慧が開かれ、磨かれてもいくようになります。

智慧を伸ばすには、内省、黙想、自己観察。
自分の本当の動機に気づき、誤魔化さないこと。
これはクリシュナムルティも行っていたことです。

人としての賢さ。
知識から生じる知恵もさることながら、
自然宇宙がもたらす智慧が必要ですね。

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